第三話:水のない島
最後の航海から戻ってこの酒場に腰を落ち着けて以来、なんどか乞われて同じ話をした。
おかげでこの歳になって忘れっぽくなっても、あの話だけは本に書かれた物語を読むごとくすらすら語れる。
最後にこの話をしたのは、もう一年以上も前だろうか。相手はまだ若い船乗りで、やけにとんがったヤツだった。一攫千金をつかむというのが口癖だった。
「ちいさな島だった。三十分もあれば海岸をぐるりと一周できたんだ」
ネズミもいない無人島。見つかった生き物は小さな昆虫のみ。おそらくこの島にしかいない固有種とやら。蜂みたいな虫だった。
それにしても、水が無かった。木や草はボウボウだが、湿った地面すらない。
海水なら島のまわりにいくらでもあるのに――……。
「必要なのは、人間が飲料水にできる塩気の無い真水だ。海水を飲めば人は死ぬ」
泳ぎながら少量飲むのとはわけがちがう。
海水は塩分濃度が高い。多量に飲めば、人間の体は余分な塩分を急いで排出しようと、汗や尿を多量に出す。海水を飲めば飲むほど乾きはいっそうひどくなり、生命維持に蓄えておくべき水分まで出てしまうと、急な脱水症状を起こして命を落とすのだ。
「あの島で喉の渇きを潤せる液体は一つ、茶色い樹だ。ふかふかした樹皮を持つ奇妙な低い木で、樹上に肉厚な葉が密集して生えている。葉の上には甘い露のような液体が溜まっている。あれしかないんだよ」
ここまで話すと、いつも苦笑してしまう。
難破して九死に一生を得た船乗りが、海図にはない無人島に流れ着けば、用心するのは当たり前。見知らぬ島の得体の知れぬ植物には手をつけない。
初めて目にする草木なんて毒かも知れないのに、命がけで試食する阿呆はいない。
食料や水だって、難破しても船の形が残っているなら少しは確保できるはずだ。
数日経っても水平線に救助船の影がチラとも見えず、島の海岸で貝や魚がまるで獲れないとわかるまでは。
手持ちの水と食料はいずれ尽きる。
耐えがたい乾きと飢えに襲われる日が迫ってくる。
その前に、島で水と、食用になる『何か』を見つけなければならない。
そこまで追い詰められたとき――……茶色い肉厚の葉と、その葉の上に溜まった甘い樹液に群がる虫を見たら……。
おや、蜂みたいな虫が舐めている。
毒はないのかもしれない。
試してみた一人がだいじょうぶなら、我も我もと箍がはずれる。乾きはおさまり、腹も落ち着く。きっとあれは食用になるものだ、そう思って安心していると――……。
数日後、いや、速ければ数時間後に、異常は皮膚にあらわれる。
はじめは腕や足のどこかにできる小さな茶色いシミだ。
それがほどなくコイン一枚くらいの、ぶよぶよした茶色い水ぶくれに成長する。薄皮に包まれたそれを指でつぶせばいやな汁が出て、海水で洗えば、いったんは消える。
だが、すぐにほかのところに出る。
時間が経つごと、それらはどんどん大きくなっていく。
体中に広がり、全身が覆いつくされる頃には、喋れなくなり、体が動かなくなる。最終的に、まばたきで意思を伝えることも難しくなれば……――心臓が止まっている。
その若い船乗りは、真剣な顔でゴクリと唾を飲み込んだ。
それは今から半年ほど前だった。
若い船乗りはどこかで老船乗りのことを聞いたらしい。わざわざこの酒場まで探してやって来たと本人は言った。
老船乗りは話をしてやった。ただし、肝心なところまで聞かせるときは、この酒場で一番高い酒とつまみをおごらせ、さらにそれの三人前分に当たる語り賃を要求した。
若い船乗りは黙って支払った。
そのぐらいの金額は、老船乗りだけが航路を知っているという伝説の『難破船の墓場』を訪れれば、かんたんに元が取れると考えているからだ。
彼の目的が命がけでそこへ行くことなのは明白だった。
そうでなければ、自分より何十年も経験深そうとはいえ、初対面の、片足が不自由でいかにも意地悪そうなご面相の、老いた船乗りの昔話に、真剣に聞き入ったりしないだろう。