第五十七節 狂気の源流へと
アレクたちは、ノエルが用意してくれていた船で帝国へと向かっていた。
到着まで四時間ほど。ここが休める最後の場だと、皆は船室で仮眠をとっている。アレクだけ、ひとり寝付けず甲板から空を眺めていた。
快晴……とは言えないが、空は十分に晴れている。高く輝く太陽と戯れるように、綿雲が陽の光を横切っていく。
船の速度が早いせいか、顔を打つ風が強い。鼻をつんと刺す潮の匂いを感じながら、アレクはそっと腰の袋から杯を取り出した。
聖遺物はふたつ。アレクの手にある「杯」と、ロディに持たせた「杭」。
「杭」の使い方は分からないままだ。しかし「杯」だけでも、アレクが想像していた以上に希望となり得るものだった。
「鍵」はアドバンが封印に押し込んだ時に、消えてしまったようだった。もし本当にそうならば、封印を再び施すことはできない。
しかし、魔力に対抗する術ができた。まだ、勝機がある。
アドバン、イーサーを倒し、そして、そして――
その先は、まだ考えたくない。
アレクは手の中の杯を強く握りしめた。
****
「これはまた……たった二日で、ずいぶん寂れてしまいましたね」
船を降りたクレイグが港を見回す。
初めて足を踏み入れた時は、荷積みや荷降ろしの商人らで賑わっていた。
しかし今は、人どころか停泊する船すらない。埠頭の白さが、不気味なほど眩しかった。
アレクを先頭に、四人は街へと続く石畳を辿る。
街は白さも形も変わらず、そこにあった。ただ、玩具みたく同じ挨拶を繰り返す人には、もうすれ違わない。
もともと温もりなど微塵も感じない街だった。それでも、この間までは、確かに街を歩いていた。
今はただ、絵画の中を通り抜けるようだった。
街は、人がいてこそ命が宿るのだと痛感させられる。
街の人がどこに行ってしまったのか、気になった。だが、ここで足を止めてはいられない。ニーナが見つけた劇場への脇道も、脅威の存在を想起させた酒場も通り過ぎる。
そして、並んだ建物が途切れるところまで来た。足元の石畳は、目の前に広がる林へと伸びている。その先には遠目に黒岩の城が見えた。
「このまま行くぞ」
アレクが一歩、林に向けて石畳を踏み出す。
「まさか、正門から入るおつもりですか!?」
焦って止めるクレイグを振り返ると、アレクは寂しげに笑った。
「……もう、抜け道なんてないんだ」
林の中の登り道を四人はまっすぐ進む。一度追い払われた城は、再びどんどん視界に大きく迫ってくる。
敵の本拠地はもう近い。
「そういえば……」
アレクの後ろを歩くスカーレットが、ロディを振り向いた。
「ロディも英雄なのだな」
ロディが英雄の力を持つことは昼日国の秘匿だ。だが、帝国に入ってからはその事情を知った者ばかりだったため、特に言及するもなく事が進んだ。
誰もスカーレットに説明していない。
ロディは両手のひらをぱしっと顔の前で合わせた。
「ごめん! さすがに言うわけにゃいかなくてさ!」
「気にしていない。むしろ当然だ」
スカーレットが前を向き、すぐまたロディに振り返る。
「……そうと踏まえて見比べれば、確かによく似ているな。双子か?」
「その通り!」
アレクが誇らしげに目を細め、思わずスカーレットを振り返った。
血と魂を分けた分身の存在は、アレクにとって何よりも心強い。それが他者にも伝わる瞬間が、この上なく嬉しい。
「こんなに似てるのに、なんで皆気づかないかなぁ?」
アレクは不貞腐れて進む先に視線を戻す。一番後ろのクレイグが「ふっ」と鼻で笑い、すぐぽつりと呟いた。
「本当に……なぜ、気づかなかったんでしょうね」
独り言にしてははっきりと声に出たそれは、昼日国を出る前のこと。三人で話すなか、双子と気づかなかったのはニーナだ。
クレイグの言葉は、暗にアレクへと向けられていた。
アレクは目を丸くしたニーナを思い出す。ひとつの魂をずっと追いかけていたと分かったいま、彼女の驚きようは腑に落ちた。
「多分さ……魂が二つに分かれたって、思わなかったんだろうな」
そう言うと、これ以上の会話を拒むようにアレクの足取りが速くなった。
ほどなくして、城の正門にたどり着く。
門の落とし格子は上がったままだ。
正門だというのに見張りの姿はなく、道中も兵影ひとつなかった。
昼日国に戦力を割いたとしても、ここまで誰もいないのは異常だ。
何かおかしい。
アレクは周囲の気配をうかがいながら、そっと門の中に足を踏み入れた。庭と呼ぶには殺風景な広場の奥に、主塔へ続く厳しい扉が見える。
植え込みが、わずかな風でさらさら揺れた。
静かだ。
そしてやはり、誰もいない。
クレイグは、死角になりそうな木や建屋の影に注意を巡らせる。
「まだ立入禁止と聞いた時間には早いはずですが……
静かすぎませんか?」
スカーレットは頷き、剣を抜いた。
「ああ。おかしい」
四人は主塔に向け、足音を抑えながら進む。
扉にたどり着く少し手前で……ふとクレイグの目が、植え込みからはみ出た鉄靴の足を捉えた。
「アレク様! あそこに人が!」
クレイグの呼び掛けで、他の三人もすぐそれに気づき、足早に植え込みへと近寄る。
全員で覗き込むと……そこには、帝国兵の鎧を纏った男が倒れていた。目を見開き、大口を開けたその表情は、絶望を語る。
アレクがそっと首筋に手を当てた。
「……脈がないな」
クレイグは喉元をちらりと見て、鎧の胸の部分を外す。血の跡も、服の破れもない。
「外傷が見当たりませんね。持病か何かでしょうか? それとも、魔力のせい……?」
スカーレットが植え込みの周りを見渡した。この城を元々知る彼女にも、一目で分かる異変はないようだ。
ふと、ロディが空を仰ぐ。
「なぁ、なんか音しない?」
そう言われて耳を澄ませば……風の音に紛れて、かすかに吠えるような低い声が聞こえる。
「この声は……人か?」
スカーレットの言葉で四人は顔を見合せ……声を辿って主塔の扉まで急いだ。
アレクがそっと、扉に耳を当てる。
……小さいが確実に、この中で何かが唸っている。
「……行くぞ」
アレクはそっと、主塔の扉を押した。
きぃっと音を立て……扉が中に吸い込まれていく。
むわっと、鉄の錆びた臭いが鼻を塞いだ。
「うっ!?」
クレイグが口を押さえながら顔を背ける。
「これは……!」
アレクたちの目に飛び込んだのは、赤。
床から天井まで、赤い液体が飛び散らかす。
それは魔獣に滅ぼされた村と同じ、血の赤だった。
躊躇いながら、アレクは城内に足を踏み出す。
進む廊下の脇には、おびただしい数の死体が無造作に積み重なっていた。
ロディがそのうちの一体に目を向ける。脇腹が鎧ごと、大きく抉られていた。まるで、何かにかぶりつかれたように、ごっそりと。
「ひでぇな」
さすがのロディも顔をしかめた。けれども、スカーレットは眉根こそ寄せつつ、死体の状態にまじまじと目を向けている。
「一体、何にやられたんだ」
どの死体も、壊すために弄ばれた人形のようだった。頭を、手を、足を……まるで気まぐれに、もがれていた。それらは奥の階段へと近づくにつれ、人の形すら保たない肉の塊へと変わっていく。
かすかだった唸り声は大きくなり、アレクたちを階下に誘っていた。
アレクは槍を構え、階段を下りる。一段一段下りるたびに、恐れが足を絡めとった。それでも、後ろに続くロディとスカーレットの足取りは、力強く揺るぎない。
一番後ろで青い顔をしていたクレイグも、ようやく剣を抜いた。
階段を降り切って、四人は廊下に出る。
探すまでもなく、アレクが目を向けたその先……封印の間の近くに、唸り声の主はいた。
小柄な人型の何か。
その外皮は黒く、膿んだような湿り気を放つ。目も鼻も窪んでいて、おぞましいと呼ぶに相応しい化け物。
それは顔よりも大きく口を開き……ちょうど、兵にかぶりついたところだった。
ばりっ、ぼきっ、と咀嚼音が響く。
全員が息を飲み、立ち尽くした。
「こいつは……魔獣か?」
ぼそっと呟いたスカーレットの言葉に、アレクは眉間を寄せる。獣……にしては違和感がある。
人に似た輪郭を持ち、二本の足で立つ。二本の黒い手が、食べ残した兵の体を放り投げた。
頭には、白髪らしきものが張り付いている。
帝国にいるその白髪に、覚えがある。
「あれはおそらく……アドバンだ……」
「は?」
全員がアレクに視線を向けた。
「封印の間にいた白髪の、魔力を持つ人なんて……他にいない、だろう?」
アレクは黒い化け物から目を離さない。その視界の中で、かつて彼が魔獣化させたあの青年が重なっていた。
ロディもアレクの見ているものを睨む。
「魔獣化しちまったってことか!」
「そんな! なぜ!?」
クレイグがその結論を拒むように声を上げた。
「皇帝は、自分で魔力を操っていたのでは……」
アドバンは魔力を得るために、たくさんの命を犠牲にしてきた。その果てに、今、自らの命までも喰われようとしている。それが当然の報いであっても、奇妙な哀れみがクレイグの胸に湧いた。
やるせなさに、クレイグはそっと目を伏せる。
「おや、おかえり。早かったね」
唐突に、奥から気の抜けた声が響いた。
黒い化け物を視界に収めつつ、アレクたちは封印の間に目を向ける。
そこから軽い足取りで出てきたのは、イーサーだ。
「でも、惜しい。あと一刻早ければいいとこ見れたのにねぇ」
「イーサー!」
ロディが苛立ちを込めて叫ぶ。
イーサーはにやつきながら、ロディを手招いた。易い挑発とわかっていても、ロディの体はぐっと前に傾く。
「だめだ、ロディ」
すかさずアレクが手で遮った。踏み込む寸前で、ロディの足は止まる。
イーサーがへぇ、と感嘆の声を漏らした。
「よくしつけてあるね」
そう言うとイーサーは、黒い化け物を視線で射抜く。
――その瞬間、押し潰されるような圧迫感がアレクたちを襲った。アレクの頬が一瞬にしてこわばる。
これは、魔力なのか……動悸が、汗が、止まらない。
隣でじりっと、後ずさる音が聞こえた。
化け物は、怯えるように彼からじりじり離れる。その様子を眺め、イーサーは満足げに唇の端を吊り上げた。
「こっちもようやく、だ。もう誰彼構わずかぶりつくから鬱陶しくてさ。俺の餌まで食っちまいやがって……」
まるで獣を飼育する主人の言いざまだ。ロディはもう鼻で笑うしかない。
「はっ! 仲間割れでもしたのかよ?」
「仲間割れ?」
イーサーが不思議そうに首をひねった。
「何言ってんだ。そりゃ君たちだろう?」
それはいま、四人が一番触れられたくないことだ。
ロディが小さく舌打ちした。
イーサーが一歩、アレクたちに足を向ける。それから逃れようと、黒い化け物もアレクたちとの距離を縮めた。
「彼はね、もう餌にしか興味がないんだ。これはただの欲望の塊さ」
にやりと笑ったイーサーは、何の前触れもなく化け物を蹴り飛ばす。
うおぉぉん! と、黒い化け物が吠えた。
急に、冷気が肌を刺す。
アレクの口から、白い息が漏れた。
皆が見守るなか、化け物の頭上にみるみる氷が塊となり、鋭く尖っていく。
そして、再びの咆哮とともに――アレクたちへと振り下ろされた。
その氷の塊は、紛うことなく魔力の賜物だ。ならば、打ち砕けるのは英雄の魂を持つ者のみ。
「ロディ!」
「おうよ!」
アレクとロディが、クレイグたちの前に躍り出る。槍と拳が、同時に飛んできた氷の塊を捉えた。
ぱりんと透き通るような音を響かせ、それは粉々に砕け散った。
ロディは軽く手を振り払い、化け物を睨む。
「こいつ!? こんなんなっても魔法使いやがる。たちが悪ぃな!」
きらきらと舞う氷の欠片を眺め、イーサーがぴゅうと口笛を吹いた。
「なんだ。君たち二人とも英雄の力を持つのか」
「へへっ。懐かしい顔が二つもあって嬉しいだろ?」
ロディの軽口に、イーサーの眉尻がかすかに跳ねた。
アレクはイーサーにちらりと目をやる。
一瞬見えた不快の兆しはもうない。壁に背をもたせかけたまま、まるで遊びたい子供のように瞳を黒く光らせていた。
気味の悪さも手伝い、すぐ黒い化け物に注意を戻す。
こんな姿になっても、まだ魔力を振るう。いや、もう魔力しか残されていないのだろう。
いずれにせよ、アレクたちにとっては不利だ。
化け物を気配で捉えつつ、今度は目だけを後ろに流した。ちょうどクレイグが一歩、身を引く。スカーレットも剣の先を自分に引き寄せ、己を守るように構えていた。
二人とも、魔力に対して手の出しようがないと理解している。
アドバンを倒しても……まだイーサーがいる。
ここで長引かせるわけにはいかない。
アレクは腰の袋に手を突っ込む。
聖遺物を使うなら――今だ。
ロディを見た。
目が合った。
「兄貴!」
いいな、この感覚……アレクは思わず頬を緩めた。
「ああ!」
力強く頷き、袋から杯を取り出す。
杯をどうすればいいか。魔力を吸い込んでくれるなら、きっと、こうするのが正しい。
アレクは黒い化け物に向けて、杯を掲げた。
「杯よ、頼む……!」
びしっ! と。
ガラスが砕けるような、鋭い音が響いた。
全身に絡みついた不快な空気がすっと肌を滑り、杯へと吸い込まれていく。
黒い化け物は杯を奪おうと手を伸ばす。
……その手が、崩れて、落ちた。
化け物は唸りながら反対の手を出そうとする。その手も、黒い雨粒のようにこぼれ落ちた。
それを皮切りに、化け物の黒い外皮がぼろぼろと剥がれていく。
もがくたびに、黒い塵が舞い散い、儚く消えた。
黒い外皮のその下には、人の顔があったのか――確かめる間もなく、崩れ去った。
「……人が、神の力に手を出した末路、なのか」
アレクは思わず槍を下げ、息を飲む。
目の前で終わりを迎える者の姿は、異様でおぞましく、でもどこか侘しさを帯びて……幻のようなその光景に、ただただ目を奪われるしかなかった。
「あー! 俺の玩具が!」
そんな情緒など微塵もなく、イーサーは慌てて手を突き出す。
『ヤラ〈摂取〉』
と唱えて……自分の手のひらをみた。
「魔力が……使えないな」
そう呟いて、ゆっくりアレクの手の中をねめつける。
「……なるほど。お前も、その杯を使うか」
イーサーは低く、淡々と言い放ち、視線を床に落とした。
イーサーも魔法が使えないと、今の言葉で分かる。
アレクは杯を袋に戻し、再び槍を構えた。
「これで終わりだ、イーサー」
アレクの隣で、ロディも拳を突き出す。
後ろの二人もすでに、イーサーに剣を向けていた。
「はっ……」
下を向いたイーサーの口が、ふいに歪む。
出し抜けにアレクの足がすくんだ。
もうイーサーは魔力は使えない。
それなのに、目の前の男から放たれた言い知れぬ悪寒が、四人の体を貫いた。
イーサーがどんっ! と大きな音を立て、床を踏み抜く。
土埃と一緒に上がったその顔は……酷く歪に押し広げられていた。
「ははははは! 笑わせてくれる!」
この状況で何がおかしいのか分からない。気が触れたかと、アレクたちは唖然と立ちすくむ。
イーサーはひとしきり笑うと、ふぅと息を吐いた。
「……君たちは知ってるか? なぜ俺が暴虐の王と言われていたかを」
「知らねぇよ!」
ロディがなんとか絞り出した言葉に、イーサーは一瞬だけ口角をつり上げる。
「仕方ない……その名の由来、600年ぶりに知らしめてやろうか」
飄々と言い捨て、イーサーは封印の間へと姿を消した。
迷いが胸をかすめる間もなく、イーサーが戻ってくる。その手には身長と同じ長さの太い剣が二本、握られていた。
黒い刀身が絶望を放つように、鈍くきらめく。
彼の限りなく闇に近い瞳が、ぎらりと瞬いた。
それは獲物を定めた、獣のように。
イーサーは両手の剣を四人に向けた。
鋭い先が、弛んだ空気を裂く。
「さぁ! 俺を楽しませてくれ!」




