第十一話:誰の〈呪い〉なのか
「馬鹿言え、どんな優秀な探偵が調べたって、わかるわけがない。この世で俺しか知らないことだ。なのにおまえはなぜ、見てきたように話すんだ?」
すなおな肯定も空っぽな否定も、イアン・ニートルには通じない。老船乗りはすでに理解していた。
イアン・ニートルは老船乗りの邪悪な過去の所業を淡々と語る。まるで天気の記録でも読み上げるように。老船乗りの悪事だらけの過去がおぞましいとは微塵も思っていないようだ。
「見ていたのだ。あの海岸の波打ち際で」
イアン・ニートルのさきほどと変わらぬ回答は、老船乗りを理解できない恐怖で揺さぶった。
「嘘つきめッ。あそこには俺たち以外誰もいなかった。ほかには誰も、人間は……」
老船乗りはカタカタと震えながら、今一度イアン・ニートルの顔を観察した。
黒い髪はピッタリとなでつけられており、皮膚の色は白よりも蒼白い。その顔立ちは、初見で都会育ちの優男とおもった程度に整っているが、眉は濃く、なかなか男臭い風貌だ。一度見たらそうそう忘れまい。長の年月、印象に残りそうな顔貌なのに……。
知らない顔だ。老船乗りの記憶のどこにも存在しない顔だ。過去に乗船したどの船にもいなかった。老船乗りの記憶は間違いない。
イアン・ニートルを都会人だと思ったのはその服のせいだ。上着もズボンも黒色、靴は短靴。都会から来る旅行者がよくはいているやつだ。全体的に老船乗りが知る紳士階級の男達の格好に似ている。体に合った仕立ては胸から胴にかけて逞しい体の線がわかる。上着の下からのぞくベストはとても変わっていて、両サイドに鋼色に艶光りする肋骨のような飾りがある。その肋骨が両脇の後ろから前へ、イアン・ニートルの胴体を包むようなデザインは、どこか鎧の胴着をおもわせた。肋骨みたいな部分のところどころに細い銀の鎖が垂れ下がり、酒場のランタンの炎を受けてにぶい光をはなっている。
変わったベストだ。どこかであれによく似たものを見た気がする。
どこでだったろう?
老船乗りは古い記憶の海を探した。
やがて思考の触手が突ついた脳の記憶野の奥深く、夢にも顕れない混沌とした深い領域から、もやもやとした灰色の粒子が形を作りはじめた。
――そうだ、あの島で……。
あの海岸に、あのときいたもの。
とつぜん、過去に見た光景がまざまざと蘇った。
青い海。波打ち際の白い泡。まぶしい砂浜。灰色の、巨大な生き物。
そいつは硬い外殻をもつ、深海に棲まう甲殻類のようなもので、砂浜で見かけるのは非常に稀なことなのだと、あの海洋生物学者は言った。
かつて老船乗りが案内した海洋生物学者は、そいつの研究をしていると言っていた。その名前は――砂を掘る虫がどうとか。
あの島の海で新しい種類を発見したら、自分が新しい名前をつけるのだと。
老船乗りは、イアン・ニートルへまっすぐに顔を向けた。
ほんとうは見たくもなかった。
でも、首が動いて目が引きつけられた。
イアン・ニートルはしっかと老船乗りを見据えている。その口が動いた。
シャク、シャク。
何かが擦れるような奇妙な音がした。
「船長は大急ぎで船を出したが、脱出するには遅かった。魔の海域で〈呪い〉は発動したのだ。船は難破し、全員が島へ戻らざるをえなくなった。あなたもだ。二度目の順調な帰還とは大違いで、船が完全に航行不能になってしまった。そこであなたはいつものように、なにより強い自分の生存本能に従い、自分を生かすために、仲間を見捨てることにした」
島については他の者より一日の長があった老船乗りは、難破した遭難者が島から脱出するには、時間との勝負とタイミングであることを知っていた。
だから残り少ない水樽と食料をまんまと隠し、皆が必死で修理した最後のボートを盗み、ひとりで逃げ出した。
「あなたはあの船長を、船員達を憎んだ。あなたは、船が何事もなく航海して帰れることを微塵も考えなかった。あなたの心は憎しみと逆恨みでいっぱいになっていた。魔の海域はそれに反応したのだ」
「あの船長が俺との約束を破ったからだ。あれは裏切りだ。あと少しだったのに!」
こんども、なにひとつ持ち出せなかった。
もっともどこかから金塊を取り出せたとしても小さなボートは水と食料でいっぱいで、重い金塊を積める隙間など無かった。もし無理矢理乗せたら重量オーバーとなり、転覆の原因になっただろう。
老船乗りはとうとう金塊をあきらめたのに――これほどの犠牲を払ったのに、そのボートもようよう魔の海域を脱出した後、呪いとは無関係な自然界の嵐であっけなく壊れた。
だが、老船乗りの悪運は強かった。壊れたボートの板きれにしがみついて浮いていたら、数時間のうちにまたもや通りすがりの船に救助され、九死に一生を得たのであった。
「私の観察した結果、どうやら人間の生命の価値とは、個人の主観によって変動するようだ。あなたほど顕著な人間も珍しいが、おおむねこれが人間の特徴のようだな。いかがかね、これがことの真相だ。この〈海王亭〉で、長年かの呪いの島を語る伝説の語り部、奇跡の生還者の真実なのだ」
まるで愉快な詩でも朗読しおえたかのように意気揚々と結んだイアン・ニートルに、老船乗りはただただ愕然とするしかなかった。
かの島での最後の難破は、老船乗りのどす黒い人生航路においても最悪の出来事だ。
数えきれぬ罪の固まりのような軌跡のなかで、たとえ海の水を傾けても洗い流すなど到底不可能な、血塗れの金字塔のごときもの。
「ちがう――ちがうんだ。そうじゃないんだ。俺は逃げただけで……俺は、あのときは誰も、殺していない……」
老船乗りはなんども呟いた。イアン・ニートルに言っているのではない。自分に言い聞かせるように。
俺は悪くない。悪くないんだ。
あの島から逃げて、生きたかっただけだ。
それの何が悪い?
「いかなる事象も切り離して単独のものとしてみれば、その意味もまた別の意味を帯びるのか? いやいや、そうではないだろう。この私でさえ、そのくらいわかる。島へ置き去りにされた者はもれなく〈苗床〉となった。船長も航海士も、全員だ。誰一人として人間の世界には戻れなかった」
そこでイアン・ニートルは、ふと思い出したように顔をやや上向けた。
「そうそう、三度の航海であなたが無事だった理由だが、あなたはすでに〈呪い〉にまみれすぎているのだ。もはや島にも魔の海域にも、まともな人間だとは認識されないほどに。だから魔の海域では嵐を呼べた」
この男は何を言っているのだろう。
「おかげで初めは探すのに苦労したが、この港に降り立ったらすぐにわかった。なにしろ、この私が精魂込めて作り上げた〈呪い〉と同じ気配だったのでね」
老船乗りは理解を拒否した。




