第十四話:幽霊伝説の終わり
酒場の伝説だったやっかいな幽霊はいなくなった。
昨日までは昼間でも薄暗く、湿っぽいどんよりした空気で満ちていた酒場の雰囲気が、多量の雨でゴミが洗い流された道のように清々しくなったのだ。
「なんと御礼をいっていいのか! ここの空気がさっぱりしたのが俺にもわかりますよ」
Tシャツにジーンズというラフな格好の若者は、この〈海王亭〉の五代目になる。
「あんなまるっきり生きているみたいな老人の亡霊がしょっちゅう出るなんて、とんでもないですからね。親父の代までは、あの偏屈じいさんの機嫌を損ねたら家族に呪いをかけられないかと気をもんでいた祖父の遺言で、毎日夕方になると、昔通りの定食を一人前、あのテーブルに置いていたんですよ」
その慣習は、若い店主に代替わりしても続けられていたが、数ヶ月前の完全な閉店と共に終わった。
さしもの偏屈な幽霊も、閉店して無人になった店に文句はつけられまい。
この酒場だった建物で祖父や親父がどんな体験をしたかは知らないが、少なくとも若い店主に悪いことが起こった試しはない。
酒場の閉店を決めたのは港町が寂れて客が減ったからだし、それは世界的なご時世の影響だ。
若い店主自身は都会の小さなレストラン経営者だ。客が十人も入ればいっぱいになる裏通りの店だとしても、彼は成功者なのである。
「それはそれは。長いあいだ苦労されたことだ」
イアン・ニートルはテーブルのそばに立ち、窓から夜明けの光が差し込むのを見て、やけにまぶしそうに目を細めた。
「無害ならともかく、あんな陰気で意地悪そうなやつがずっと店に居座っていたら店の売値にも影響しますからね。……あの、御礼はいかほどすれば?」
若い店主はテーブルの酒瓶やグラスをトレイへ回収し、大半が残されていたつまみの紙皿は、残飯ごとゴミ袋へ落とし入れた。
「礼とは?」
「見ての通り閉店したんで、あまり出せないんですけどね」
かつて酒場だった店内には椅子やテーブルがあるものの、イアン・ニートルがいたテーブル以外、椅子はすべてテーブルの上にあげられていた。カウンターの奥の棚は空っぽだ。グラスも一本の酒瓶もない。
「ああ、なるほど、人間の謝礼か。いや、私が押しかけて勝手にしたことだ。気にしないでくれ」
イアン・ニートルの無欲さに若い店主は驚いたが、ありがたく感謝をのべた。
風変わりな格好から、てっきり都会の変わり者が――都市伝説やら珍奇な話を収集して生計を立てている類いの人間だろうと――かつて繁栄した古い港の歴史をほじくり返し、過去の栄光にすがる古い酒場の冷やかしに来たと思っていた。
だが、そのしずかな佇まいや無欲さは、どうだ。まるで修行をつんだ修道士のようだ。
彼はたんに、遠い都会で流行している奇抜なファッションセンスの持ち主なのだろう。
古風なスタイルは若い店主の曾祖父が最後に残した写真の礼装にそっくりだし――小さな商船の船長で、最後は海で亡くなったらしいが――あの時代の衣装を好んで着るマニアックな趣味人は意外と多いらしい。
ベストの飾りは非常に風変わりだが、見方を変えれば斬新で重厚な印象がある。それらはイアン・ニートルの独特の冷ややかな雰囲気とあいまって、彼に一種奇妙な威厳らしきものを与えていた。
もしかしたらイアン・ニートルは、若い店主が知らないだけで、都会ではなんらかの道で名を成した御仁かも知れない。
昨夜、用意した酒とつまみは、イアン・ニートルの依頼で特別に調理したものだった。
「この酒場で、その幽霊が生きていた時代に提供されていた、最高級品の酒と定番のつまみを出して欲しい」と。
イアン・ニートルからたっぷり前金を渡されたから用意できたもので、それがなければ、近所の店で買える油で揚げたフィッシュフライとポテトになっただろう。
かつて幽霊見物に来た心霊現象の好事家の多くは、イアン・ニートルと同じように、あの幽霊じいさんが座るテーブルに相席したがった。
その夜、ここに宿泊した客はそろって翌朝『とんでもない悪夢を見た』と、フロントへ訴えるのだ。
海や船の怪異にまつわる幽霊談は帆船時代のものと思いがちだが、老船乗りが死んだ年はわかっている。祖父が少年の頃だ。そう思えばそれほど遠い昔でもない。
老船乗りは目立たない陰気な男で、性格は傲慢で偏屈。片足が悪いから杖を手放せず、腕っぷしは弱く、たまに気の合わない客と口ゲンカをする以外には目立ったトラブルも起こさないから、出入り禁止にもできなかった。
その最後は、この酒場よりワンランク安い下宿屋で、ある朝ひっそり死んでいた。
享年百歳前後。老いた船乗りの本名や正確な年齢は、下宿屋の主人すら知らなかった。
下宿代も食事の支払いも滞ったことはなかった。生活に困らない程度の蓄えはあったようだ。
近所に親しい友人はおらず、訃報を聞いたとて訊ねてくる人もいない。遺品は古い小さなトランクに、最低限の生活用品だけだった。
死ぬまで着ていたボロボロの上着のポケットからは、小さな黄金の延べ板が出てきた。手の平に握り込めるほど小さく、正規の刻印がない。由来は不明。昔の鍛冶屋で砂金を溶かして手作りでもしたか、帆船時代のアンティークだったのかも知れない。
下宿屋の主人はそれを下宿代として取ることなく、老船乗りの墓へ一緒に埋めた。
いかに小さくとも黄金であり、老船乗りが死ぬまで執着していた品物だ。もし手をつけたら確実に呪われそうで、誰も欲しがらなかったのである。
初めて老船乗りの幽霊が目撃されたのは埋葬された翌日だった。出たのは死んだ下宿屋ではなく、毎日食事に通っていた酒場のいつものテーブル席だ。
老船乗りの幽霊は自分が死んだことに気づいていないふうで、当時の店主だった若い店主の曾祖母へいつも通りに食事を注文したという。
この酒場は、若い店主の曾祖父が始めたものだった。
自分で小さな船会社を起こした曾祖父は、航海に出ていったきり、帰らなかった。中年で寡婦となった曾祖母は、残された唯一の資産である酒場を切り盛りしながら祖父を育て上げた。
祖父の話によると、曾祖母も祖父も生活するのに必死で、幽霊を恐れている余裕がなかったそうだ。
祖父は地元で早くに結婚して酒場を継いだ。そして、死ぬまで老船乗りの幽霊を気にしていた。
べつに祖父は、老船乗りの生前も死後にも、悪いことなどしていない。
ただその老船乗りが性格の悪い男だという噂は――心底から性根の腐った悪党でならず者だというのは、当時の酒場にきていた船舶関係者の間では有名な話だったらしい。
老船乗りは、ある日、ある船から港へ降り立ち、住みはじめた。それは誰も知らない、国籍すらわからない船だったとも。当時はバミューダ海域の向こうにある異界の海から来た男では? という噂まであったらしい。
そんな男だったので、たとえ死後だろうと幽霊だろうと、祖父はもしも機嫌を損ねたら家族に危害を加えられるのではないかと心配していたのだ。
それに、霊現象以外にも実害はあった。
因果関係の証拠は無いのだが、この酒場に宿泊した客が何人も、ここの港から出航したのち行方不明になっていた。
彼らがチェックアウトしてから出航するまでに出会った人々の証言によると、「真夜中に酒場で老いた船乗りと話をした」だの「呪いの島の近くにある難破船の墓場に行くのだ」などと、奇妙な話をしていたという。
ときどき警察や私立探偵が来るようになったのは、幽霊の噂が広まってからだった。
祖父も親父も、泊まり客の失踪に関わっていないかしつこく訊かれ 強盗殺人の疑いすらかけられて困ったという。
親父は老船乗りの幽霊について、祖父から申し送りされたことがあったはずだが、それを若い息子には伝えなかった。なにかのおりに「あの男は呪われていたんだ」と漏らしたきり、老船乗りの話はけっしてしなくなった。
妻に先立たれたあとは早々に酒場の権利を息子に譲り、郊外に買った小さな家でひっそり暮らしている。
こうして若い店主の代になったわけだが、現代でも海で行方不明になる者はいた。
彼らの共通点はやはりこの酒場の宿を利用した客で、一様にチェックアウトした直後、この港から自家用ヨットで出発していた。
地元警察は調べにこなかった。
若い店主は、ふだんは都会に住んでいる。酒場の経営には身元の確かな地元の人間を雇っていた。若い店主が行方不明者と関わりがないのは明白だったのである。




