第五十四節 コンニチハ、セカイ
時間は少し遡る。
アレクたちが昼日国に戻された直後の、帝国の封印の間にて。
ニーナはしばらく、大切な人たちが居た跡を見つめていた。
やがて、ため息をつき……そこから目を反らせる。
ふいにニーナの後ろで拍手が聞こえた。
「やぁやぁお見事! さすが衡神の愛し子だ!」
イーサーの軽い口調は600年前と変わらず、苛立たしい。ニーナは白い目でイーサーを睨んだ。
その隙に、アドバンが控えめで忙しない足音を立てて、ニーナの足元へと歩み寄る。
「た、黄昏の魔女様とは知らず……失礼致しました」
アドバンは膝をつき、頭を下げた。
視界に割り入る跪いた姿がどうにも白々しい。そう感じさせる輩は大抵、床に向かってせせら笑うのだ。
従順さを怪しみつつ、表情を確かめる気は微塵も湧かない。
「……私に膝をついてる暇があるなら、聖遺物の回収でも急いだら?」
ニーナは蔑んだ目で一瞥すると、冷え冷えとした声を白髪だらけの頭に浴びせた。
「ぎょ、御意!」
アドバンの顔が跳ね上がり、みるみる血の気が引いていく。部屋の様子を確認しに来た兵を「おい!」と慌てて呼び止めた。
アドバンの焦りは兵から兵へと伝わり、あっという間に城全体を飲み込む。
外が慌ただしくなったのに構わず、ニーナはまたイーサーを思いっきり睨みつけた。
「ははっ! 怖いねぇ!」
イーサーは嫌悪剥き出しの視線をからかうように笑う。
「でも、さっきの馬鹿丁寧な喋り方より、ぞんざいな口ぶりの方が君らしいさ」
噛みつかれるのも慣れたと言わんばかりの余裕ある笑みが、ニーナの苛立ちをさらに募らせた。
「いちいちうるさいわね……消すわよ?」
「はっ! 出来ないくせに」
ニーナの口が、飛ばそうとした野次を飲み込む。
イーサーは勝ち誇るような笑みを満面に湛えた。
「とっくに知ってるよ。君は、命を屠ることが出来ないんだろう? だから君は、俺を殺せない」
知られている、とはおぼろげに感じていた。それでも、いざ声に出されると動揺は大きく、さっきまで怒りがニーナの喉を塞ぐ。
「……あんただけなら、どうだって出来るわ」
軽蔑の眼差しは揺れずとも、その声は小刻みに震えた。
イーサーの言う通り。
ニーナの魔法は人の命をすり抜ける。
この城をまるごと吹き飛ばす威力を持ってしても、人ひとり殺せない。
それが、魔力を人の世に呼び込んだ代償だった。
相手の業を背負う覚悟があれば、命の摂理をねじ曲げる手はある。
けれど、ただひとつ消したいイーサーの業は、暴虐非道を重ねてきた分、底なしに深い。彼を殺せば、その業の重みでニーナの自我は跡形もなく押し潰されるだろう。
神の力を振るう怪物を生み出してしまうくらいなら、この男の存在を受け入れるしかない。
ニーナはもどかしさで唇を噛む。
「……ただ、あんた以外をどうにも出来ないだけ」
そう。誰も殺せないニーナが「倒すべき悪の象徴」となるには、イーサーの暴虐さが必要だ。
命の重みを蔑ろにできるから、畏れになる。
それを無視できない悪役に、説得力はない。
――自分ひとりでは、脅威にすらなれない。
ニーナの悔しさを抉るように、イーサーはうっすら口角を上げた。
「やっぱり君は、それでこそ壊し甲斐がある」
何でも知っているといいたげな口ぶりが、癪に障る。
――私はやっぱり、こいつが嫌いだ。
ニーナは小さくため息をつくと、部屋を見回す。
散らばっていたほとんどのものは、跡形なく消してしまった。アレクたちに危害を加えた銃火器、隅に置いてあった断首台……絨毯まで燃やしてしまったので、石の床は剥き出しになっている。
ニーナは床に膝をつき、その冷たさにひゅっと息を吸い込んだ。焦げた臭いが心残りをちくりと突く。込み上げた虚しさは、魔力と合わせて指先に纏わせた。
その指の先を床面に滑らせ、一線一線、覚悟を刻むように神の言葉を描いていく。
イーサーがニーナの背から、その手元を興味深そうに覗き込んだ。
「それは……神句か。ということは、書いてるのは神詛かい?」
答える気もなく、ニーナは黙々と手を動かす。それでも、イーサーの口は閉じない。
「神詛なんて、出来損ないが使うものだろう? 何をする気だい?」
ニーナは根負けしてため息をついた。
「……ちょっと規模の大きい拡声を使いたいだけよ」
「規模の大きい『アンスール〈拡声〉』?」
イーサーがこれでもかと首をひねる。
「一体どこの誰に、何を言うんだい?」
神句を書く手を止め、ニーナはイーサーに意識を向けた。
この暴君ならさっさと街のひとつでも滅ぼし、己の恐怖を植え付けるだろう。そんな残忍さを持てない自分は、如何に人でないかを見せつけるしかない。
「……世界の皆さんに、復活のご挨拶をしようと思って」
答えを聞いても、まだイーサーは首を傾げたままだ。が、言いたいことは言い終えたのか、もう話しかけることなくニーナを眺めていた。
神句を床に半円状に描き終え、ニーナはふと視線を移す。アドバンがいつの間にか神句にかぶりつき、必死に書き写していた。
その精勤な姿にニーナは驚き……目を逸らせなくなる。
イーサーも、アドバンも、自力で魔力の本質まで辿り着いた。並大抵の努力では、その境地に至れない。
特にアドバンは、足りない魔力を補うために媒介を用いて魔獣化を促したり、兵器と魔力を掛け合わせる手段を生み出した。ニーナには思いつけない発想だ。
目的が歪まなければ、彼はきっと優秀な皇帝になっていた。
いや、歪んでいたからこそ、ここまで来られたのかもしれない。
ただ、いくら足掻いたとて、彼の努力では人の限界を越えられない。
それでも、その努力を笑う気にはなれなかった。
力が欲しい理由がある。
求められたくて、認められたくて、守りたくて。
それは人を突き動かし、時に人を歪める。
でも、手に入れたいものがあるから、人は頑張れる。
アレクたちにも、ニーナにだってある。
かつてザムルーズが努力し成し遂げた、魔力に怯えない世界――それを望み、アレクたちは再び立ち上がった。
そして、その瞬間に立ち会うことこそが、ニーナの望み。
今しているのは、望みを叶えるための準備だ。
願いを込めながら、一文字、一文字、神句を記していく。
床に着いていたニーナの膝が冷え切り、凸凹の跡がくっきり残るくらいの時間が経ったころ……ようやく、ニーナは最後の句を埋めた。
円状に描かれた神句がニーナをぐるりと囲む。込められた魔力が泉のように溢れ出し、部屋を満たした。
魔力を湛えた神句が、解放の言葉を待っている。
ニーナがふらつきながら立ち上がった。
固まった膝を軽く伸ばすと、大きく息を吸い込む。
『偉大な声に耳を傾けろ……アンスール<拡声>』
離れた人に声を伝える術。その前に言い足したのは、威力を増幅させる神詛という言葉だ。ニーナの捉えられる範囲に効果を及ぼすだけなら必要ない。
しかし、今に限ってはこの世界全ての人に等しく感じてもらわなければならない。
ニーナは感覚を研ぎ澄ませ、魔力が城を越えて広がっていくのを確かめる。探れる範囲にはまんべんなく行き届いた。ただ、効果が視覚で捉えられない分、不安は残る。
とりあえず、声を出してみた。
「あー、あー、聞こえる?」
よく聞こえるのは自分の肉声だけで、魔法が効いているのか判らない。
ニーナは意見を求めてアドバンを見る。しかし、彼は神句を書き写すのに必死で、気づく素振りもない。
早々に諦め、その視線をイーサーに移す。
イーサーはすぐに気づき、悪ふざけを企むように引っ張り上げた口から歯を剥き出した。
「君の生の声がちゃんと聞こえているのに、『アンスール〈拡声〉』の声を聞く必要、あるかい?」
この暴君がわざと人の気を逆撫でしているのが分かっていても、文句はニーナの口の中で留まらない。
「ちょっと! あんた分かってるんでしょ!? ちゃんと答えなさいよ!」
「はいはい、ちゃんと聞こえてますよ」
そう言ってにやつくイーサーにまた怒鳴ろうとして……ニーナははっとする。ちゃんと魔法が効いているということは、今の文句も世界中の人に聞こえているのだ。
んんっ、と咳払いひとつで恥ずかしさを誤魔化してから、ニーナは口を開く。
「全世界のみんな……はじめまして。私の名前はエミーナ。ミレニアムの夜明けで英雄に倒された「黄昏の魔女」よ。この世界の全ての人の頭の中に、魔力を用いて直接語りかけているの。今日は、みんなに嬉しいお知らせをしてあげる」
小さく息を吸い込み、声を低く響かせるため喉の奥をぐっと閉めた。
「今、帝国の封印の間に、「黄昏の魔女」と「暴虐の王」は蘇った。私たちは再び、この世界を絶望に沈めると宣言する。神の力を振るう者として、生きとし生ける者全てに平等な死を約束しましょう」
いったん口を止め、ニーナは顔をしかめる。
自分の耳に聞こえてくるのは、硬いだけでたどたどしい声に酷い棒読み。
これでは畏れを抱かせる迫力も威厳もない。さっきのイーサーの方が、軽い口ぶりなのに圧倒的に怖かった。
ニーナは情けなさを噛み殺し、唇をきつく結んだまま……手を掲げる。
『ラーグ・イス〈雹刃霹靂〉』
『ニイド・シゲル〈轟天雷撃〉』
――降り注ぐ氷の刃に、天を裂く雷。
神話の怒りを彷彿させる魔法を世界に撒き散らした。
耳で足りない分は、身をもって感じてもらう。むしろ、それこそニーナが「脅威」である本領だ。
遠くで、雷鳴が轟いた。
地下にある封印の間にも、外にいる兵たちの叫び声がこだまする。
ようやく手応えを感じ、ニーナは揚々と口を開いた。
「無力な人間たちよ。恐怖に戦きながら、残された時間をせいぜい楽しみなさい」
手を下げたと同時に、床の神句に送っていた魔力を止める。
アレクたちは優しい。何もしなければ、きっとニーナを「仲間」として生かす。
――だからこそ、世界を囮にした。
ここまですれば、ニーナを「倒すべき敵」と捉えるしかないはずだ。
ニーナは両腕を振り上げ、思いっきり背を伸ばす。
やり切ったと頬を緩めるニーナを見て、イーサーが呆れたように口を尖らせた。
「エミーナ、君、馬鹿なのか? また同じことを繰り返したいのか?」
イーサーは人をごみのように扱うくせに、人の隠した感情を見抜くのがやたらうまい。そして、それをわかった上で、心を平気で抉る。
反吐が出るほど嫌いだが、図星すぎて怒りも沸かない。
「仕方ないじゃない。傷つけなきゃ、守れないの」
ニーナは視線を床に落とし、呟いた。
イーサーは「なにそれ?」と嘲笑う。
「なんでそこまであいつに執着するのか、全く理解できないな。自分を壊すなんて止めて、俺と一緒に世界を壊せばいいのに。形あるものをめちゃくちゃにするのは楽しいぞ?」
ニーナはぴくりとも動かず、ただ床に残る神句をじっと見つめていた。そんなニーナに構わず、イーサーはひとり目を輝かせて高ぶっていく。
「何もなくなった世界で、俺を殺せない君と、君を殺せない俺。二人で永遠に嬲り合えるって……最高だな!」
「気持ち悪い妄想はやめてもらえる?」
さすがに聞き逃せなくなり、ニーナが口を挟んだ。
「貴方は、アレクに倒されるの」
「はっ! あの不甲斐ない英雄に何ができるってんだ!」
馬鹿にするように頬を引き上げるイーサーに向け、ニーナは勝ち誇るような笑みを返す。
「出来るわ。アレクたちなら、必ず」
もう魔力を隠さなくてもいい。アドバンをけしかけたから、昼日国の誰かは必ず聖遺物の存在に気づく。彼らを生かす準備は整った。
――私が、必ず守るの。
海のような、空のような、底なしの輝きを湛えた青い瞳が、イーサーを射抜いた。
はじめてイーサーが、半歩、身を引いた。
「ふん。まぁ、どう逆立ちしたって俺は君に敵わないからな。君を止めれる奴はいない、好きにしなよ」
イーサーのぼやきは負け惜しみのように聞こえて、それすら面白がっているようにもとれる。
「言われなくてもそうするわ」
ニーナは話を切り上げた。
窓もない封印の間では、アレクたちと別れてどれくらい経ったかも分からない。いつの間にか焦げ臭さも薄れ、兵の騒がしい声も聞こえなくなっていた。
もうここに用はない。これ以上この二人と一緒にいるのも苦痛だった。
どこでもいい、外に出たい。
ニーナがイーサーに背を向けた瞬間――
「魔女様!」
神句を写していたアドバンが、いきなりニーナの足にしがみついた。ニーナはびくっとしてアドバンを見下ろす。
アドバンはニーナを見上げ、命を乞うように揺れ惑う瞳をこれでもかとニーナに晒した。
「どうか……どうか私めにも、魔力をお授け下さい!」
一線を越えた強欲さを咎めようとして……ニーナは静かに息を吐く。
「……自力でそこまで力を得たことは褒めてあげる。だから、特別に教えてあげるわ」
そう言って、足に絡まるアドバンの左手の甲を指さした。そこには、ニーナが床に書いたのと似た文字が印されている。
「すでに衡神の力を操っているのだから知ってると思うけど、魔力を扱うには神の力を纏う文字、神句を体の決まった位置に刻まなければないらない」
「そんな当然を今さら! 魔女様には私の左手に刻んだ神句が見えませんか!」
「ええ。でもあなたのそれ、入れる位置も神句の綴りも間違えている。その証拠に、魔力が体に留まらず、しかも吸収するたび身体に激痛が走るでしょう?」
アドバンの足を掴む力が抜けた。
ニーナはアドバンから数歩離れ、床に這う彼の視線を引きつけるように指を突きつけた。
「頑張ったご褒美に、選ばせてあげる。人として死ぬか、魔力に飲み込まれて消えるかを」
アドバンはニーナの指先をじっと見つめ……本能に促されるまま口を開く。
「私は……衡神タルダディールの研究に人生を捧げたんだ! 私なら……私なら! 必ず、神に選ばれる!」
「そう。わかったわ」
それを答えと受け取り、ニーナはそっと目を閉じた。
「では、魔力を与えましょう」
『ギューフ〈贈与〉』
大量の黒いもやが、どんどんアドバンに注ぎ込まれていく。
アドバンの体が、びくんと跳ねた。黒いもやを吸い込み終えても膝立ちのまま固まり、痙攣を繰り返す。
「……あ、あ……」
焦点の定まらない目で、呻き声をもらした。その口は閉じることなく、涎を垂らし続ける。
ニーナはイーサーに顔を向けてから目を開ける。アドバンに差したままの指を、軽く上下に動かした。
「……これ、あとはよろしく」
「こんな壊れかけ、どうしろと?」
さすがのイーサーも苦笑しながら、小刻みに体を震わすアドバンを眺める。
「でも凄いな、彼。まだぎりぎり耐えてるじゃないか」
アドバンはまだなんとか人として踏みとどまっているようだ。しかし、正気を失っているのは一目瞭然、魔獣化するのも時間の問題だろう。
イーサーはこの部屋で唯一燃やされなかった隅の机に、どかっと腰を下ろした。
「まぁ、俺を起こしてくれたのは彼だしね。ご褒美に壊れるまで付き合ってやるよ」
そう言うと、机に積み上げられていた本を手に取る。本を開き目を通そうとして、ふとニーナに視線をやった。
「……面倒くさくなったら食っちまってもいい? いや、あいつらにけしかけても面白いか」
「好きにして」
再び背を向けたニーナににやりと笑いかけ、イーサーは本に気を戻す。
アドバンはもう、暴風に煽られる窓のように、ただその場でがたがたと身を震わすだけだ。イーサーは彼の研究の成果を追いながら、その完成を待っている。
そしてニーナは……自分が壊したものを放り出して、この部屋から出ようとしている。
正善な者は、ここに誰ひとりいない。
だから、哀れみは捨てていく。
「本当に……嫌になるほど、化け物だわ」
自嘲するように吐き捨てると、ニーナは『ラド〈転移〉』と唱え、姿を消した。




