悪魔の再来
『お客様のためを思って言っているのです。もう少し条件を緩めたほうが――』
……ああ、もう口癖になってるな。
周りの社員が笑ってこちらを見ていた。
どこか諦めたように。どこか軽んじたように。
でも、評価は悪くない。
仕事は板についた。相談件数もトップだ。
“やり手”と呼ばれて、拍手されて、表彰されたこともある。
(……なんでだろうな。あの一件以来、僕は夢を見なくなった)
それがきっと、仕事の邪魔をしなくなった理由。
余計な期待も、痛みも、なくなった。
サポートもいらない。
もう、一人前なんだ。
*
僕をこの店に入れてくれた受付のお姉さんは、もういない。
あの人は、いつも笑ってた。
でも、たまにつまらなそうな顔もしてたんだ。
気づいていたけど、何も言わなかった。
あれが理由だったのかな。
ある日、急に辞めていった。
*
気がつけば、僕はトップアドバイザーになっていた。
特別に頑張ったつもりはない。
夢を見なくなったら、自然と昇進していた。
不思議なことに、昇進すればするほど――
拍手の数は、減っていった。
(……嫉妬か。醜いもんだ)
そんなある日。
アリエルは上役に呼び止められた。
『アリエル君、ちょっといいかね』
『はい、何でしょう』
その表情に、わずかな違和感を覚える。
訝しげな目つき。いつもと違う声のトーン。
『最近、ホテルスタッフが足りてなくてね。
君に、暫くのあいだマネージャーを任せたいのだが……引き受けてくれるかな?』
その瞬間だった。
――全身を突き抜けるような音が、アリエルの中で鳴り響いた。
ホテルマネージャー、だと……?
もうこりごりだったはずの役職。
あの場所で見た景色。
ミルナ、夢、目覚め、失われた日々。
あの“境界”にいた頃の記憶が、脈打つように蘇る。
(これは……左遷か?)
反射的に、そう疑った。
表では丁重に。だが実質的には冷遇――
そんな例を、何度も見てきた。
けれど、下手に拒めば評価は落ちる。
昇進は遠のく。
何より……上役の真意を測るには、都合のいい舞台だ。
……心の奥で、まだ何かが燻っていた。
そして、ほんのわずかの間を置いて、アリエルは答えた。
『――暫くということでしたら、引き受けます』
*
少年の部屋に着くや否や、彼は幻覚を見ていた。
『ご機嫌よう。貴方が私の担当でして?』
……居る。確かに、そこに居る。
白磁のように透き通った肌、深紅に染まる瞳。
その姿は、絶対に間違えるはずもない。
ーーープラハ・ミルナ。そのものだった。
*
『こ、こらっ! 待つかしらっ! レディを置いてどこへ行くつもりなのよっ!』
――怖かった。
嬉しさよりも、圧倒的な恐怖のほうが勝っていた。
少年は我を忘れ、部屋のあらゆる扉を手当たり次第に開けた。
何がどうなっているのか、まったく分からない。
でも、何度開けても、そこは自分の部屋だった。
ただの“部屋”なのだ。広がりもなければ、出口もない。
――閉じ込められている。
その現実が、ゆっくりと脳を侵食していく。
ひとつの希望にすがるように、少年はエレベーターへと駆け出す。
(ない、あってくれるな……! お願いだ)
切実な祈りと裏腹に、現実はあまりにも残酷だった。
「メンテナンス中」「清掃作業中」
そんな張り紙が、まるで呪いのように扉を覆っている。
見渡しても、他に出口などどこにもない。
あり得るはずの現実が、音もなく崩れ落ちていった。
やがて少年は、肩を震わせながら、ひとつの結論に辿り着く。
『そ、そんな馬鹿な……た、タイムスリップしているのか……!?』
――それは、近からずとも遠からず。
運命の輪が音もなくかみ合い、いままさに“狂い始めた”ことを告げる、最初の兆しだった。
*
『来、来るなっ……!!!』
少年は小さく、震える声で呟いた。
コツ、コツ――と、少女の足音がゆっくりと近づいてくる。
(違う、これは夢だ……悪夢なんだ……!)
(早く目を覚ませ、頼む……近づくな、来るな、この――)
『悪魔ーー!!!』
咄嗟に叫んだその一言が、静寂を裂いた。
少女の瞳が、ぴたりと揺れる。
そのわずかな揺らぎと同時に、少年の胸にも何かが軋むように波打った。
引き攣った顔?
蔑むような、冷たい目?
本気で「怖い」と伝えたとき、人はどう応えるのか。
あの言葉で彼女を突き放してしまった――そんな後悔が一瞬、胸をよぎる。
けれど――それは、違った。
『誰が悪魔よ。失礼しちゃうかしら』
ふわりと差し出された手。
白く細い指先に、確かな体温があった。
どこか呆れたような、それでも優しい笑み。
少年を拒絶しないその瞳に、確かに何かがあった。
(そうだ……僕は、あの子に何度も助けられてばかりだった)
(今度こそ、今度こそ僕が――守らなきゃ)
少年は、その手をしっかりと握る。
もう、あのときのような迷いはない。
自然に、静かに――二人で部屋へと戻っていった。