痛みと歌が交わる夜
ははぁ、これが彼女がここに通う本当の理由か。
少年はふと察した。
黒いタブレットを手に取った彼女。
そして、その動きを見逃さずにミルナは白いマイクに手を伸ばす。
このホテルにはカラオケも完備されている。
彼女は一体何を歌うのだろう。少年の視線は自然とタブレットに向かった。
すると――白閃のような光が一瞬視界を遮った。
少年は思わずヒヤリとする。目の前数センチの距離で、白いマイクが鋭く伸びてきたのだから。
「レディへの非礼よっ。貴方が歌うかしら」
まだ怒りは収まっていないのか。
ミルナの表情を窺うが、彼女は少しだけ微笑んでいた。
女心は、本当に難しい。
そう思った瞬間、突然の大きな音が響いた。
ドンドンドン!!!ガシャーン!!!
「おらぁ!お客様!大丈夫っすか?」
勢いよく扉を蹴破り、黒い帽子と制服に身を包んだ男が飛び込んできた。
「まさか私の監督者が初日で女の子を連れ込むなんてね……全く」
しまった――。
床に倒れたボタンが見える。滑った反動で落ちたボタンが、誤って警報を押してしまったのだろう。
少年は警備員の顔を恐る恐る見る。
ひとりは金髪青眼のツッパリ風少年、もうひとりは銀髪白眼の冷静な少女。
間違いない――彼らは、少年が監督する2人の警備員だ。
事前に書類で確認はしていたが、名前までは覚えていない。
「ほら、行くっすよ」
「話は署で聞かせてもらうわ」
弁解の機会も与えられず、少年は強制的に部屋の外へ連れ出された。
*
「部屋が同じ……? そんなこと、あるわけないわ」
冷たく言い放つその声に、少年は黙るしかなかった。
信じてもらえないのも当然だ。自分でさえ、未だに信じ切れずにいるのだから。
目の前で調書を淡々と取る少女――サスティア。
感情を排したような口調。時折、モニターの監視カメラを流し見しながら、指先だけが動いていた。
黒の制服に袖を通した姿は、まるで整然とした機械のようだった。
一方、警備室の扉の前。
そこに腰掛け、口笛を吹きながら足を組んでいる少年――ダウス。
「俺、走るのマジで世界一なんすよ!」
などと意味不明なことを言っていたが、言動と裏腹に意外と状況把握は早いようだった。
「見た感じ、彼女に手を出したわけじゃないようね。……かなりギリギリだったけど」
冷静なサスティアの一言に、少年は心の中で深く安堵する。
ここで誤解されたままだったら、本当に終わっていた。
「いや〜、マジで良かったっすよ。
いきなり初日で先輩捕まえるハメになるとか、トラウマもんっすわ」
軽口を叩くダウスだったが、その顔にはどこか安心した色が浮かんでいた。
「疑いも晴れたことだし、改めて自己紹介させてもらうわ。サスティアよ。これからよろしくね」
「ダウスっす! 何かあったら、いつでも呼んでくださいっす!」
一気に警備室の空気が和らいだ。
この子たちが、僕の新しく担当する監視員なんだ。何だかちょっと、ワクワクしてくる。
「僕の名前はアリエル! こちらこそ、よろしく!」
しっかりと手を握り合い、いい雰囲気になったそのとき――
サスティアがふと、小さく呟いた。
「それにしても……何故、あの子がここに……?」
「え……?」
「……いや、何でもないわ。聞かなかったことにして」
どうしても気になって理由を尋ねるも、彼女は守秘義務の一点張りだった。
けれど、帰り際にこう忠告してくれた――
「あの娘には特に注意して、大切に扱いなさい。 多分、貴方なら任せられるから」
「しっかり彼女と向き合って、逃げないこと。……もしかしたら、彼女の方から――」
そこまで言うと、サスティアは言葉を切り、静かに背を向けた。
ガチャン。
警備室の扉が、音を立てて閉まる。
*
「愛してる〜♪」
部屋の玄関を開けると、ミルナの歌声が響いていた。
それは驚くほど綺麗で、何よりも心がこもっている。
彼女、本当に歌うのが好きなんだな――そう思った。
ここは邪魔しないでおこう。
僕はそろそろと部屋に入り、静かに彼女の歌声に耳を傾ける。
歌っている姿はまるで別人のように真剣で、どこか儚い。
そっと、歌う彼女の近く――ベッドの側に腰を下ろす。
彼女の一曲が終わるまで、微笑みながらただ静かに聴いていた。
ふと、彼女と目が合った――その瞬間だった。
「きゃああーーーーー!!?」
……。
イタタタタ……。
驚いた彼女が手からすっぽ抜けたマイクが、僕の肩に**ゴツン!**と直撃した。
「……!!! ご、ごめん!!! 大丈夫!!?」
ミルナが駆け寄ってくる。その紅い瞳が、どこか潤んでいた。
たぶん、驚かせたことに本気で動揺しているのだろう。
(また……泣かせてしまったな)
「大丈夫だよ。ちょっと赤くなったくらい。それより、こっちこそ……ごめん。
驚かせちゃったよね」
僕の言葉に、彼女は目を伏せたまま、ほんの少し頷いた。
しばらくして――
「……全く! 趣味が悪いかしら! もう寝るわよっ!」
頬を真っ赤にして、ミルナは逃げるように照明を落とした。
ベッドの上に、ぽすんと倒れこむ。
それに続いて、僕も隣に横になる。
何も言葉はなかったけれど――
きっと、彼女の中で何かが少しだけ変わった。
何となくだけど、そう思う。