心音のすれ違い
少年がお風呂に入って暫くしての事だった。
『きゃあ!!?』
何事かと振り返った時、少女はすぐそこのお風呂の扉を開けていた。
しまったと思うも束の間、プルプル震えながら少女は慌てて扉を閉める。
ドク……ドク……ドク……ドク。
この音は自分の心音なのだろうか……?
それとも彼女の……?
扉を隔てて聞こえてくるような奇妙な感覚を少年は覚えた。
少し落ち着いてきたかと思ったその時だった。
『貴方一体何なのよっ!』
扉の向こうで陰だけが見える。
響いてきたのは彼女の怒り、どこか哀しい細い声。
『も、申し訳……!!!』
声を遮るように彼女が叫ぶ。
『貴方、警備員じゃないわね……? ふざけないで! 通報してやるんだから!!!』
途端に彼女の陰は消え、足音がどんどん遠くなる。
いやだ……! 僕の……! 僕の部屋が……!!!
冷や汗が止まらない。彼女はまず間違いなく僕を通報するだろう。そうなったら、どうなる!!?
慌ててお風呂を飛び出し、タオルを片手に追いかけた。
*
どうしてこうなったんだろう。
『やっ……やめてっ……』
肌と肌が密着する。
お互いのタオル越しで。
あれは、咄嗟の出来事だった。
すぐさま少年はタオルを腰に巻き、風呂場から飛び出す。
風呂場を右に曲がり、すぐの部屋へ。
彼女が視界に入る。
慌てて飛び出したのだろう。バスタオル一枚を羽織り、部屋の隅にある非常呼び出しボタンに手を伸ばしている。
『お、お客様ーー!!!』
必死の形相で少年は声を張り上げ、
──つるっ。
気がつけば、取り返しのつかない状況になっていた。
『っ……』
少女はか細く呻き、紅い瞳に涙を滲ませる。
今までの気丈な振る舞いが嘘だったみたいに。
全てを諦めたと言わんばかりの顔。頬に、一滴の涙が流れて。
少年はすぐさま彼女の側を離れると、両手と額を地面につけ、全力で謝った。
*
……。
それにしても、あれは何だったんだろう。
少年は、心に濃い靄がかかっているのを感じていた。
扉を開けた瞬間、白い柔肌が、薄ら湯気と共に立ち上って見えた。
その一瞬、鼓動が跳ね上がって、
──でも。
彼女の肩に、少し赤くなった跡があった。
彼女に、何があったのだろうか……。
『……かしら?』
『ちょっと! 聞いてるかしら!!?』
いけない、考え事をしている場合ではない。
慌てて、彼女の方を見る。
少し落ち着いたのだろうか。
彼女は脚を組み、ソファにどっかり腰を下ろしながらフンっと鼻を鳴らす。
『今回のことは、大目に見てあげないこともないかしら! ただし、次からは嘘をつかないことよっ!』
──あの後、全力で謝って、事情を説明した。
何とか、彼女の許しを得ることに成功した。
今夜の楽しみにとっておいたアイスを差し出して、ね……。
『しかし、困ったのよ……ここは私の部屋じゃないかしら』
「どこか、お困りのことがありますか?」
少年は尋ねる。
どうやら彼女は、一人で気楽に過ごすためにこのホテルに通っているらしい。
防犯設備が万全で、何かあればすぐ駆けつけてくれる。
そんな“安心”が欲しかったのだという。
── (一応ここ、結婚相談所なんだけどな)
はぁ、仕方ない。
玄関ででも、しばらく暮らすか。
そう考えて部屋を出ようとした時だった。
『何、勝手に外に出ようとしてるかしら? レディを一人にするなんて、あり得ないのよ』
ちょん、ちょんと指でリモコンを指差す彼女。
一緒にテレビでも──彼女なりの、気遣いなのだろう。
*
『はぁ……? これ、何なのよっ……!?』
突然の声に、少年も目を見開いた。
無理もない。テレビのどのチャンネルを回しても、映っているのは全て、うちの結婚相談所の様子なのだ。
(おかしいな……部屋に来たときはバラエティ番組だったのに……)
とはいえ、これはこれで妙に興味深い。
特番らしく密着取材も入っていて、評論家まで登場している。
⸻
プロフィール
Aさん/40代/年収:非公開/職業:家事代行
希望相手
30代男性・年収600万円以上・家事スキル高め・見た目の良い人
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(あれ……どこかで見たことあるな……)
――Aさんに密着取材! なぜ結婚できないんダ!?スペシャル!!!
レポーター:「さあ始まりました!『なぜ結婚できないんダ!?スペシャル』! まず最初の応募者はこちら、Aさんです! それでは早速お話を伺っていきましょう。Aさん?」
A:「はい、よろしくお願いします! Aです」
レ:「今回、この番組に応募された理由をお聞かせください」
A:「はい……以前、『風恋婚活ペアリング』という相談所を利用していたのですが、なかなか理想の男性に出会えなくて……。
正直、激辛相談って噂で内心ビクビクだったんですけど、でも、どこかで期待もしてたんです。
それに……私の担当の方、偶然だったんでしょうか、とても優しくて……それが嬉しくて、どこかで満足してしまったんです」
――でも、それでは解決にならなかった。
ドキッとした。
間違いない。彼女は、僕がこの仕事を始めたばかりの頃に初めて担当した方だ……。
レ:「なるほど……つまり、今回はしっかり解決したいと?」
A:「はい……」
レ:「では、評論家の○○さんにご意見をうかがいましょう!」
評論家:「はい、Aさんのモヤモヤ、分析してみましょう。
まずAさんのステータスは40代、年収非公開、職業は家事代行。
そして希望条件は30代男性、年収600万円以上、家事スキルに加え、見た目も良い人……ですね。
まず、お伝えしたいのは二点。
ひとつは“条件設定”について。
もうひとつは“共通価値認識”の必要性です。
条件が多ければ多いほど、該当者は当然少なくなります。
また、家事代行という立場で“主婦的役割”を望むのは自然ですが、それでいて高年収男性に全ての経済的負担を求めるのは、バランスを欠いていると言わざるを得ません。
そして一番の問題点は“年収非公開”。
これは、真剣に関係を築く上で信頼を損なう要素です。
相手の情報だけを求め、自分は開示しない姿勢は、無意識のうちに相手を遠ざけてしまうのです」
(……自分は、できているだろうか?)
少年は胸を突かれるような思いがした。
Aさんへの対応――あれも今思えば、未熟な自分に任されていたからとはいえ、至らぬ点だらけだった。
そして、ミルナさんへの一件もそうだ。
軽率な行動で、彼女を深く傷つけてしまった……。
そう思った瞬間、ふと隣から声がした。
『ふぅん、中々面白いのよ。でも……見るに堪えないかしら』
そう言って、ミルナはリモコンをテーブルに置き、代わりに黒いタブレットを手に取った。