きっと
せっかくお風呂に入ったのに、脂汗が全身から吹き出す。
足元の感覚が遠のく。闇の底へ引きずり込まれるようだった。
見てはいけない気がした。
どのぐらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろう。
気づけばすっかり湯冷めしていて、くしゃみで正気に戻った。
今見ないふりをして、それでどうなる?
私はどうするべきなのだろうか。
もしかしたら私の勘違いで、なんでもない内容かもしれない。
そう考えても、背中の嫌な汗は引かなかった。
昨日からずっと先輩のことを考えていて、いい加減ムカムカしてきた。
怒りに任せてスマホを拾う。
送り主は一ノ瀬蓮。
一ノ瀬蓮とは、先輩の名前である。
5ヶ月近く思い出さないようにしていた名前。
こんなタイミングじゃなければ、先輩からの初めてのLINEだ、と喜んでいたかもしれない。今は、まったく嬉しくなかった。
「話したいことがある。できれば、直接。」
全身の毛が逆立つ。
嫌な想像が脳を駆け巡る。
血が沸騰したように、首と顔が熱くなる。
スマホを投げ捨てたい衝動を必死に抑える。
ああだめだ、抑えていた感情の蓋が緩んでしまう。
捨てたはずの先輩への執着まで、再び燃え上がらんとしている。
◇
先輩からLINEが送られてきて数日経ったが、まだ既読もつけていなかった。今更話なんか聞きたくないという思いもあった。けれど、一番は先輩から何を言われるか怖くて返信する勇気がなかっただけだった。自分が先輩を傷つけてしまうことも、また恐ろしいことの一つだった。幸いにも先輩は卒業していて、学校で会う心配はない。問題を先送りにしているだけとわかっていても、LINEを開くことすらできなかった。
それでも、先輩からLINEがくるぐらいには自分は先輩にとって近しい人間だったのだという優越感があった。それと同時に、先輩からの感情がネガティブなものであることを恐れる気持ちも、日に日に肥大化していった。
そんな私の気も知らず、周りはむかつくくらいにいつも通りだった。彼女も、いつものように私を誘う。あんなタイミングじゃなければ、と何度も思った。けれど、今更どうにもならないこともわかっていた。
「ねぇねぇ、凪ちゃんって呼んでもいい?こ今日はみんなでプリクラ撮りにいくんだ〜一緒に行かない?」
その時私の中で何かが弾けた。弾けてしまった。
「なんのつもりなの?私なんか誘って」
「?どういう意味?」
「どうせ、私がいつも一人でいるから同情でしょ?そういうの。迷惑なの。周りからも白い目で見られるし」
「…」
彼女からの返事はない。顔を上げると、彼女は苦しそうに顔を歪めていた。
しまった、と思った。そんな顔をさせるつもりはなかった。
私は今なんて言った?
彼女は今何を考えている?
周りからの視線が痛い。
血の気が引いていく。
視界が真っ暗になっていく。
――気がつくと、私は教室から逃げ出していた。
◇
どれだけ走ったのだろう。足がもつれ、そのまま地面にうつ伏せに倒れた。
何もかもうまく行かなくて、悔しさで涙が溢れた。
私は一体何がしたくて、こんなことになってしまったのだろう。
このまま地面に溶けて、消えてしまえたらいいのに。
「大丈夫ですか?ん?凪、ちゃん?」
その声には聞き覚えがあった。嫌というほど。
「何してるのこんなところで、今学校じゃ…」
顔がカッと熱くなって、起き上がり、そのまま反対方向へ走った。
しかし、相手がそのまま放っておいてくれないこともわかっていた。
でも、逃げずにいられなかった。今は、一番顔を見たくないし、見られたくもなかった。
当然逃げ切れるわけもなく、腕を掴まれて引き止められる。
「なんで逃げるの?なんかあったんじゃないの?俺でいいなら話聞くから」息を整えながら、先輩はそう言う。――聞き覚えのある声の正体は、一ノ瀬蓮だった。
久しぶりに聞いた蓮先輩の声に、思わず嗚咽が漏れる。それでも、今は蓮先輩と一緒にいたくなかった。腕を振り解こうともがく。蓮先輩は、私の腕を離さないように、でも痛くないように、しっかりと握っていた。今は、そんな蓮先輩の優しさも苦しくてしょうがなかった。蓮先輩は何も聞かない。ただ、私が何か話し始めるのを待っているみたいに、黙って腕を握っていた。
蓮先輩は、私のことをよくわかっている。伊達に一年ペアを組んでいたわけではない。
蓮先輩はのほほんとしているように見えて、私以上の頑固者だ。
いつも私が折れるのが、私たちの通常運転だった。
それでも、今回は折れるわけにはいかなかった。
どれだけ沈黙が続いただろう、蓮先輩が先に口を開いた。
「俺が送ったLINE、見てたんでしょ?本当は。」
「…」
「それくらい、わかるよ。ずっと一緒だったから」
蓮先輩の優しい声で、胸が締め付けられる。堪えきれずに涙が溢れる。
「凪ちゃんが話したくないなら、無理に聞かない。でも、落ち着くまでそばにいる」
なんでこの人は、私にここまでしてくれるんだろうか。憎しみさえ湧いてきそうだ。
私の情緒はぐちゃぐちゃで、今すぐにでも蓮先輩の胸に飛び込んでしまいたかった。しかし、そんなことをしたら余計に辛くなるだけなのもわかっていた。
蓮先輩の言葉に、私は余計に涙が止まらなくなる。私がよほどひどい顔をしていたのか、一度腕を離し、自分の上着を私の頭に被せてくれた。もう逃げる気力すら残っていなかった。蓮先輩は再び私の手を握る。今度は、ただ優しく。手の温もりが手のひらから全身に広がっていくような気がした。
「……5ヶ月前のこと覚えてますか……?」
「凪ちゃんが、俺の事怒鳴ったこと?」
「はい……。私ずっと謝りたくて、蓮先輩の優しさを否定したかった訳じゃないのに、感情任せに怒鳴ったりして、蓮先輩の話も聞かないで……。」
「うん。」
「私、勝手に蓮先輩を決めつけて、私の想像と違ったら責め立てるなんて…、自分勝手で、馬鹿な行動だったって思ってます…」
「うん。」
「何回も謝ろうって思いました。でも…、蓮先輩の顔見ると苦しくて、息ができなくなって、まともに会話も出来なかった……」
「うん。」
「蓮先輩に許してもらおうなんて思ってません。私、もうどうしていいかわからなくて……」
「そっか…。」
「…」
「……俺の、話したかった事なんだけどさ、実は凪ちゃんと同じで。謝りたかった訳じゃないんだけど、ちゃんと話をしたかったんだ。どうせこのまま疎遠になるんだったら、喧嘩別れになってもいいから、もう1回凪ちゃんと話したかった。連絡もらえなかったから、てっきり嫌われたんだと思ってたんだけど…、そうじゃなかったんだね。」
「私も!それ、思ってました…蓮先輩を私が嫌ってるって思ってるんじゃないかって…、でも私が蓮先輩に嫌われちゃったと思ってたから、訂正しても迷惑かと…」
「はははっ、俺たち同じこと考えてたんだね。」
目に浮かぶ笑い涙を、蓮先輩は拭いながらそう言う。私の中にあったしこりが、溶けて消えていった。
「私その……私が怒鳴ってしまった時に、蓮先輩に、彼女がいるって知って。今まで、ベタベタしすぎてたかな……って思って、蓮先輩に、どう接していいか、わからなくなってしまって……」
「ああ、そういうことか…。凪ちゃん俺のこと嫌いになって、急に距離をとるような子じゃないもんね。知らないうちに俺が何かしちゃったんだと思ってたけど、そうじゃなくて良かったよ」
「でも!私、勝手な理由で蓮先輩を避けて、いつもいつも蓮先輩の優しさに甘えてばっかりで、私何も返せないのに…」
「…」
沈黙が私の体を刺す。
殺すなら早く殺してほしい。
「…本当に凪ちゃんが言うみたいだったら、俺は凪ちゃんとずっと一緒にいたりしなかった。多分、今もここにはいないよ。俺も、そこまでお人よしじゃない」
涙が溢れた。嬉しいのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。
不意に手を繋いだままであることに気づき、恥ずかしくなって手を振り解こうとする。
しかし、蓮先輩はいたずらっ子みたいな顔をして、決して手を離さなかった。
手の温かさが心地よくて、時間が永遠に止まればいいのにと思った。
私の方から恐る恐る手を握り返す。蓮先輩は少し驚いた顔をしていたけれど、私の手を離しはしなかった。
「凪ちゃん!」
振り返ると、彼女が立っていた。今の今まで彼女のことを忘れていた自分に驚いた。彼女は息を整えながら、何か言おうとしていた。額には大粒の汗が浮かんでいた。今まで彼女は私を探して、走り回っていたのだろうか。
「凪ちゃん、あのね…。ごめん!私のせいでクラスの女子が凪ちゃんに辛く当たってるなんて、全然想像もしてなかった!」
謝罪されるなんて思ってもみなくて、一瞬、時間が止まる。私もちゃんと彼女と向き合わなければいけない気がした。
「そんな、私の方こそイライラしてて、七瀬さんにひどいこと言った。…ごめん」
ごめんという声が思ったよりもか細くなり、自分が情けなくなる。
「ううん。凪ちゃんが教室飛び出して行った後、みんながやっぱり朝霧さんは私に釣り合わないとか言ってきてね、どういうこと?って聞いたの。私のせいで、居心地悪かったよね?本当にごめん」
私の声は小さくなる一方で、彼女の声はどんどん熱を含んで、大きくなっていく。どんどん自分が情けなくなっていく…。
「違うの、七瀬さんは悪くないよ。私がちゃんと断らなかったのも悪かったし、七瀬さんは、私を遊びに誘ってくれてただけでしょ?」
「でも…」
「ううん、いいの。謝らないで。」
無言が流れる。
「あの〜、俺どっか行ったほうがいい?」
蓮先輩が口を開く。
「えっと…凪ちゃんの知り合い?」
「えっと…、こちら一ノ瀬先輩、部活の先輩。こちら七瀬さん、私のクラスメイト…」
「二人は付き合ってるの?」
「は?!そんなわけないじゃん!」
「え、でもさっき手繋いでなかった?」
「それは…、そういうのじゃないから!」
「そんな食い気味に否定されると、傷つくな〜」
「彼女いるのに何言ってんですか!」
「凪ちゃんって、そっちが素なの?」
七瀬さんがくすくす笑っている。蓮先輩とこんなふうに話したのは、5ヶ月以来だった。
「教室と全然雰囲気違うんだね。私そっちの方が好きだよ」
七瀬さんが私をひき寄せて、耳元で囁く。
「凪ちゃんは、先輩のこと好きなんでしょ?」
顔から火が出そうになる。
「あははっ、凪ちゃんかわいい〜。先輩もそう思いません?」
「そんなこと聞かなくていいから!」
七瀬さんがこんなに無邪気な人だと思わなかった。
先輩との話も、七瀬さんとの話も、もう続けられそうもなかった。
私がひとしきり二人に振り回され、日が傾いてきていた。
「じゃあ、俺そろそろ帰るから。またね凪ちゃん」
手を振って見送り、遠ざかっていく背中を見つめる。
「じゃあ私たちも学校戻ろうか。私荷物学校に置きっぱなし。凪ちゃんもでしょ?」
「うん」
そういえば今はスマホも持っていなかった。部活はとっくに終わっているだろうけど、部活にも何も連絡を入れていない。
「どっちが先に戻れるか競争する?」
「え?」
言ったとほぼ同時に、七瀬さんは走り始めていた。
普段なら追いかけたりなんかしなかっただろう。
しかし、今日は夕日を横目に走りたい気分だった。
昨日からさっきまで、いろんなことに思い悩んでいたのが嘘みたいに、
晴れやかな気分だった。
何も解決はしていないかもしれない。でも、今はそれで良かった。




