第一話:見知らぬ来訪者
「やあ、やっと見つけたよ!」
その男は柔和な笑顔で声をかけてきた。
「昔からこの港で有名な、船乗りの老人を探していたんだ。呪われた島から三度も生還した伝説の船乗りは、あなただね」
イアン・ニートルという都会風の洒落た名刺を渡されても、まったく覚えがない。
「俺に何の用だ?」
老船乗りは訊きかえしながら、なぜだか急に全身鳥肌立った。
危険だ。逃げろ。
この感覚には覚えがある。長い船上生活で培った勘。本能が鳴らす警告。
――おいおい、なんでそんな事を思うんだ?
そんな大きな男じゃない。船乗りみたいな筋肉も無けりゃ、船乗り用のナイフ一本持っちゃいねえ。どこから見たって、都会育ちのひょろひょろだ。
すかんぴんの俺なんか狙ったって、詐欺の投資なんかできねえし、万が一金に困った強盗だったとしても、こんなに客がいる酒場で、俺みたいなよぼよぼの船乗りを襲ったって、稼ぎはポケットの小銭がせいぜいだ。
「人違いだ」
老船乗りは繰り返した。
イアン・ニートルはうれしそうに笑顔になった。
「いやいや、有名だよ。三回も呪われた島へ上陸して、たった一人生きて戻った。ものすごい悪運強い船乗りには、この酒場でしか会えない、という伝説は!」
「人違いだと言ってるだろ。うるさい。あっちへ行け」
老船乗りは邪険に追い払おうとした。
イアン・ニートルは怪しい。見た目からは連想できなくとも、ひょっとしたら凶悪な犯罪者かもしれない。
ここは古くて小さい港だが、昔からの交易点。いろんな所からさまざまな事情を抱えた人間が来る。
気色悪いやつとは関わらないのが正解だ。
「とんでもない、あなたで間違いない。やれやれ、これで仕事を果たせる。さあ、乾杯しようじゃないか!」
イアン・ニートルは強い酒を注文した。酒とつまみが運ばれてきた。老船乗りはめったに注文できない高価な牛肉料理だ。イアン・ニートルが勝手にやるのを、老船乗りは酒のグラスをすすめられても手をつけず、うさんくさげに横目で睨んだ。
「さて、用件は」イアン・ニートルは酒を飲みながら陽気に言った。「もちろん〈水のない島〉の話だ」
もちろんときた!
あんな忌まわしい島のことは、二度と思い出したくもないというのに!
「あれ? 思い出したくないという顔つきだね。もしも忘れかけているなら、思い出して欲しいんだがね」
「なんでだ? あんた、あの呪われた島へ行きたいってのか? やめとけ、誰も戻ってこられないんだぞ。かりに戻れても数年以内に死んじまうんだぞ。島の地面を踏まなくても、船からあの島を見ただけでもだめなんだぞ」
「でも、あなたはここにいるじゃないか」
「俺が生きてる理由なんか知るもんか。とっとと行っちまえ!」
だが、逃げ出す選択肢はなかった。老船乗りは若い頃から左足が悪くて杖をついている。走って逃げることができない。
「まあまあ、そう言わずに、頼むよ。私はあなたの体験談を聞きたいだけだよ」
馴れ馴れしいうえに、しつこい男だ。
老船乗りは考えた。
いっそ、店の者に助けを求めるか?
しかし、穏やかに話しかけてくるだけの客を、店の用心棒に頼んで叩き出してもらうには理由として弱い。それでなくても最近は店員に無視されるのだ。ムリに頼みごとをするなら、足下を見られてよけいな金を取られるだろう。
老船乗りはいつもの話をすることにした。
「ふん、まだ頭は惚けてないぞ。情報を買いたいなら金を払え」
イアン・ニートルは、もしかしたら都会の出版社からきた雑誌記者かもしれない。あるいは海洋生物の研究者ということもある。
先週も、離れ小島とそこにいる珍しい鳥を探しているという学者が、大金を払って船を雇った話を聞いたではないか。――だが、それならそうと、最初に身分を明かして目的を言うだろう。
だったら、イアン・ニートルとは、いったい何者だ……?
とん、とテーブルに重い小袋が置かれた。
「お礼はこれでいいかな?」
大人の握りこぶし大の革袋だ。イアン・ニートルが袋の口をゆるめると、中身がザラッと音を立てた。
すばらしい黄金の輝きが目を射た。
砂金だ。しかもかなり純度が高い。この辺りで使われている古びてすり減った金貨よりも、はるかに換金率が良い報酬だ。
これだけあればむこう一年は何の心配もなく宿代が払え、毎日好きなだけ飲み食いもできる。老船乗りがあの島の話をすれば、この砂金は老船乗りのものなのだ。
「……あ、あー、なんだ、話がわかるお人じゃねえか。いいぜ、なんでも聞いてくれ。何の話が聞きたいってんだ?」
目の前のテーブルに、黒い革表紙の小さな手帳がポンと置かれた。
「まずはこいつだ。これに書いてあることの裏付けをとりたい」
老船乗りはその手帳を手に取った。
黒く縮んだ革表紙は石のように硬い。おそらく一度濡れてグニャグニャにふやけて乾き、硬質化したのだろう。
開けると、ゴワゴワでシミだらけの紙に、鉛筆で細かい文字がびっしり書いてある。それでも読めるのは、紙が耐久性の高い高級品で、鉛筆で書いているからだ。鉛筆なら水で濡れても文字が消えない。船乗りの常識だ。
自分の名前以上が書ける教養の持ち主なら、もしかすると船長だったかもしれない。
「例の呪われた島の近くで難破して、しばらく生き延びた犠牲者が残した手記だ。これによると、その島に生えている茶色い木の樹液を舐めたら、体に異常が起こるらしい。まあ、説明しなくても、あなたは見たことがあるから知っているだろうがね」
老船乗りは「ケッ!」とつばを床へ吐き捨てた。
「ふん。だから、あの島のことを聞かれたときは忠告しながら話すのさ。呪われた島へ行けば呪いに掛かって死んじまうぞってね」
この港に昔からある〈海王亭〉に来る船乗りでさえ、老船乗り以外にあの島へ行って帰ってきた者はいない。少なくとも老船乗りは知らない。
「ほう、見かけによらず親切なのだね。だがね、あの樹木の分泌物を食べたり、素手でしつこく触わらなければ、そうそう異常は起こらないはずなんだ。――まあ、それも実際に見たなら、知っているだろう?」
イアン・ニートルこそ見てきたようにあの島のことを話す。
気味の悪い男だ。
老船乗りはとぼけることにした。
「さあ、どうだったかな。――しかし、アンタ、あの島のことにやけに詳しいな」
頭の中ではまだ警告が鳴っていたが、老船乗りはいつものように話すことにした。