常勝極夜はもう来ない
少年は、呆然としていた。
丸一日――ベッドの隅に膝を抱え、部屋の奥に閉じこもっていた。
それでも誰からも声はかからなかった。呼び出しも、叱責も、何ひとつ。
(……まるで全部が、嘘だったみたいだ)
静かすぎる。
空気が、妙に軽い。
耳に届く音が、どれもどこか遠い。
そして――朝だった。
ミルナと夜を越えた、あの次の日。
ただ何げなくカーテンを開けたとき、差し込んだのは本物の太陽光だった。
目を細める。眩しさに慣れていない。
光が揺れている。風に揺れる葉の影が、部屋の床を泳いでいた。
(これって……自然光?)
信じられなかった。
風恋広場には、太陽が滅多に昇らない。
それゆえ人々はこの地を「常勝極夜」と呼ぶ。
約二十年前。
慢性的な生活リズムの乱れを訴えた住民の声を受け、政府が導入したのが――人工太陽システムだった。
個々のリズムに合わせ、提灯のように光を“点灯・消灯”できる照明装置。
風恋広場の空に広がるそれは、もはやもう一つの空と呼べるものだった。
(それが……ない?)
少年はカーテンを開けきって外を見渡す。
人工の太陽も、空を覆っていた光源パネルも、一切存在していなかった。
風景がまるで違う。
このホテルごと、まるで異なる場所に移動してしまったかのような錯覚。
(……僕、何かに取り残された?)
肩が、ぞくりと震える。
(丸一日潰しちゃった……)
ようやく我に返る。
(怒られるだけで済めばいいけど……)
彼はこのホテルのマネージャーである。
本来なら前日のどこかでスタッフが確認に来るはずだった。
けれど、誰も来なかった。
(皆に迷惑かけちゃってたかな……でも、呼び出されなかったってことは……)
――暇だったのかな。
そんな希望的観測を抱きながら、制服を探す。
ミルナを迎えた夜、慌ててベッドの下に突っ込んだはずだったが――
(……ない)
どこを探しても、マネージャー専用の制服は見当たらなかった。
(仕方ない、事情を説明して謝ろう。まずは出来る業務から……)
ため息交じりに玄関のドアを開け、エレベーターへ向かう。
(部屋もエレベーターも異常なし。内装も設備も、いつものホテルと変わらないのに……)
重苦しい胸を押さえながら、彼はホテルの一階、正面フロントへ向かった。
そこに立っていたのは、見覚えのある後輩――
受付を担当している彼女は、綺麗なメイド風の制服を着て、いつものように微笑んでいた。
アリエルは軽く頭を下げる。
「昨日はすみません。それと制服、紛失してしまって……何と言ったらいいか……。とにかく出来る範囲の業務はやります。本当に申し訳な――」
途中で、何かがおかしいと気づく。
彼女の視線が、まるで見知らぬ客を見るように冷たかった。
「……お客様?」
彼女が問いかける。
その口調は、柔らかいが確かに“よそ行き”のものだった。
「チェックアウトで、宜しかったでしょうか?」
――え?
その瞬間、少年は硬直した。
世界が、ねじれた気がした。
自分の“居場所”だったはずの空間が、まるで他人のものになっていた。
*
夕陽を背にして、少年は呆然としながら帰途についた。
あの後、必死で駆け回った。
顔見知りを頼り、裏口からも表口からも、食い下がって訊いてまわった。
でも何もかもが“なかったこと”になっていた。
まるで、最初からいなかったかのように。
……ただ一つだけ、残っていた。
――風恋婚活ペアリング。
少年が初めて働いた場所。
小さなブースに登録された社員票には、「新人」の二文字が記されていた。
(……ははっ。何だよ、今までのは全部、夢だったってのかよ)
笑えもしない。
胸の奥にじわじわと、灰色の泥が溜まっていくようだった。
少年は、すっかりやさぐれていた。
無理もない。
ホテル暮らしを夢見て、ようやく掴みかけた場所だった。
そこにいたはずの人々、汗を流した日々、共有した時間……
全部が、なかったことにされた。
もくもくと、煙を吐きながら歩く。
手に握っていたのは一本のパイプ。
病の父に、必死で働いて初めて贈った、大切な一本だった。
(……なんでかな。吸いたくなったんだ)
父が、それをくゆらせながら苦労話をしていた記憶。
笑っていた。少し誇らしげに。
あの煙は、どこかあたたかかった。
……けど今は、ただただ、苦い。
「苦いよ、父さん」
胸を焼くような煙とともに、声が漏れた。
風恋広場に、もやがかかる。
夕暮れの色に溶け込むように、タバコの煙が空をうっすらと覆っていた。
その中を、紅い影が通り過ぎた。
行商人。フードを被った屈強な男たちに囲まれて、一瞬だけ現れた薄紅の少女。
少年は一目見て、そしてそのまま視線を逸らした。
(……ああ、もういい)
「そうさ、夢だったんだよ。何もかも」
少女の姿は、薄暗い路地裏へと吸い込まれていった。
心のどこかが、確かに何かを訴えかけていた。
けれど――今はもう、気にもならない。
出迎える夜の星々を、虚ろに見上げながら、
少年は、瓦礫の納屋の奥へと、音もなく消えていった。