第十三話:その名と意味は
ありえない。
異常なことがおこっている。
こいつのせいだ。この得体の知れないイアン・ニートルのせいだ。
老船乗りは両手で杖を握った。
「へっ、へえ。おまえみたいな怪物でも、生贄のえり好みをするのか」
殴ってやる。いつものように。一発くらわして、そのすきに逃げてやる。こんなやつにやられてたまるか。
「とんでもない。来る者は拒まずの精神で、なんでも口にするようにしている。とくに人間はずっとむかし、私がまだ海底の泥のなかを這いずり回っていた頃からの、特別な嗜好品だ。粗末にはしない」
イアン・ニートルの言葉は意味深で、老船乗りのシンプルな頭では完全な理解はできなかった。
しかし、自他ともに認めるならず者である老船乗りに残されたわずかな人間らしさ、最も原始的な人としての生存本能が、イアン・ニートルの言葉に含まれた恐るべき危険を察し、老船乗りの背筋を総毛立たせた。
なにか言い返さねば。
黙っていたら、やられてしまう。
「だったら、俺は、おまえさんの好物をたくさんもたらした恩人だろうがッ?」
「ありがた迷惑なのだ。人間とて、多すぎれば困るものがあるだろう。いずれは海の養分として溶けるにせよ、一気に増加すれば、あの島周辺の生態系が崩れてしまうのだ」
「なんだ、難しいことを言いやがって、煙に巻こうってのか?」
「おや、これは失礼した。しかしこれは、あなたから紹介されて島に来た海洋生物学者から学んだ、人間の正しい知識だ。ほら、そこに、彼が描いた私の絵が飾ってある」
老船乗りは目だけを動かして壁を見た。
海洋生物学者の描いた絵?
そんなものが……。
それはかの海洋生物学者が研究対象としていた、海底に生息するという珍しい生物のスケッチだった。
大人の胴ほどもあるという、巨大なダンゴムシのような生き物。深海にいる甲殻類の一種だ。
泥の中を這いずり、腐肉を喰らうもの。
ときには弱って動けなくなった魚にも群れでたかり、骨からすべての肉を剥ぎ取ってしまう、強烈な肉食生物。
そうやって海底をきれいにするありがたい自然界の清掃請負人、ラテン語で『イアニトル』だと、海洋生物学者は言っていた。
あの島にいる巨大なやつはきっと新種だ。かならずや彼が第一発見者となり、こんな学術名をつけるのだと――。
「グレイト・イアニトル」
あの学者がつける予定だったラテン語を使った学術名とやら。
正面から立ち上がった図の、左右にある節の多い足は、イアン・ニートルの着ているベストのデザインとそっくりではないか。
さっきイアン・ニートルは、『私の絵』だと言ったのか?
「おや、あなたも聞いていたのか」
そう、あの学者はあの島の海岸で私をそう呼んだ。私は好奇心を刺激され、しばらく彼を観察していた。
そのとき描かれた私の肖像がこれだ。
よく描けているだろう。
彼は私に対して非常に友好的だったので、一度は無事に帰還させた。あの私を描いた作品が海の藻屑となるのが惜しいと思い、哀れみをかけたのだ。
ところが彼は愚かにも、せっかくの幸運を捨て、またすぐ島へ来た。
こんどは私を捕獲するために。
実物の私を持ち帰らねば、彼の『世界』では認められないそうだ。
だが、私とて拘束され、狭い水槽に飼われて見世物にされたあげく、死ねば標本として博物館とやらに飾られるのはごめんだ。
「だから人間の言う『正当防衛』をさせてもらった。そのきっかけとなったこの絵がよりによって、あなたが滞在しているこの酒場に残されていたとは、なんという偶然だろう」
と、イアン・ニートルは意外な発見をしたように目を見開き、笑みを作った。
「なるほど、こういう状況を〈皮肉〉というのだな。理解したぞ」
逃げなくては。
老船乗りは椅子から転げ落ちた。杖にすがり、這いずるようにして、出口へ向かった。
酒場の扉を開けた。
外が見える。
なにかにぶつかった。
目には見えない壁があった。
「なんだこりゃ!? なんで出られないんだ!?」
透明すぎて目に映らないガラスがあるようだった。こぶしで叩けど、びたんびたんと、まるでコンクリートの壁でも叩くようなにぶく重い感触で、押しても引いても動かないし、杖で殴っても割れない。
「ははは、それは魔法の〈結界〉だ。この酒場は封鎖されている」
イアン・ニートルがおもしろがっている。老船乗りがあたふたするのを、愉快そうに眺めている。
「おまえ、魔法使いか!?」
「いや、人間の使う魔法とはまったく異なるものだ」
イアン・ニートルはケラケラ笑った。明るく陽気な笑い声に、老船乗りは気が狂いそうだった。
こいつ、いま、自分が人間ではないような言い方をしなかったか?
だめだ、こいつに捕まっては。あの島で、この世には死ぬより悪い運命があるのを、俺は知ったじゃないか。
「俺は悪くない。悪いことなんかしていないッ! ここから出せッ! 出してくれえッ!」
こんなに大騒ぎしているのに、店の人間はどこへいったのだろう?
「なぜだ、なぜ誰もいない? ほかのやつはどうしたッ!? 殺したのか?」
完全にパニック状態の老船乗りに、イアン・ニートルは吹き出した。
「この光景を見てなぜそうなるのだ。どこにも死体は無いだろう。ちょっと次元がずれただけだ。いいかげんに現実を認めるのだな」
「現実? なんだ? 何を言っている?」
「自分の手を見ろ」
「なんだと?」
老船乗りの手が透けていた。
「ひいッ!?」
いそいで酒場の出入り口横にある、大きな姿見の前に立った。
「あ、あ、ああ!? なんで、こんな……!!!」
鏡のなかの老船乗りの目は落ちくぼみ、頬はこけ、顔色には血の気がまるでなかった。
これはあれだ、長い船員生活でなんどもお目にかかって知っている、大ケガをした水夫や重病人が、最後になる顔だ。生気が抜けて弛緩した、死のまぎわに顕れる人相。
「人殺し! 俺を殺したな! 殺し屋だったんだな!」
「まさか! 私は殺してなどいない。他の人間と喋れなくはしたが。それがあなたの真実の姿なのだ。あの島の呪いの影響によって、体が塵に還っても死ねなくなっているのだ。思い出すがいい。あの島では皆が最後にそうなっていったことを」
イアン・ニートルが近づいてくる。
「ここはあの島じゃない。意味がわからん、俺を元に戻しやがれ!」
「こうなっても理解できないか。しかし、これほど愚かなあなたでも、残しておけばあの島への手掛かりになってしまうのだ」
老船乗りは杖でなんどもイアン・ニートルの頭を、顔を、その冷酷な横面を、殴りつけたが、すでにこの世の理からはずれた老船乗りとその杖では、なんらダメージを与えることはできなかった。
「さて、そろそろ片付けてしまおう。私は際限の無い悪食だが、こればかりはあなたの献身がなければできないことだ」
イアン・ニートルの姿が丸い灰色の影のごとくふくれあがった。
がり、バリ、ぼり。
じゅるるるるるっ。
――げえっぷ。
供宴は数秒で終わった。




