第二話:海岸に漂着した手記
「アンタは、呪いなんていまどき古いと言いたいのか?」
こいつはせっかく危険だと教えてやっているのに、そんなに呪われたいのか。
老船乗りの話を聞けば、たいがいのやつはあの島へ行きたくなるが、船も海も知らない都会人ならどうするだろう。
「以前にも、でかい虫みたいな深海生物の研究をしているという海洋生物学者がいてな。その島の周辺の海を調査に行ったんだ。呪いなんてバカバカしいと笑い飛ばしてた男だった。そこそこ大きな船を仕立てて行ったんだが、全員戻ってこなかったんだ」
こいつもそうなりたければ、なればいいさ。
老船乗りは胡散臭げに目を細め、イアン・ニートルをジロジロ見た。
「アンタのその言い方だと、あれは呪いじゃなくて、あの島特有の植物の毒のせいみたいじゃないか」
アレは呪いなのに。
老船乗りはふん、と鼻息を吹いた。
都会の記者だか何だか知らんが、どうせ俺を、田舎者で物知らずの年寄りだと馬鹿にしているんだ。舐められてたまるか。
「そう思われてもしかたないでしょうねえ。まあ、人間に有害な成分であることは間違いありません。人間から別の人間へ伝播しなかったのは、そうしない性質だからですよ。そのくらいはわかるでしょう?」
イアン・ニートルはおっとりと説明した。
「なるほど、近頃流行りの新しい医学的知識ってやつだな」
よくわからないが、老船乗りは同意しておくことにした。
都会人てやつは、わけのわからないウンチクが多くて困る。世の中の病気というものが、目には見えない細菌によって引き起こされることくらい、老船乗りだって知っている。
――それが何だってんだ?
船は帆船の時代から蒸気船を経て、巨大なエンジンを積んだ鉄製になった。
科学やら医学の急速な進歩とやらで、多少ひどい傷を負っても高価な薬さえあれば化膿もしなくなり、外科手術によって手足は切り落とさずにすみ、むかしは助からなかった感染症や伝染病まで完治するご時世だ。
「まあまあ、いいから。とにかくそれを一読してくれたまえ。どこにも呪いなんて書いてないから」
『この島には水がない』
まちがいない、あの島のことだ。
老船乗りはいやな気分を思い出したが、目の前でイアン・ニートルが見ている。平気な振りをして読みすすめた。
『草木は生えている。とくに多いのが、灰色と茶色を混ぜたような色合いの、表面がボコボコした、枝も葉もない太い樹木だ。大人が二人で手をまわせる程度の太さで、背丈も平均的な大人くらいだ。そいつのてっぺんの葉にはくぼみがあって、液体が溜まっていた。樹液らしい。蜂蜜のように甘く、かすかに塩気がある。蜂がなめていた。毒は無いようだ』
――手記はここで日が変わる。
『今朝早く、地面に落ちて死んでいる蜂を見つけた。昨日の蜂みたいな虫だ。その虫の躰は茶色いコブのようなもので侵食されていた。きっと〈冬虫夏草〉のようなものだろう。遠い東の国で薬草にされるという、虫に生えるキノコだ』
――手記はここでまた日が変わる。
手帳の筆跡は始めは丁寧に整っていた。
進むにつれ、乱れがひどくなっていく。
『嵐でずいぶん流されたから、この島があの海域のどこにあるのか見当がつかない。近くを船は通るのだろうか。
水がないのは致命的だ。
必死で島中を探索した。
海岸のどこかにココナツの実が漂着していないか。細い小川は? 岩場に湧き水は? 雨の後に溜まった汚い水溜まりでもいい。海水でなければいい。とにかく塩気がないものなら。
昨夜は少しだけ雨が降ったので雨水をある限りの入れ物に溜めた。
それも尽きた。
私たちはツタを探した。ツタ類は水分が多い。茶色い樹木に巻き付いているツタがあった。鉈で切ると後ろの樹皮まで傷つけた。そこから甘い香りが漂ってきた。薄茶色い樹液がにじみ出てきた。なめると蜜のように甘く、ほんのりしょっぱかった。海水を吸い上げて成長する植物なのかもしれない。
切り取ったツタの水分は、少ない上に苦くて飲めたものではなかった。
貯めておいた雨水も尽きた。
もう海水しかない』
――そして次のページは日付が二日ほど飛んでいた。
『ついに水が無くなった。あの樹液しかない。樹上の分厚い葉の上に溜まっているから取りやすい』
――さらにとんで数日後。
『乾きは限界だった。
水なしでは乾パンも喉を通らない。
あの樹液をつけて食べたやつはうまかったと喜んでいた。
昨日そいつは狂乱して森へ入っていった。
あと何人生きているだろう。
沖に見えているあの影が難破していない船だとしても、我々のこの姿を見たら助けてくれないかも知れない。誰かにこの手記を見て欲しいが、あの船の人間に渡せるかわからないから海に流そうと思う。
今朝、浜辺で大きな甲殻類を見た。食べられるかも知れないと思ったが逃げられた。
いま思えば大きすぎた。大人より大きかった。きっと海の怪物だ。魔物かも知れない。二度と遭遇したくない』
手記はここで終わっていた。
最後の方の筆跡は、なぐり書きのようにひどく乱れていた。
「へえ、あの島で、こんなものを書いたやつがいたのか……」
老船乗りは忌々しげに顔を歪め、黒く縮んだ革表紙の手帳をイアン・ニートルへ投げ戻した。
「あんた、いったいどうやって、あの島にあったものを手に入れたんだ?」
そこでおかしな事実に気づく。
あの島からは生きて戻れない。それが呪われた島の伝説だ。
もしかしたら広い世界のどこかには、老船乗りのような極めて珍しい生還者がもう一人くらいいるかもしれないが……。
これほど長生きしていても、自分以外でそんな噂すら聞いたことはない。
「どういうこってえ? 俺たちはあの島へ持っていった物は何もかも処分したんだぞ。船長の指示でな」
遭難者に与える着替えの服やらシーツ、新しい毛布まで、作業するためのロープも、はては島で使った鉈まで、あの島の海岸でデカいたき火を焚いて放り込んだ。
あの島に残されたのは、完全に動けなくなった者――ほとんどが秒読みで死者となるも者だだけだった。老船乗りたちは、遭難者が作ったとおぼしき、小屋みたいなものにまでぜんぶ火をつけたのだ。こんな手帳なんて残っていたはずがない。
「そうか。さてはこの日記、あんたが作ったんだろ。これを出版社へ売るつもりだな。それで俺の知っていることで内容を補いたいんだな」
「とんでもない、これは本物だよ。よく見たまえ。最後に沖に船を見たと書いてある。君たちの船が来る直前まで、書かれていた手記なんだよ。それから彼は手帳を瓶に詰めて流した。これがそうだ」
それはよくある飴色の古いクスリ瓶だった。広めの口部分は大きなコルクでフタがしてあった。口の周囲には蝋の滓がこびりついている。コルクでフタをして、さらに水が一滴も入らないよう、蝋燭を溶かした蝋で密封してから、海へ流したのだろう。
たとえ生きている間に救助の手が来ても、彼らはもう戻れない。一縷の望みを掛けて、自分たちの運命を、人間の世界へ知らせんとしたのだ。
「この手記からわかるように、彼らはもう末期的症状だったんだ。たまたま島の近くを通りかかった船の君たちが新しい難破船に気づき、彼らの様子を見て、置き去りにしたのは仕方の無いことだ。いやはや良識のある船長だったね。そうしないと全員が島から出られなくなっただろうからね」
イアン・ニートルは鷹揚にうなずいた。
老船乗りはホッとした。
「ああ、そうだ。あんなの、とても連れて帰れねえよ……」
老船乗りはやましさを思い出した。
イアン・ニートルが、当時の老船乗りたちがたとえ仕方が無かったにせよ、人道にもとる行為をしたと言い訳をしなくてすむように会話を運んでくれたことに、わずかな安心感をおぼえた。
それでも、イアン・ニートルがあの呪われた島の話を聞きたがる理由は見当がつかないが……。
イアン・ニートルは指先で黒い革の手帳を軽く叩いた。
「じつは、こいつは海岸の漂着物なんだ。ほら、よくあるだろう。壜に入れられて海に運ばれてきたものが砂浜に流れ着く。そいつを漁師の子が拾って、港のがらくた市で売っていた。それが巡りめぐって、私の手に入ったってわけだ」
「それが呪われた島の犠牲者の手記だったって?」
しかもそれを持って、呪われた島の話を聞くため、わざわざ唯一の生存者の老船乗りを探してこんなへんぴな港町まで来るなんて、物好きにもほどがある。
「できすぎだろう。それで、なんでかは知らんが、アンタはあの島へ行きたくて、俺を探したのか?」
「呪われた島が実在するのは知っているよ。まあ、その話をするのは後回しだ」
イアン・ニートルは古い手帳を目の高さに軽く掲げた。
「私が知りたいのは、あなたがなぜ三度もあの島へ行き、その都度生還できたのか。その詳しい内容を話してほしい。そして、あなたから呪われた島の話を聞いた者が、こぞって呪われた島へ行こうとするのか? 行った者は帰ってこないのに、忠告も受けているのに、おかしいじゃないか。私が調べているのはその理由だ」
老船乗りはちょっと考え込んだ後、ゆっくりと顔を上げた。
「その分の情報代は?」
「もちろん、払うとも」
テーブルへ、大人の握りこぶし大の革袋がまたひとつ置かれた。