第八話:老船乗りは現実を知る
「さて、まず考えて欲しいのは、あなたがこの酒場にどのくらいの間、こうして座っていたか、だね」
イアン・ニートルはとても楽しげに問いかけてきた。
老船乗りは露骨に鼻白んだ。
「いったい何をいいたいのか、さっぱりわからん。ここは晩飯を食うのに毎日来てるぞ」
「では、何年くらい通っているのか?」
「はあ? そりゃあ、ええと………………急に言われても……」
老船乗りがあの医者どもの船から下りて、その後の噂を聞いたのは……何年前だろう?
「きっと五年か六年前だ……いや、待てよ。十年ぐらいは経ったかもしれんが、いくらなんでも二十年は経っていないだろう」
自分の誕生日なぞ、とうに忘却した。自分が何歳なのか、すでにわからない。最後に歳のことを考えたのは、五十をすぎて、そろそろ六十になるだろうと思った時だった。
最後にあの島へ行ったのは、それほど遠い昔ではないはずだ……。
とつぜん、イアン・ニートルが大笑いした。
「はずれだ! なんと六十年だよ。あなたが最後にあの島から戻ってから、すでに六十年近くになる」
イアン・ニートルはやはり頭のおかしい男らしい。
老船乗りはバカバカしくなった。
あれから二十年以上も経っていたら、老船乗りはよぼよぼどころか、生きているのが不思議な年齢になっていよう。百歳をすぎてこんなに壮健な人間なんているわけがない。
老船乗りは杖が必要だが、自分の足で毎日のように下宿とこの店を往復している。
めったに風邪もひかないし、目もはっきり見える。自分の歯で何でも食べられるし、頭もボケていない。――昔の記憶は少々怪しくなってきたが、思考は明晰だ。
だから九十歳にはなっていないと思う。
それにこの店では、古くからの知り合いにしょっちゅう会える。何十年も前からの顔なじみの船乗りたちが、航海への行き帰りに、この店へ顔を出す――……いや、しかし、そういえば――……最近はどうだったかな?
そうだ、老船乗りと同い年のボルハがあの街から二度と帰ってこなかった、あの時期から…………。
「おやおや、悩んでいるな」
イアン・ニートルはどうしてあんなに陽気なのだ?
「ようやく自分の状況がおかしいと気づいたようだな。そう、あなたは最初にあの島に上陸したとき、すでに老境だった。黒かった髪はほとんど白く、顔には老いのシワが刻まれていた。いったい今は何歳なのか、自分の年齢を正確に数えられるかね?」
「バカいうな! 俺は、まだ――まだ、六十代になって……? いや、七十代になったのだったか…………?」
老船乗りは焦った。自分の年齢が数えられない。
最初にあの島へ上陸したのは、中年の終わり頃? 二回目の航海では何歳だった?
昔なじみのボルハが会いに来たとき、彼がすっかり白髪の老人で驚いた。金が欲しいのは、故郷にいるひ孫のためだとも……。
「知らん、そんなことは知らんッ! 俺は、ただの隠居した爺だ。そりゃ若い頃はむちゃをしたかもしれんが、俺の仲間はみんなやってたんだ。それの何が悪い!?」
いきなり激高して左手の杖をテーブルの角に打ち付けた老船乗りを、イアン・ニートルは微笑んで見守っている。
「いやあ、そこまで言える人間もなかなかいないものだよ。じつに立派だ。私たちみたいなモノでもそうはいない。人間の世界でもそうではないかね。あなたは非常に珍しい少数派なのだ。あなたのような人をなんと呼ぶのか、私は知っている」
イアン・ニートルはニイ、と歯をむき出して凄みある笑みを作った。
「〈ならず者〉というのだよ」
目を細めるイアン・ニートルを、老船乗りは憎悪を込めて睨んだ。
だが、反論できなかった。
じっさいそうなのだ。老船乗りの生き方は〈ならず者〉の見本だった。
毎日の悪意あるイタズラは日常茶飯事。標的は自分より立場が弱い者。
はじめはほんの些末ないやがらせが、そのときどきのはずみで他人の運命を大きく変えてしまおうと、それが大勢を巻き込む重大事に膨れあがろうとも、自分だけはふしぎと悪運強く罪をまぬがれ、今日まで生き延びてきたならず者。