第十二話:イアン・ニートルの正体
「いかがかな。あなたが現在までここに居る理由がご理解いただけたか?」
イアン・ニートルの話は終わったようだ。
老船乗りは高じた恐怖が突き抜けて虚無になり、かえって冷静になっていた。
得体の知れぬ男への恐怖はある。が、持ち前のひねくれた性格が憎まれ口を叩きだす程度には、心の恐怖を感じるべき部分がおかしなふうに麻痺してしまった。
「バカバカしい。嘘八百並べやがって、そんなデタラメを聞かせるために、わざわざ遠くからこんなへんぴな港の酒場まで来やがったのか。俺がその島で何かしたって証拠なんか何もねえし、俺を脅したって金なんかねえぞ」
「それがあなたの行動原理だな。ご心配なく。金目のものならたっぷり持っている。ああいった金属や紙をどうするのかと思っていたが、人間の世界ではなかなか便利な代物だな。おかげであなたがあの黄金の塊に執着する気持ちをわずかだが理解できたと思う」
イアン・ニートルは獰猛に笑った。すると、彼の方から「カチカチカチッ」と硬いものが打ち合うような音や、「シュシュッ、シュルルッ」と、何かが擦れるような音がさっきより大きく聞こえた。
老船乗りには何の音かさっぱりわからなかった。
気味が悪い。こいつは、いったい何だ?――……そうだ、昔、一風変わった男を見たことがあった。そいつは冷酷無残な、ギラつく目をしていた。どこかの組織の殺し屋だという噂だった。イアン・ニートルは、これほど不気味な男は、きっと殺し屋なのだ。
「わかったぞ。おまえ、やっぱり俺を殺しに来た殺し屋だろう。依頼人は誰だ? あの船長の家族か? ほかの乗員の家族か? ひとり生き残った俺を逆恨みしたんだな。――おい、まさかと思うが、あの島で誰かが生きていたのか。そいつに頼まれたのか?」
「はは、よくそれをこの私に訊けるものだ。あの島で人間が生きられないのはあなたが誰よりもよく知っているのに。あなたが乗った船は魔の海域を無事に往来できるはずが、なぜあのとき海が荒れたのか、自分でわかっていないのか?」
ぎろり、老船乗りを見たイアン・ニートルの目は真っ黒だった。白目の部分まで黒に染まったその目は、闇の泥濘そのもののように、一片の光も無かった。
「呪いにまみれたあなたは、もはや呪いと同じ波長の人間となっている。あなたが乗る船もまた呪いと同じ波長につつまれるがゆえに、魔の海域は嵐を発動させることなく、あなたが乗りこんだ船はあの海域を自由に往来できたのだ。あなたがそう望むかぎりは。だが、あの船を呪ったのは、あなただ。魔の海域ではない。呪われた島の呪いにまみれた男が、その真っ黒な心の底で大きく育てた恨みと憎しみが呪いの嵐を呼んだのだ」
「ちがうッ、ちがうッ!」
老船乗りは、恐怖の悲鳴の代わりに大声で怒鳴りつけ、杖でテーブルを何度も叩いた。
二度目の航海で医者どもが無事に帰還したように、老船乗りは嘘偽りなく自分が覚えている航路の安全と、自身の悪運強さを信じていた。
あの船長たちに約束したのは恐ろしい嵐との遭遇ではなく、真実、金の延べ棒など人間の世界でおおいに価値ある物の分配だった。
「難破したのも、嵐がおきたのも、俺のせいじゃないッ。おまえだ、おまえ、あの海の化け物なんだろう? きっとおまえが嵐を起こしたんだ!」
たとえ三十人で分けたって、余るほどあったのだ。なにせ数百年分の難破船の置き土産だ。金貨銀貨、ルビーにサファイヤ、ダイヤモンドにエメラルドの原石。真珠に紅サンゴ……。
難破して助かった人々は、なぜあんなものまでごていねいにあの島へ運び込んだんだろう。あんなものさえなければ、老船乗りはこんな運命にならなかったのに。
「それも人間の欲望というものらしいな」
一瞬、イアン・ニートルの姿が陽炎のように揺らめいた。
老船乗りは驚いて、息を止めた。
なんだ、いまのは。
濃い灰色の、ゴツゴツした甲羅のような、頭には触角があって、胴の左右には何本もの節のある足が生えていて……。カチカチという音は、その強靱なアゴが牙を鳴らす音。シュシュッ、というのは、あの何本もの足が擦れ合う音だ。
こいつは何者だって? 警官? 港湾局員? 闇組織の人間――殺し屋? ちがう、そんなまともなものじゃない。
全体が歪んで膨らんで――まるで濃い灰色の鎧みたいな殻で全身を覆われた、巨大なダンゴ虫の化け物――人間とはかけ離れたその姿。
老船乗りの本能が、いままでさんざん紙一重の命拾いをしてきた直感が、叫んだ。
こいつは人じゃない。
本当に、人間じゃないんだ。
あの島と同じもの。人ならざるもの。深海の怪物。
「おまえ、人間じゃないじゃないかッ!?」
気がつけば訊いていた。その答は期待せずに。
すぐに、回答は実見として与えられた。
イアン・ニートルの全身は、いまだ人間の形を保っていたが、老船乗りの目に映る姿は闇と灰色で作られた全身が暗く濁りきった紫色のオーラに包まれていた。
それに冷気だ。巨大な氷山に遭遇したよりも冷たい、骨から凍りつきそうな冷気がイアン・ニートルの方から漂ってくる。
「ほう、あなたでも怖いのか。そうだな、私のことをわかるように説明すると……どうやら私のような種を、人間は〈海の掃除屋〉だのと呼んでいるそうだ。私個人は最近〈清掃請負人〉と呼ばれたのが気に入ったので、それを名乗ることにしたのだよ」
イアン・ニートルは立っていた。いつのまに立ち上がったのか、老船乗りは気づかなかった。
「私がなぜここに来たのか、あなたの愚かな頭にも理解できるように説明しよう。困るのだ。あの島の噂をむやみやたらに広められるのは。より多くの人間が訪れようとし、その数だけの遭難者が出る。魔の海域だの呪いの島だのと避けられるならまだよいが、あまり有名になりすぎると、いずれは私が来て欲しくない人間まで来るだろう」
老船乗りは逃げようと思い、杖にすがった。
腰が抜けて立てなかった。
そうだ、誰かを呼ぼう。
給仕はなぜ来ない?
用心棒はどこだ。あの大男たちは老船乗りとはすっかり顔なじみだ。少しくらい金をふんだくられたってかまうものか。
「おい、おおーい、だれか、来てくれッ。こいつを店の外へ放り出してくれ!」
なんで誰も来ないんだ?
ほかの客席は――空っぽだった。
カウンターも。
夜のこの時間に客がいないなど、老船乗りがこの店へ通い始めて以来の珍事だ。
注文取りの女もバーテンも、一人の用心棒の姿もない。




