血と祈りの一夜
『七つの罪書 -Life Dealer-』第一話 ロンドン編
プロローグ 「雨の路地で、命を売る」
雨が、しつこく降っていた。
冬でもないのに、骨まで冷える雨だった。
アスファルトに叩きつけられて砕けた水滴が、車のライトをぼやかす。
その路地は、街のメインストリートから一本外れただけなのに、
急に世界から切り離されたみたいに暗かった。
「……は、っ……」
鬼塚貞樹は、壁にずりかかるようにして座り込んでいた。
スーツの内ポケットには、まだ中身の残ったスマホと、くしゃくしゃになった封筒。
封筒は、さっきまで“証拠”と呼ばれていたものだ。
今はただ、血と雨でふやけた紙切れにすぎない。
胸の真ん中に、鈍い痛みがあった。
呼吸をするたび、肺の中で何かがぶくりと泡立つ感覚がする。
指先を伸ばせば、シャツのボタンの隙間から、その泡――自分の血が流れ出ているのが分かった。
(……撃たれた、か)
頭のどこかが、場違いなくらい冷静に状況を整理する。
車。
信号。
曲がり角。
その全部が、視界の端で歪んでいく。
撃ったのは誰か。
知っている顔か。
知らない顔か。
考えようとして、どうでもよくなる。
知っていようがいまいが、撃たれたという事実は変わらない。
「……っは」
笑いとも咳ともつかない息が漏れた。
胸が焼けるように痛い。
今さらだ。
こんな死に方は、何度も予想していた。
路地裏。雨。誰にも見つからないうちに、冷たくなっていく自分の体。
(ま、こんなもんだろ)
鬼塚は、天を仰いだ。
空の色は見えない。
代わりに、街灯のオレンジが、雨粒を通して滲んでいる。
そこで、異物が視界に割り込んできた。
黒い傘の縁。
その下から、緑色の髪が覗いている。
「ねえ」
声が、落ちてきた。
「死ぬのと、生きるのと、どっちがマシ?」
鬼塚は、しばらくその顔を見ていた。
小さい。
身長も、顔立ちも、声も。
ぱっと見、中学生か高校生くらいのガキだ。
だが、瞳だけが違っていた。
色はきれいな緑なのに、奥がやけに古い。
何十年もこの街を歩いてきたような眼だ。
「……ナンパか?」
鬼塚は、咳き込みながら吐き捨てた。
「悪いけど、そういう趣味は……ゲホッ」
「おや、まだ冗談を言う余裕はあるんだ」
ガキは、感心したように目を丸くした。
「胸、撃たれてるよね? 心臓、ちょっとかすってる」
「“ちょっとかすってる”言うなよ……こっちは結構なダメージなんだよ……」
「だよね。
このまま誰にも見つからなければ、あと五分くらいで死ぬかな」
さらっと宣告された。
鬼塚は、笑えなかった。
「……五分か」
「正確には三〜七分のブレがあるけど、平均値として」
「細かく言うな」
胸の痛みが、逆に遠くなる。
冷たさだけが、指先からじわじわと這い上がってきた。
これが“死ぬ”って感覚か、と他人事みたいに考える。
ガキが、傘を少し傾けた。
雨が、鬼塚の顔へまた降りかかる。
「で、どっち?」
「どっち、って?」
「死ぬのと、生きるの」
ガキは、あくまで軽い口調だ。
「ここで死んじゃうか、もうちょっと先延ばしにするか。
どっちがマシかって聞いてる」
「そんなもん……」
鬼塚は、言いかけて口をつぐんだ。
“生きたい”と言うのは、なんか違う気がした。
逃げるつもりも、償うつもりもなく、ただ組から金と情報をかっさらって、
海外にでも消えるつもりでいた男が、今さら何を、という話だ。
“死にたい”でもない。
死ぬのは怖い。
痛いのは嫌だ。
でも、それを正直に言うほど、素直でもない。
「……どっちもクソ」
やっと出た言葉が、それだった。
「生きてりゃ、またクソみてえな仕事して、人殺すかもしんねえ。
死んだら死んだで、なんも変えられねえまま、全部投げっぱなし。
……どっちも、マシとは言えねえな」
ガキは、「うん」と頷いた。
「分かるよ。
どっちもクソだって思うときに、“選べ”って言われても困るもんね」
「分かるなら、ほっといてくれねえかな……」
「でも、第三の選択肢がある」
ガキの瞳が、わずかに光った。
「“命を、一回手放す”っていう選択肢」
鬼塚は、眉をひそめた。
「……なにそれ。宗教勧誘か?」
「宗教じゃないよ。商売」
ガキは、胸ポケットから何かを取り出した。
くすんだ色の硬貨だった。
銀とも金ともつかない、古びたコイン。
中央には、砂時計と天秤を組み合わせたような紋章が刻まれている。
「命取引屋、ギミック・フレドリア」
ガキ――ギミックは、さらっと名乗った。
「僕の仕事は、“死ぬはずの命”と“まだ続くはずの命”を、時々取り違えてあげること。
その代わりに、ちょっとだけ手数料をもらう」
「……保険屋の悪いバージョンかよ」
「保険屋が聞いたら泣くよ、それ」
ギミックは笑いながら、硬貨を指で弾いた。
コインは、何の支えもない空中でひらりと舞い、鬼塚の目の前で止まる。
表面で、細かい砂が落ちているのが見えた。
「これが、今の君の残り時間」
硬貨の中の砂は、もうほとんど底に溜まっている。
「このままだと、あと数分で“ゼロ”。
でも、もし君が命を僕に“売る”って言うなら――」
「なら?」
「“別の寿命”を一時的に貸してあげる。
君はしばらく生き延びる。
その代わり、“君の元の寿命”は、僕が預かる」
鬼塚は、目を細めた。
「意味が分かんねえ。
それ、結局“寿命延ばす”って話だろ?」
「違うんだよ」
ギミックは、楽しそうに指を振った。
「“延ばす”んじゃない。“入れ替える”の。
本来なら今日ここで終わるはずの君の命と、
本来ならどこか別の場所で終わるはずだった誰かの命を、一部交換する」
「……それ、“どっかの誰か”はどうなんだよ」
「ちゃんと“了承”を取ってるから大丈夫」
「どんな了承だよ」
「死ぬ直前に、『まだ死にたくない』『やり残したことがある』って思うでしょ?」
ギミックは、軽く肩をすくめた。
「その“未練”の切れ端を、こっちに回してもらうんだ。
“全部”じゃないよ。“切れ端”だけ。
残りはちゃんと、その人の死として完結する」
「……やっぱ詐欺くせえな、その説明」
「法律的にはグレーかもしれないね」
法律どころか、この世のルールから外れている。
鬼塚は、薄く笑った。
「そんな怪しい話、誰が信じるかよ」
「君は信じなくていいよ。
どうせ、選べるのは結果だけなんだから」
ギミックは、にこりと笑う。
「ここで血を全部流して終わるか。
よく分かんない命取引屋に、自分の命を一回預けてみるか。
君にとって苦痛が少ない方を選びなよ」
鬼塚は、黙った。
雨がうるさい。
胸の痛みも、もうよく分からない。
指先の感覚が、じわじわと薄れていく。
(ここで死んだら……楽かもしれねえな)
誰にも責められない。
誰にも詰められない。
ただ勝手に死んだ裏切り者として、ニュースか裏社会の噂話に乗るだけだ。
(でも、それで本当に……チャラになるか?)
頭に、少し前の顔が浮かぶ。
組の若い連中。
調子に乗ってるガキ。
何も知らされないまま、俺の“仕事”に使われてきた奴ら。
そして――今日、この街のどこかで、もしかしたら、路地裏で転がってるかもしれない誰か。
自分と同じように、胸を撃たれて、血を吐いて。
誰にも声が届かずに死んでいく、どこかの誰か。
(……)
ふと、考えた。
こいつ――目の前の緑の髪のガキが、本当に“命を入れ替えられる”存在だとしたら。
“自分の命”を一回手放したあとで、そのどこかの誰かの命を、
自分の代わりに拾える可能性だって、ゼロじゃないのかもしれない。
(クソみてえな希望だな)
鬼塚は、笑った。
自分でも、どこに向かって笑っているのか分からない。
ただ、選ぶなら――
「……売る」
かすれた声で言った。
ギミックの瞳が、ぱちりと瞬く。
「今、なんて?」
「聞こえてんだろ。
命、売るって言ったんだよ」
喉が焼けるように熱い。
でも、その熱さが逆に、最後の理性を吹き飛ばした。
「どうせどっちもクソなら、
死ぬか生きるかの二択より、クソの種類増やした方がマシだろ」
ギミックは、しばらく鬼塚を見ていた。
それから、小さく笑った。
「……うん。僕、君みたいなの好きだな」
「趣味悪ぃな」
「悪いよ」
ギミックは、硬貨を指で弾いた。
コインが、鬼塚の胸の上――ちょうど弾丸が通ったあたりでぴたりと止まる。
「――契約成立」
硬貨の中の砂が、一気に逆流し始めた。
さっきまでほとんど底に溜まっていた砂が、上へ、上へと舞い戻る。
代わりに、どこか遠くで、誰かの砂時計が底を打つ音がしたような気がした。
胸の痛みが、急激に変質する。
焼けるような痛みが、ひどい熱に変わる。
肺に溜まっていた血が、逆流するような感覚。
心臓が、一度跳ねて止まり――また動き出す。
「……っぐ……!」
鬼塚は、咳き込んだ。
口の中に溜まっていた血が逆流し、喉の奥を焼く。
それでも、呼吸が出来る。
空気が肺に入るたび、痛みと共に“まだだ”という感覚が繰り返し押し寄せてくる。
ギミックは、その様子を見て、満足げに頷いた。
「ね。
“死んだ方がマシだったかも”って後悔してる?」
「……さあな」
鬼塚は、浅く笑った。
「まだ、そこまで考える余裕ねえわ」
「それくらいでちょうどいいよ」
ギミックは、鬼塚の手を取った。
その手は、小さくて、冷たくて――妙にしっかりしていた。
「じゃ、自己紹介はさっきしたし。
改めてよろしく、鬼塚貞樹。
君はこれから、“命取引屋の助手”になる」
「聞いてねえぞ、その契約」
「セットだから。命売るのと、助手になるの」
「詐欺師か、お前は……」
文句を言いながらも、鬼塚は立ち上がるしかなかった。
足はまだふらつく。
だが、確かに立てる。
さっきまで“終わるだけ”だった世界が、少しだけ続いている。
雨は、相変わらず降り続いていた。
路地の奥には、まだ見慣れた街の光がぼんやりと滲んでいる。
「なあ」
鬼塚は、ギミックの横顔を見た。
「もし、いつか――」
「うん?」
「今みてえな路地で、俺以外の誰かが死にかけてたらさ。
そいつにも、“第三の選択肢”見せてやれよ」
ギミックは、少しだけ目を見開き、それから笑った。
「もちろん。
“自分の命を、一回手放してみる”って選択肢をね」
「……クソみてえな商売だな」
「クソをクソなりに循環させるのが、僕の仕事だよ」
二人は、雨の路地を抜けた。
その先に何が待っているかも知らずに。
その夜から少しずつ、ロンドンの教会や“七つの罪書”なんてものに巻き込まれていくことも知らずに。
ただひとつだけ確かなのは――
この路地で、鬼塚貞樹は一度「死んだ」ということだ。
そして、命取引屋に売られた元の寿命は、
いつか別の誰かの胸の中で、別の痛みとなって燃えるのだろう。
雨の音だけが、その取引を知っていた。
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第1章 「命取引屋、ロンドンに降り立つ」
ロンドンの空は、相変わらず灰色だった。
細かい霧雨が街灯をぼやかし、濡れた石畳が車のライトを鈍く反射している。
「……寒っ」
鬼塚貞樹は、肩をすくめて吐いた息を見上げた。白い煙はすぐ霧に紛れ、夜の街に溶けていく。
こんな夜に、わざわざ教会だ。
自分の人生を振り返っても、教会でいい思いをした記憶なんて一度もない。
ヤクザにいた頃は、組の誰かが死ぬたびに形だけの葬式に付き合わされ、神妙な顔をしながら心の中で「次は誰かな」と賭けをしていたくらいだ。
「顔が怖いよ、サダキ。ほら、もっと“善良な市民”っぽく」
横を歩く小柄な男が、くるくるとした緑色の髪を揺らしながら笑う。
命取引屋、ギミック・フレドリア。身長百五十センチ。体重三十九キロ。童顔。緑の瞳。
ぱっと見は中学生、しゃべり方も柔らかく人当たりがいい。その正体さえ知らなければ、の話だ。
「誰のせいでこんな時間に、こんな場所来てると思ってんだよ」
「僕のせいじゃないよ。お客さんの希望だもん。『どうしても、“あの教会”で取引したい』って」
ギミックは、こともなげに言った。
「“あの教会”ねえ……」
視線の先に、古びた教会が闇の中に浮かび上がっている。
ロンドンの建物にありがちな黒ずんだ石造りだが、十字架はきれいに磨かれ、ステンドグラスの色はやけに鮮やかだ。
だが正面扉は、どこか“口”のように見えた。獲物が自ら歩いてくるのを、黙って待ち構えている、そんな口。
「で、その“お客さん”ってのは?」
「レオナルド・K・ジーク神父。ここの主。……そして、『強欲の書』の持ち主」
ギミックの声が、ほんの少しだけ低くなる。
鬼塚は、眉をひそめた。
「またロクでもないモン持ってる奴か。つーか、その“罪書”って結局なんなんだよ。呪物?」
「ざっくり言うと、そうだね。七つあるうちのひとつ、“強欲”を司る本。
持ち主の“欲望”を限りなく増幅させて、その代わりに……まあ、色々持っていく」
「色々ってなんだよ。命か?」
「命、魂、倫理観、理性。人間にくっついてる大事そうなもの全部」
「一括まとめて持ってかれすぎだろ」
鬼塚が苦笑すると、ギミックは肩をすくめて続ける。
「でも、便利なんだよ。“欲しい”って願いに、あり得ない形で応えてくれる。
『金が欲しい』って祈ったら、思ってもない遺産が転がり込んだり、『誰かを救いたい』って願えば……死者すら動き出すこともある」
「そんなモン、持たせといていいのかよ」
「よくないね。だから僕らがいるんじゃない?」
ギミックは、にこりと笑って扉に手をかけた。
きぃ、と重い音を立てて扉が開く。
中から、温かい空気と、わずかな香が流れ出てきた。外の冷気に慣れた体には、それだけで眠気を誘うような優しい暖かさだ。
――だが、一歩踏み入れた瞬間、鬼塚の背筋を、別の寒気が駆け抜けた。
気配が、変わる。
人の出入りが少ないはずの教会なのに、空間そのものが、誰かにじっと見られているような圧を孕んでいる。
何より、空気が妙に“きれいすぎた”。埃っぽさも人いきれも薄いのに、消毒液に似た匂いだけが、かすかに鼻に刺さる。
(……これ、あれだ。組の事務所に踏み込んだときの感じに似てる。
誰かが“ここで人を処理してきた”空気だ)
視線を横にやると、ギミックも微かに目を細めている。
緑の瞳が、暗がりでもよく光る。
「歓迎されてるね、僕ら」
「どこがだよ」
「ほら、ちゃんと出迎えてくれてる」
ギミックが顎をしゃくった先、祭壇の前に、ひとりの男が立っていた。
白い。
最初の印象はそれだった。
白髪はきっちりと後ろに撫でつけられ、白い肌はステンドグラスから差し込む微かな光を受けて、蝋みたいに冷たく見える。
紫色の吊り目は、眠たげでも柔らかくもなく、ひたすらに冷静な光を湛えていた――が、よく見ると、その焦点はどこか少しだけズレている。
今ここではない、もっと別の“何か”を見ている目だ。
黒い神父服が、その白さをさらに際立たせ、背の高さ――百九十近くの長身が、空間を支配している。
「ようこそ」
低く、よく通る声だった。声だけは、牧師の説教みたいに落ち着いている。
「ライフディーラーのギミック・フレドリアさん。そして、その助手の鬼塚貞樹さん」
とレオナルド・K・ジーク神父が名を呼んだ。
「……初めまして、レオナルド・K・ジーク神父」
ギミックが一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
鬼塚も、遅れて軽く会釈だけしておく。
「遠路ご足労いただき、感謝します。……命の商人に、教会で会うことになるとは、皮肉なものですね」
「宗教施設と命の売り買いって、相性悪いですか?」
ギミックが微笑むと、レオナルドもほんの僅かに口角を動かす。その仕草だけ見ると、柔らかい微笑みにも見える。
だが、笑っているのは口元だけで、目の奥は一ミリも動いていない。
「いえ。むしろ相性はいい。多くの人は、ここで救いを求め、救われなかった者は命を諦める。
あなたは――救われなかった人間に、別の選択肢を提示できる」
「ビジネスチャンスだな」
鬼塚が思わず口を挟むと、神父と命取引屋が同時にこちらを見た。
「……サダキ、ちょっと黙ってて」
「おい」
小声のやり取りをレオナルドはくすりとも笑わず見ていたが、すぐに表情を消して言った。
「さて、本題に入りましょうか。――私は、命を買いたい」
ギミックの目がわずかに細くなる。
“命取引屋”にとって、最も基本的な台詞であり、最も危険な依頼の前置きでもある言葉だ。
「誰の命を、どれだけ?」
「二人分。ひとりは、病で余命一週間の少女。もうひとりは――私自身」
鬼塚は片眉を上げた。
「神父さん、自分の寿命延ばしたいタイプか?」
「逆ですよ」
レオナルドは、淡々と続ける。その口元に、わずかに愉快そうな色さえ浮かぶ。
「私の寿命を、少女に譲ってほしい」
教会の空気が、ぴんと張り詰めた。
鬼塚は一瞬、聞き間違いかと思ったが、レオナルドの表情は冗談を言っている人間のものではない。
ギミックは、さも楽しげに微笑む。
「なるほど。『強欲の書』を持つ神父が、自分の命を削って他人を救おうとするんだ」
その言葉に、鬼塚は少しだけ目を見開いた。
(こいつ、まさか――自己犠牲系の狂人か?)
ギミックが、ゆるやかに右手を上げる。
空気が揺れた。
何も持っていなかったはずのその手の中に、いつの間にか、古びた硬貨がひとつ現れている。
銀とも金ともつかない、くすんだ色のコイン。その中央には、砂時計と天秤を合わせたような紋章が刻まれていた。
「確認させてください、神父さん。あなたは既に“本”と契約している。
『強欲の書』は、持ち主の欲望を肥大させる代わりに、世界から均衡を奪う。
あなたが少女に寿命を渡すことで、その均衡はさらに傾ぐ。……分かってます?」
「もちろん」
レオナルドの紫の瞳が、わずかに熱を帯びる。
さっきまで冷えていたガラス玉のような目に、妙な光が差した。
「私は、私の“欲望”のためにここにいる」
彼は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「その少女は、信徒の娘です。……いや、もう少し正確に言いましょうか。
私が“救いを与えられなかった”娘だ。
医者も、祈りも、奇跡も。何ひとつ彼女を救えなかった。それは私の“負け”です」
「負け」という単語を口にしたときだけ、レオナルドの声がわずかに低くなった。
「だから私は、欲しい。
――“神”ではなく、“私”が彼女を救ったという結果が」
「傲慢だな」
鬼塚がつぶやくと、レオナルドは小さく笑った。その笑みは、もう牧師のものではなかった。
「ええ。弟もよくそう言います。……ああ、紹介が遅れましたね。
アレクサンドル・K・ジーク。フランスで研究所をやっている男です。
私の弟でしてね。『傲慢の書』の持ち主です。私よりよほど傲慢ですよ。死者を蘇らせようとしている」
ギミックの眉がぴくりと動いた。
「“蘇生”か。あの人、まだ諦めてなかったんだ」
「知り合いか?」
鬼塚が問うと、ギミックは曖昧に笑うだけだった。
「ともかく」
レオナルドは話を戻すように、指先で十字架のペンダントをなぞった。
その仕草は祈っているようでいて、実際には“仕込みを確認している職人”のそれに見える。
「私は、私の罪を自覚しています。強欲であり、傲慢であり、愚かです。
それでも――少女を救うために、私の寿命を代価にできるなら、安い買い物でしょう?」
そこで一拍置き、さらりと言い足す。
「それに、私の命ひとつで足りないなら……他からも少し、頂戴すればそれで解決だ亅
あまりにも軽い口調だった。
「普通は逆だけどね。子どもの命のために大人が命を投げ出すなんて、美談みたいだ」
ギミックは硬貨をくるくると回しながら、楽しげに言う。
「でも、これは“美談”じゃない。
神父さんは、“救えなかった自分”が許せないだけだ。
少女のためじゃなく、“自分のため”に命を切り売りしようとしてる」
その指摘に、レオナルドは少しだけ目を細めた。
否定はしない。むしろ、それを確認するように頷いた。
「厳しいですね、ライフディーラー。
ですが――自分のために人を救う方が、まだ正直でいいでしょう?」
ほんの一瞬だけ、紫の瞳が笑った。そこに「善意」は欠片もなかった。
「職業柄ね。動機を見誤ると、たいていろくなことにならない。
――それで、サダキ」
「なんだよ」
「この取引、受ける? 受けない?」
いきなり振られて、鬼塚は目を瞬かせた。
「は? 決めるのはお前じゃねえの」
「僕が決めてもいいけどさ。助手にも責任をちょっとは背負ってもらいたいお年頃なんだ」
面倒くさい上司だ、と心の中で悪態をつきつつ、鬼塚は教会の奥へ視線を送った。
静かな礼拝堂、揺れる蝋燭の火。外の雨音が遠く、ささやきのように響いている。
(命を売り買いする仕事に、倫理観なんてとっくに置いてきた。
でも、“クズ”な俺でもさすがに引っかかるラインってのがある)
ヤクザ時代に見た死体の数を数えても意味がない。
だが、死にたくないと泣き叫ぶ目と、死にたくても死ねない奴らの目は、今でもふとした瞬間に思い出す。
――この神父は、どっちの目をしている?
鬼塚は、レオナルドの目をじっと見た。紫の瞳は、冷静で、狂っていて、どこか澄んでいる。
自分の命を惜しんでいない。
でも、死に急いでもいない。ただ、“必要だから使う”とでもいうような目。
人の命を道具として見ながら、自分の命も同じ棚に並べている目だ。
「……受けていいんじゃねえの」
口が勝手に言葉を出していた。
「神父さんは、死にたがってるわけじゃねえ。『自分のケジメ』のために命を切り売りしようとしてる。
ろくでもねえ動機だけど、そういうろくでもなさは、嫌いじゃねえ」
「ひどい評価ですね」
レオナルドが小さく笑う。その笑みには、わずかに嬉しそうな色さえ混ざっていた。
「“ろくでもない”と呼ばれる方が、性に合っている」
ギミックは満足そうに頷き、硬貨をレオナルドの目の前に掲げた。
「――契約成立、ってことでいい?」
「ええ。お願いします」
「じゃ、支払い方法を決めようか。
あなたの寿命をどれくらい渡すか、少女にどれくらい分配するか。
それと、罪書の力が勝手に上乗せしてくる“ボーナス”を、どう扱うか」
「ボーナス?」
鬼塚が眉をひそめると、ギミックは意味ありげに笑った。
「『強欲の書』は、“欲しい”って感情に敏感なんだ。
神父さんが“少女を救いたい”って強く願えば願うほど、過剰な結果を用意しようとする。
例えば――少女だけでなく、その家族、その友人、その街にまで影響が出るような、ね」
「それ、完全に余計なお世話だろ……」
「そう。だから調整が必要なんだよ。“命取引屋”として」
ギミックは、レオナルドの胸元にぶら下がる十字架を指差した。
「その中にあるでしょ、“本”の欠片。見せてくれる?」
レオナルドは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷き、ペンダントを外した。
十字架の裏側に、小さな継ぎ目がある。指先で押すと、ぱかりと開き、中から黒ずんだ紙片が一枚、ひらりと落ちた。
床に触れる前に、紙片はふわりと宙に留まった。
ギミックの視線が、それを“掴んで”いる。
空気が、先ほどよりも一段重くなる。
黒い紙片には、見たこともない文字が刻まれていた。
見るだけで頭痛がしそうな奇妙な文字列。それが、ゆっくりと形を変え、鬼塚の理解できる言葉に変わっていく。
『欲スル者ニ与エヨ 欲スル者カラ奪エヨ ソレガ世界ノ均衡ナリ』
「……何だよこれ。言い訳か?」
「違うよ。これは“ルール”だ」
ギミックは静かに言った。
「“罪書”はいつだって、公平なんだ。
与えるために奪う。奪うために与える。
――だから神父さん。あなたが少女に寿命を与えるなら、どこからか別の誰かの寿命が削られる」
「構いません」
即答だった。その速さが、逆に怖い。
「この身はとうに罪に塗れています。ひとつやふたつ、今さら増えたところで変わりませんよ」
レオナルドは、ほんの少しだけ首を傾げて、続ける。
「むしろ、“どこかの誰か”の死が、彼女の生に繋がるのなら――世界はようやく公平になる」
「そうやって簡単に言うから、“狂人”って言われるんだよ、レオ兄さん」
聞き慣れない声が、教会の奥から響いた。
ジッパーを引き裂くような不協和音とともに、空気が裂ける。
そこから、白衣を着た男がひょいと現れた。
白髪ボサボサ頭、丸いサングラス。その奥に隠された紫の吊り目は、笑っているのか、怒っているのか分からない。
ちょび髭を撫でながら、その男――アレクサンドル・K・ジークはにやりと笑った。
「久しぶりだね、レオ兄さん。……それに、ライフディーラーくん。初めまして、かな?」
ギミックは、紙片を浮かせたまま、目だけをそちらに向けた。
「アレクサンドル・K・ジーク。
『傲慢の書』の持ち主。そして、禁忌の蘇生実験を続けている考古学者」
「自己紹介が手短で助かるよ」
アレクサンドルは、楽しげに手を広げた。
「――『強欲』と『傲慢』。二冊の罪書が、同じ場所に揃ったね。
これは、なかなか面白い夜になりそうだ」
鬼塚は、心の底からため息をつきたくなった。
(やべえのが、もう一人増えた。
しかも、こっちの神父の方がまだマシに見えるレベルってのが、一番タチ悪い)
その時、ギミックの手の中の硬貨が、ひとりでに回転を始めた。
空中でくるくると回りながら、金属とも紙ともつかない、不気味な音を立てる。
「――時間切れか」
ギミックが小さくつぶやいた。
「どういう意味だよ」
「追っ手だよ、サダキ。君が昔お世話になってた人たち。
この教会を包囲してる。……厄介なことに、ね」
外から、サイレンの音と、人々の怒号が微かに聞こえ始める。
レオナルドは顔色ひとつ変えず、十字架を握り直した。その指先だけが、わずかに楽しげに震えているように見えた。
アレクサンドルは、相変わらずニヤニヤと笑っている。
ギミックは、ふっと微笑み、硬貨を軽く弾いた。
「――さて。取引を始めようか。
命の値段も、罪の重さも、そして“追っ手”の処理も、全部まとめて」
くるくると回る硬貨の音が、鐘の音のように、教会に響き渡った。
この夜、ロンドンの小さな教会で行われた取引が、世界中に散らばる「七つの罪書」と、「命取引屋」の運命を大きく狂わせていくことを――
この場にいた誰も、まだ知らなかった。
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プロローグ〜1章
(次作2章〜)
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