第六話:悪魔の医者ども、探検、そして実験
「やあ、きみがあの島からの、唯一の生還者だね」
そいつは医者だと自己紹介した。欧州の有名な大学や研究室にいたことがあるとか。
だが、老船乗りは興味が無かったので聞き流した。
彼は高慢な医者どものリーダー格だった。紳士気取りのキザな中年男だが、臨時雇いの船乗りにも気さくな調子で声を掛けるので、俺たちのなかではいちばん人気があった。
「ああ? ボルハに聞いたのか」
お喋りなやつだ。良くも悪くも顔が広い。だからこの仕事にも預かれたんだが、こんな近くで自分のことをベラベラ噂されるのはさすがに鬱陶しい。
「ちょうどいい、例の島に上陸したときの話を詳しく聞かせてくれるかね?」
「残念だが俺は上陸してねえよ。仲間が上陸して、みんな死んだ。きっと悪い水に当たったんだ。アンタたちも島へは上陸しないこった。外から眺めるだけにしろよ」
そうはいかん、と医者は笑った。
「我々は未知の病原体を求めて世界中を巡っている。我々の研究はいつか全人類に有益な発見をもたらすだろう。我々は人類に偉大な発見をもたらす狩人なのだ」
「へ、ごたいそうなこって」
高級士官用の食堂に誘われ、高価なワインとチーズを振る舞われた老船乗りは、いつもの難破した話を聞かせてやった。それは世間に流れている薄れた噂と変わりない内容の〈難破船の墓場の伝説〉だ。
医者どもの目的は難破船ではなく、魔の海域と呪われた島そのものだった。
そこにしかないだろう未知なる物質、医者どものいう人類が未だ知らぬ細菌か突然変異のウイルスなるものを入手するのが至上の命題らしい。
伝説の語り部本人の老船乗りから直接話を聞いたそのキザな医者は満足したのか、気前の良いチップをくれた。
おそろしく順調な航海だった。
難破船の林を通り抜けると、呪われた島は目の前にあった。
貨物船は島の沖合に停泊した。
島への上陸はボートを降ろし、海岸からあがるしかない。
そいつらは頭からつま先まで覆い隠す分厚い銀色の防護服とやらを着込んで上陸した。
俺は船で待っていた。ボートの漕ぎ手に名乗りを上げるには歳を取り過ぎていたし、医者どもはいかにも船乗りらしい力のありそうな男を指名した。
双眼鏡で眺めたところでは、島の様子は何十年も前の景色と、樹の一本までまったく変わっていないようだった。
上陸用のボート漕ぎ役の連中は、砂浜まではあがったが、そこからは一歩も内陸へ入らないように厳命されていた。
一時間ほどで、医者のやつらは全員無事に戻ってきた。
採取した〈サンプル〉の入った箱を三個、とてつもなく大事そうに抱えていた。
ボートに乗る前に、やつらは砂浜で、用意していた消毒剤を自分たちの防護服と箱にぶっかけ、徹底的に滅菌消毒とやらをした。
〈サンプル〉箱を開けるのは研究室に入ってからなので、外側さえ完全に消毒すれば、箱に触っても安全だというのだ。
さらに船へ乗る前には、ボートの上からシャワーのように蒸留水を降らせ、漕ぎ役のやつらも全員水洗いされた。それからやっと乗船が許可された。
俺たちは医学なんざ素人だが、そこまでして危険なものを持ち帰ろうとするなんざ、頭のおかしいやつのすることだと囁きあった。
その医者どもは、帰りはほとんど研究室にこもりっきりだった。
さいわい嵐にはあわず、船は順調な航海をして、基点の港へもどってきた。
俺たちは約束の金をもらい、船を離れた。
「なんだ、金払いのいいふつうの客だったのか。それのどこが悪魔の医者の話なんだ?」
イアン・ニートルはがっかりしたふうに肩を落とした。
こいつは人の不幸を喜ぶタイプの変質者みたいだな。
老船乗りはイヤな気分になった。さっさと話を終わらせて、自分の部屋に帰って休もうと思った。
古い下宿屋だが気に入っている。
もう歳だから航海には出たくない。
金もある。多額の貯金こそ無いが、慎ましい生活をする分には不自由はない。
老船乗りは、あの居心地良い下宿屋の自分の部屋で、死ぬまでのんびり暮らせれば幸せだと思うようになっていた。
「ところで、この話にはまだ続きがある。俺たち臨時雇いの船乗りの中から何人か、船を降りられないやつが出たんだよ」
「というと?」
イアン・ニートルが目を輝かせた。
老船乗りは軽蔑のまなざしで見返した。
「帰りの航海中に病気になっちまったらしい。伝染病だったら危険だと、そいつらとは会わずに船を降りた。俺と同じこの店の常連だったが、それっきり消息は聞かなくなった」
「おいおい、そいつはちょっと変じゃないか。伝染病かもしれないなら、原因がはっきりするまで全員が船に留め置かれるだろう。それが船の掟だと聞いたぞ?」
「その通りだ。つまり、あの医者どもはそれが何の症状なのか、正確にわかっていたんだよ。人から人へは感染しないこともな」
「ほっほーう! ほんの数週間でそれを見極めるとは、優秀な医者どもじゃないか!」
「そうともいえるかな……。病気になったのは、ボートの漕ぎ役だった五人と……あの船所属の乗員のうち、正規の船員ではないやつらだった」
「正規ではないとは、どういうことだ。みんな船の乗員だったんだろう?」
老船乗りは面倒だと思ったが、説明しないと話が進まない。
あの船には明確な人種差別があった。目には見えない貴族階級みたいなやつら、威張りくさった軍人みたいな乗員と、彼らとはじつに対照的な、ひどく腰の低い人々だ。
ふつうとは思えないほど痩せ細った人々だった。老船乗り達は、てっきり奴隷制がある国の船だと思ったほどだった。
「ドレイ? それも人間のことだな」
イアン・ニートルは『奴隷』という単語がよくわからないようだった。きっとそんな概念すら失われた、平和な国からきたのかもしれない。――それにしては、ときおりうそ寒い、奇妙な雰囲気を漂わすふうがあるが……。
老船乗りは説明してやることにした。その方が話が早く済むだろう。
「奴隷というのは、人が相手を人間として扱わずにすべての自由を奪い、物扱いして所有することさ。そいつらは下働きをしていたから、下男や従僕なんかだと思っていたが、違ったんだ。医者どもの国ではそいつらの民族をひとくくりに差別して、すべての人権を奪い、迫害していたんだと!」
「はあ、迫害ねえ。人間が人間を……ふむ。やはり外の世界は刺激に満ちていますねえ」
イアン・ニートルはしみじみもらした。
老船乗りは、とっとと結末を話すことにした。
「あの船で、例の島から採取してきた何かを強制的に食わされたのさ。どうやら最初からそのために連れてこられたらしい。俺の仲間もていのいい実験動物にされたってわけだ」
「それは、なんと、まさかだが……。人間が、同じ人間をつかって、未知の物質を試したということか!?」
イアン・ニートルが驚愕していた。
得体の知れぬ微笑みを浮かべるばかりだった男の顔を盛大に崩せたので、老船乗りはしてやったりとほくそ笑んだ。