至恩に揺れる赤い痕
(……そろそろ、か)
少年はどうにも落ち着けなかった。
もし仮にこの現象が「タイムスリップ」なのだとしたら――ほぼ確実にやってくるのが、あの“入浴イベント”だからだ。
(いや……あれは偶然起きた事故だった……出来ることなら、今回は避けたい……)
少年の頭はぐるぐると回転していた。
彼がこの部屋に「しばらくいる」理由――それは、警備員としての警備任務だという、言い逃れの効かない嘘だった。
理由は単純だった。
それしか、彼女と接触するための大義名分が思いつかなかったからだ。
それに、もし別の手段を取って“分岐”が発生でもしたら――どうなるか想像もつかない。
(……入浴イベントも同じ。できれば回避したいけど……)
(それに……あのとき見た彼女の肩の赤み……もう一度、確かめておきたい)
少年は何も言わず、静かに部屋を後にする。
彼女を守る――その強い決意を胸に秘めながら。
*
『きゃあっ!?』
少女がバスルームの扉を開けたその瞬間、先客がいた。
そう、少年――アリエル。
何やら妙なサングラスをかけ、湯気の中に座っていた。
――登山用サングラス。
肌色の露出を軽減し、赤みや変色部分だけが強調される特殊レンズ。
防水仕様で、浴室内の異常確認や応急処置のため、正式に警備員に支給されている。
もちろん、任務上必要な場面でのみの使用が前提だ。
(あくまで任務……あくまで確認のため……)
(僕は彼女を守るために、これを使っているだけなんだ)
ミルナは瞬時に悲鳴を上げ、扉をバタンと閉めた。
慌てて取り繕うアリエルは、思わず口を開く。
『大丈夫です、お嬢さま。このサングラスは特製品。貴女のプライバシーを損なうことはありません』
『そういう問題じゃないかしらっ!? 何故、貴方がここにいるのよっ、嘘つき警備員っ!!』
しまった、とアリエルは心の中で呻く。
忘れていたわけではない――だが、こればかりはどうしようもなかった。
汗が止まらない。全身から冷や汗が噴き出す。
『お、お待ちください! お嬢さ……っ』
だが、ミルナはもう走り去っていた。
この流れ――おそらく、前回と同じく非常呼び出しボタンを押しに行く気だ。
あれもタイミング次第でどうにかなるかもしれない……が、やるしかない。
アリエルはバスタオルを片手に風呂場を飛び出した。
*
『やっ……やめてっ……』
タオル越しに、触れる。
二度目だ。
滑った――のだと思う。いや、そう思いたい。
彼女に触れるつもりなんて、なかった。
(……なかったはず、だ)
不意に、身体がこわばる。緊張していた。
前よりは少し冷静。でも、それが逆に怖い。
マネージャーの立場?
そんなもの、今となってはどうでもよかった。
――これは通過儀礼。
回避できない。必要なこと。
(ここを越えなければ、彼女に触れられない)
転倒の位置。角度。
タオルを挟んだ距離。見えないようにかけたサングラス。
どこまで意識して、どこまで無意識だったか――自分でも、覚えていない。
『……かしら?』
『ちょっと! 聞いてるかしら!!?』
すべてが完璧に決まった、その瞬間。
何かが――完全に崩れる音がした。
触れた肌の温もりが、指先から溶け落ちていく。
――少女の肩の、赤い痕。
呼びかける声に反応するように、
見上げた少女へ白いアイスをーーそっと差し出す。
*
――運命の歯車は、既に音もなく廻りだしていた。
『はぁ……? これ、何なのよっ……!?』
アリエルとミルナは、テレビの前に座っていた。
どのチャンネルに回しても、結婚相談所しか映らない。
ミルナだけが、驚いた顔をしている。
(これで二度目の視聴……分かってはいるけど……つまらない)
だが、少年の目に映るものは違っていた。
全く同じようで――どこか、おかしい。
そこには、いつも通りのAさんが映っていた。
レポーター:「さあ始まりました! 『なぜ結婚できたんダ!?スペシャル』!
まず最初の応募者はこちら、Aさんです! それでは早速お話を伺っていきましょう。Aさん?」
……タイトルが違う。
微妙な違和感。気づくのが一瞬遅れた。
だけどそれは、些細どころではない違いだった。
(前回は……結婚できなかったはずなのに!? すでに――結果が変わってる!?)
思わず、冷や汗が頬を伝う。
画面の中で、Aさんが結婚できた理由が語られていく。
条件を必要以上に釣り上げず、本当に合った人を探したこと。
そして、変えることのなかった価値観を揺さぶった、あるアドバイザーとの出会い――
それは、紛れもなくアリエル自身のことを指していた。
何げない日々の仕事。たったひとつの会話。
それが、確実に形を変えて反映されている恐怖。
(とっくに……分岐していたというのか?)
(いや、これは……ミルナと僕の関係を変える分岐じゃないはずだ……!)
頭の中に、鈍い音が響く。
理解が追いつかない。けれど確かに、「何か」が進んでいる。
そんな少年の混乱を、なだめるようなタイミングで、
少女がすっとリモコンに手を伸ばした。
『ふぅん。中々参考になるのよ。でも……少し、つまらないかしら』