第四話:魔の海域の噂話
「アンタはそれを見たのか。仲間がそうなって死んでいくのを……?」
飲み水が無くなったくだりを聞いた若い船乗りはおぞましそうに訊ねた。
老船乗りは「ふん」と鼻息を吹いた。
若い船乗りが耳にした噂とは『魔の海域のどこかに難破船の財宝があるかもしれない。それを知っている年寄りの船乗りがどこかの酒場にいる』という伝説の断片だ。
難破した体験談なぞ、どこをどう切り取ったって面白い話ではない。せいぜいが嵐の前兆を先読みする教訓になればいいほうだ。それを承知でなお聞きたがったのは、この若造である。
「そうだよ。そのころには船の修理がなんとかなって、出発を待つばかりだった。元気な者たちは島から船に戻った。だが、何人かが船で倒れた」
当時の惨状を思い出した老船乗りは、顔をしかめた。
「そいつらは隔離され、元気だった俺がひとりで看病をした。船の中は険悪な空気で満ちていた。せっかく船が動かせるようになって、皆帰りたくてウズウズしていた。動けないヤツらは気の毒だが、足手まといだ。治療するすべもない。日ごとに悪化していくのを眺めているしかなかった。死んだら船長の命令で水葬にした。動けなくなったやつは島へ置いていくことになった。さすがにあんな化け物みたいになったやつらを連れて帰るわけにはいかねえ。とんでもねえ疫病だと思われたら、俺たちは港に入れねえからな」
「いや、それはおかしいだろ。病気の正体がわからないのに、なんで船長は帰る決断をしたんだ。もしもとんでもない疫病だったら危険じゃないか。その船長には良識が無かったのか?」
「いや、人から人には感染しないんだ。看病した俺も平気だった。おかしくなったのは上陸して奇妙な樹に素手でさわったり、樹液をなめたりしたやつだけだ。それがはっきりしていたから、船長は伝染病とはちがうと判断した。だから船内の発症者が本当に動けなくなるまで見守った。島へ置き去りにするのはあまりに残酷だろ。そうして船長は、最終決断を下したんだ」
若い船乗りはじっと聞いていた。その表情は恐怖と嫌悪に歪んでいた。
「仲間を島へ置き去りにして、あんた達は出発したのか。あんただって上陸したのに、なぜ無事なんだ。なにか免疫があったのか? あんただけがなにかクスリになるものでも手に入れていたのか? それがわかれば、仲間を助けられたんじゃないか?」
「ちがうちがう。俺は何もしていない。俺にはさっぱりわからん。ただあの島じゃ、なんとなくイヤな感じがしたから気を付けてたのさ。長年の勘が働いたんだよ。ほら、あれだ、ちょうどこれから海がしけるってときに肌に感じる、雨が降ってくるのがわかるような感覚だよ」
老船乗りは口角をあげ、自分の鼻先をちょんと突つついた。
「俺たちは難破したといっても船を修理できた。どんな大時化だっていつかは終わる。大雨のおかげで船の水の蓄えは十分できた。だから食料が尽きる前に、脱出できたんだ」
「ほかのやつは水と食料が尽きたから、島のおかしな植物にまで手を出しちまったんだろ。あんたはなんで手をださなかったんだ?」
「俺は、自分に支給された分の水と食料を隠して、できるだけ長持ちするように少しずつ食べていたんだ。だから島の植物には触っていない。その用心のおかげさ」
「よく用心できたもんだ」
「魔の海域のどこかにおかしな島があるっていう、昔からの言い伝えも知っていたしな。だからあの船で、生きて戻れたのは、俺だけってわけさ」
「いや、それは変だろう。一人では船の操縦はできない。船長たちは一緒に帰ってきたんじゃないのか? まさか、帰りの航路で他の乗組員は〈呪い〉を発症したのか?」
「いやいや、運の悪いことにだなあ、大時化がおさまって出発したとたん、その海域のすぐ外の海でまた嵐に見舞われて、暴風雨と高波が荒れ狂うなか、こんどこそ船がメチャクチャに破壊されたんだ。俺は甲板の破片にしがみつき、一日海を漂っていた。そして運良く通りすがりの貨物船に救助されたのさ」
その島の近海は魔の海域の名にふさわしく、船が難破するのでも有名だった。もし生き残ったら泳いでなんとかたどり着けるのが、その無人島ってわけだ。
無人島についた船員が次にやることはだいたい決まっている。
救助が来るまで生き延びる算段をつけることだ。
まずは沖合で壊れている船の残骸まで往復しなければならない。
壊れた船はたいがい浅瀬に乗り上げて座礁しているから、できるだけ早く、破壊されきっていない船室から使える物品を運び出し、当座の飲料水と食料を確保しなければならない。浅瀬で座礁しているとはいえ、海は気まぐれだ。いつ海底に沈んでしまうかわからないから、しばらくは島と難破船との往復だ。
だからその島の周辺には、そんな悲惨な運命をたどった船が、さながら難破の記念碑のごとく、山ほど放置されている。
賢い船乗りであれば難破船の残骸がある場所から先へは船を進めない知恵がある。
そうすると無人島までは視界に入らない。
前もって無人島の存在を知らなければ、そこへ避難して生き延びている遭難者がいるとは思わないから、念のため島へ上陸する気も起きないわけだ。
若い船乗りは納得した風にうなずいた。
「そうか、なら、島に行かなくても、難破船は見えるんだな。古い難破船も新しい難破船も、その境目のあたりに集中してるんだな」
「そういうことだ。だがな、何度も言うが、そこはすぐ目の前が魔の海域で、その島は呪われた島なんだ。もしも島影がチラッとでも見えたら、そこはもう呪われた島の領域に踏み込んだって印だぞ。いいか、忠告はしたからな」
老船乗りは、話の最後はいつも生真面目な顔でそう付け加えるのを忘れなかった。
「でも、あんたの教えてくれた航路図があれば、魔の海域から脱出できるルートはわかっているわけだ。俺と俺の仲間の船なら戻ってこられるさ。ところで、じいさんのその足は、そのとき難破した事故のせいかい?」
若い船乗りは、老船乗りの左足と杖を指さした。
「いや、足はもっと若い頃に大怪我したんだ。命に関わるほどじゃなかったが、そのときまともな医者にかかれなくてな。ちゃんとした手当ができず、うまく治らなかったのさ」
「それは気の毒に。不運だったな」
「さてな。こんな俺のことを、『運が強い船乗り』というやつもいるんだぜ。呪われた島から三回も無事に帰ってきてるからな。おかげで船の仕事にゃ困らねえ。こうして昔話をすると金を払ってくれる親切な人もいるしな。この歳でもなんとか暮らしているってわけだ。懐はいつもすかんぴんだけどな」
「だったら、なおさら俺と一緒に金塊を取りに行こうじゃないか。あんたが船に乗って案内してくれれば、魔の海域を航海できるんだろ? そういう噂も聞いてるんだぜ?」
目を輝かせる若い船乗りに、老船乗りは呆れたように舌打ちした。
「おまえ、馬鹿だろ。俺の話を聞いていなかったのか。呪われた島も危険だが、その島の周辺はもっと危険なんだよ。その島から帰ろうとしたら必ず嵐に遭って、全員死ぬんだ。――必ずな。生きているのは俺だけだよ」
だが、その若い船乗りは――港の闇賭博で全財産を擦っちまったと、笑いながら自己紹介してきた野心だけで構成された若者は、老船乗りの教えた詳しい航路を書き込んだ海図を手に、幻の金塊に目が眩んだ仲間を集めてさっそく船出した。
だが、戻ってきたという話は、ついぞ聞こえてこなかった。