プラハの悪魔
いつからだったか、少年はとびきり頑張って
――昇進した。
きっかけは、店先のお姉さんにかけられたひと言だった。
「最近、元気ないね」
たしかに、最近ずっとだるかった。
疲れが取れない。頭がぼーっとする。
たぶん、毎晩瓦礫を枕にして寝てるせいだ。
それを素直に話すと、お姉さんは目をまるくした。
そして、ホテルのスタッフに声をかけてくれて、一日だけ空いていた部屋を貸してもらえることになった。
――その時の感動は、少年の中でいまだに色あせない。
ふかふかの枕。重すぎない掛け布団。
やたらとボタンの多いリモコンで、何でも映るテレビ。
空調も、照明も、ちょうどよかった。
(……こんな世界が、あるんだな)
その夜、少年は泣きそうになった。
誰にも気づかれないように、枕に顔をうずめて。
(あんなホテルで、毎日暮らせたら……)
心の奥底で、何かが芽生えた。
そんなとき、目に入ったのが――店のチラシだった。
⸻
募:ホテルマネージャー求む
仕事内容:警備員監督(2名)、顧客対応
注:半年以上当社で勤務し、業績を一定達成した者に限る
褒:ホテル管理の一環として、ホテルの一室を無償貸与
⸻
(これしか、ない)
そう思った。
あとは、がむしゃらだった。
とにかく走って、覚えて、働いて。
何をして、何を話したか、よく覚えていない。
でも、気がつけば少年は――ホテルマネージャーになっていた。
今日が、その初任務の日だ。
胸の奥がざわざわしている。
不安もあるけれど、それ以上に期待が勝っていた。
(……さあ、やるぞ)
制服の襟を正し、少年はフロントを後にした。
*
警備員の監督……のはずだった。
でも、その前に――顧客対応だ。
「すぐ来るはずです」とフロントスタッフに言われ、名簿を確認する。
(えーと……名前、名前……)
プラハ・ミルナ
(ぷ、ぷらは……? みるな?)
(……外人さん、かな?)
ちょっと言いにくい。でも覚えやすい。たぶん。
(……覚えておこう)
一呼吸おいて、ドアの方を見る。
人生で初めての「お客様」は、もうすぐそこに来るらしい。
*
初めてのお客様は、なかなかに際どい奴だった。
少年はフロント前の待機用スペース――少し古びた灰色の椅子に腰を下ろし、所在なさげに足をぶらつかせていた。
玄関からはちょっと距離がある。けれど、それは問題じゃない。
事前の打ち合わせでは、フロントスタッフがお客様を出迎え、担当に引き継ぐという段取りになっていた。
……はずだったのだが、定刻になっても客の姿は見えない。
電話もしたらしい。でも応答なし。
「たまにあるんですよね、こういうドタキャン」と、スタッフの人が軽く言っていた。
そうして「キャンセル扱い」となり、少年はエレベーターで部屋へ戻ることになった。
(……初めての担当が、これか)
なんとも言えない気分で、エレベーターを降りた。
が――その気持ちは、部屋の前で吹き飛んだ。
そこに、いたのだ。
まるで人形のような少女が。
小柄で、白磁のように透き通った肌。
紅の瞳が、じっとこちらを見ていた。
年齢は……おそらく少年と同じくらい。
けれど、その服装は明らかに「場違い」だった。
刺繍の細かなドレス。光沢あるブーツ。
どこか貴族めいた気品すらまとっている。
(……誰?)
少女が、ぴしりと背筋を伸ばし、口を開いた。
「ご機嫌よう。貴方が、私の担当でして?」
……。
少年はしばらく、言葉が出なかった。
なにか……なにか、いろいろおかしい。
まず、どう見ても来るホテルを間違えてる。
次に、口調がすごい。いや、いろいろすごい。
「……あ、あの? 失礼ですが、お名前をうかがっても?」
恐る恐る聞いたその声に、少女はふう、と呆れたようにため息をついた。
そして、あくまで気品たっぷりに言う。
「はぁ……失礼しちゃうわね。
私はこのホテルの在住者――プラハ・ミルナでしてよ。
以後、覚えておきなさい」
(……はい??)
少年の脳内に、またしても大きな「?」が浮かんでいた。
*
見るからに彼女は外人だった。
紅い瞳に、透き通った肌。
言ってることはめちゃくちゃなのに、立ち居振る舞いだけは妙にエレガントだ。
けれど、どういう訳か会話は成り立つ。
妙に話が噛み合う。……だからこそ、なおさら不気味だ。
(そもそも、なんで僕の部屋が分かったんだろう?)
少年は心の中で疑問符を浮かべながら、ほんの少し眉をひそめた。
そんな疑念を抱えつつも、少女と並んで歩きながら、彼女の部屋まで案内することにする。
確か、彼女の部屋は同じ階層の――僕の部屋とは反対側の隅の部屋だったはずだ。
(少しだけ歩くけど、まあそんなに遠くはない……)
ただ、ちょっとだけ煩わしい。
少年の部屋もまた「隅」にあるせいで、似たような構造の部屋が並んでいて、どれがどれか分かりづらいのだ。
『……着きました。どうぞごゆっくりお過ごしください』
そう言って少年は部屋のドアを開け、手を引きかける。
――が、すぐにピシャリと閉めた。
そこに見えた光景が、どう見ても「少年の部屋」だったからだ。
(……あれ?)
「失礼しました、部屋を間違えてしまったようです。案内を続けますね」
気を取り直して、別のドアへ。
でも――また同じだった。
(え?)
また、僕の部屋だ。
(……ええ??)
焦って額に汗がにじむ。
もしかして、疲れてるのか? でもそんなレベルの話じゃない。
どういう訳か、彼女の部屋に向かってるはずなのに、ドアを開けると全部「僕の部屋」になっている。
慌ててホテルのスタッフに連絡を取ろうとする。
……が、応答がない。
(なんで……?)
嫌な予感を胸に、エレベーターまで走る。
でも――
そこには、無情にも「メンテナンス中」「清掃作業中」と書かれた張り紙が貼ってあった。
(閉じ込められた……?)
頭の奥が、じわりと冷たくなる。
ほんの少し前まで「昇進してウキウキ」だったはずなのに、今このホテルは、まるで別の世界の入り口のように思えた。
*
もう、同じ手は使えない。
これ以上「間違えました」なんて言えば、さすがに誤魔化しが利かない。
振り返って彼女に笑いかけ、「どうやら違う部屋のようです」と言ってみる。
……が、彼女は何も言わず、じっとこちらを睨みつけていた。
まるで、「レディをいつまで立たせておくつもりかしら?」とでも言いたげに。
動かない。視線も逸らさない。
まるで、選択肢なんて最初からなかったみたいに。
(……これが最後だ)
少年は祈るように扉の取っ手に手をかける。
神様、お願い――どうか、今度こそ彼女の部屋でありますように。
静かに扉を開けた瞬間。
テレビの音が聞こえてきた。
誰もいないはずの部屋で、誰かがつけっぱなしにしたような、けたたましいバラエティ番組の声が。
(……ああ、僕の部屋だ)
頭を抱えたくなる現実。
けれど、もう引き返せない。言い訳も通用しない。
ここで腹を括るしかないと、少年は決めた。
『……お客様、ただいまお部屋に到着いたしました。少々、散らかっておりますので――』
軽く一礼し、ドアを閉めて素早く室内の物を整える。
制服の上着をベッドの下に押し込み、読みかけの雑誌を引き出しにねじ込み、リモコンを手にテレビの音を絞った。
数十秒で完了。もはやプロ技だった。
最後に深く息を吐いて、何でもない顔でドアを開ける。
『……どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください』
ミルナが入室するのを横目に、少年は目を閉じて静かに覚悟を噛みしめた。
これが、マネージャー初日。
そしてきっと、まだ始まったばかりだった。
*
『……どうして貴方が居るのかしら?』
不機嫌そうに、けれど妙に気品のある口調で、ミルナはじっとこちらを見つめていた。
見下すわけでもなく、問いただすでもなく、ただ「当然答えを言いなさい」という視線。
――元々僕の部屋だから、なんて言えるわけがない。
咄嗟に、適当な言い訳を頭の中で探した。
『……一応、警備員も兼ねてまして。ええ、監視というより“見守り”ですね』
自分でも苦しいなと思ったが、ミルナは特に追及せず、わずかに肩を竦めるだけだった。
『ふうん……それって、プライバシーの侵害じゃなくて?』
すぐに続いたその一言に、背筋が少しだけ冷えた。
ホテル研修で何度も聞かされた単語だった。
プライバシーの尊重。
お客様の私生活に干渉することなかれ。
このホテルでは、「お客様の安全を第一に確保すること」が最優先命題で、プライバシーの保護はその次にある――そう教えられてきた。
(理解はしてるつもりだけど……実際にこの状況になると、何が正解か分からないな)
『まあ……それがこのホテルの“良さ”かしら』
ミルナが言う。どこか達観したような口調で。
『安心できるの、ここだけなのよ』
その言葉に、少年は言葉を失った。
彼女の言う「安心」の意味が、どこか現実からずれている気がして。
このままここに居ても、彼女が本当にくつろげるとは思えなかった。
空気の重さが違う。まるで部屋ごと異質なものに変わってしまったようで。
(……お風呂でも、入るか)
少年は立ち上がり、無言のまま浴室へ向かった。
扉を閉める瞬間まで、ミルナの紅い瞳がこちらを追っている気がして、振り返ることはできなかった。