第五十二節 ひと握りの希望
「アレク様……ひとつ、よろしいでしょうか?」
クレイグのなだらかな声が、一言重ねるごとに鋭くなる。
その口調は、アレクの昂る胸を鎮めるほどの緊張感を帯びていた。
アレクは閉じていた瞼を開き、顔を強ばらせた従者に険しい視線を投げる。
「どうした?」
「我々は魔法により、昼日国に戻されました。もし、あの時の魔法が火柱だったら……命はなかったでしょう……」
クレイグの途切れた言葉の余韻は、封印の間での最後の瞬間を皆の頭に過ぎらせた。
殺される覚悟さえままならなかった恐怖は、生き延びた実感にかき消されつつある。
「あの脅威的な力と、どうやり合う……おつもりですか?」
アレクを見つめ返す茶色の瞳が、ぎらりと光を放った。
むざむざ死ぬ気はないと、責を迫るように。
束の間の沈黙が、部屋を覆う。
「……聖遺物」
アレクがぽつりと呟いた。
誰に向けたか分からない一言。それでも、閉め切った窓もない部屋の静けさに、聞き逃れなどできない。
ロディとスカーレットも、アレクに視線を向けた。
アレクは戸惑う三人の眼差しを受け止め、静かに口を開く。
「聖遺物の力に、賭けようと思っている」
『聖遺物』――それは世界に三つしかない、魔力に対抗する力を持つと言い伝えられた宝器だ。
ミレニアムの夜明けで英雄が用い、その後は三国で一つずつ保有していた。
ロディが一瞬ぽかんとして、すぐぱっと目を輝かせる。
「それってさ、どの国もひとつずつ持ってる、なんかすげぇやつだろ!」
ロディの認識は間違っていない。が、語彙が安直すぎて一気に超越感が薄れてしまう。
幼子の憧れくらい大雑把な弟の語り口に、アレクは困ったように頬を緩めた。
「はは……まぁ、ロディはそれでいいか、な」
張り詰めた空気がわずかに和らぐ。ただ、クレイグの頬は微塵も緩まない。
「しかし、それはあまりに不確かすぎませんか?」
「それは否めない」
クレイグに倣い、アレクも再び頬を引き締めた。
「でも帝国はこの機になってもまだ、聖遺物に執着している。俺は、それだけの理由があると思っている」
「攻め込む口実かも知れませんよ?」
すぐクレイグが畳み掛ける。
これから赴くのは……最後かつ、最も危険な戦いだ。主人を守るためにも、疑う余地があるなら妥協はできない。
「……帝国は、目的があればそれに忠実だ」
議論を重ねる二人をただ静かに眺めていたスカーレットが、ふいに口を挟んだ。
「攻撃が目的ならば、この街はすでに火の海だっただろう。それだけの武力と……魔力が、帝国にはある。だが、現状はそうなっていない。ならば、やつらは本当に聖遺物を求めている」
「俺も全く同じ意見だ」
スカーレットの見解にアレクが頷く。
「ミレニアムの夜明けから伝えられている通り、聖遺物は魔力を得た彼らにとっての「脅威」と成り得るんだろう」
不確かでも期待を隠せないほど、語る声は熱を帯びた。だが、
「まぁ……切り札になるのかは、今のところわからないけどな」
自らその期待をからかうように締めて、アレクは肩をすくめた。
「でもさ、どんな力があるか分からなかったら、意味なくない?」
兄の言葉だけを素直に捉え、ロディが首をひねる。
「そんなことはないさ」
アレクはきっぱりと言い切った。
「魔力に対抗できる可能性を持つ物など、言い伝えや噂ですら聖遺物以外に存在しないんだ。決して、無駄にはならない」
そう言うと、アレクは誰もいない玉座に目を向ける。
聖遺物に、最悪を打破する希望があるかもしれない。ただ、それを得るためには……国にたったひとつしかない赤い椅子を背に構える人の、いくつかの許しが必要だった。
とんとん、と。
時機よくノックの音が響き、間も置かず扉が開く。
謁見室に足を踏み入れたのは、やや疲れた顔をしたリアムだ。
まったく、こんな時までローガンは……と何やらぶつくさぼやきながら、リアムは玉座にどかっと腰を下ろす。
「すまない、待たせたね」
アレクはすぐリアムを追って玉座に歩み寄った。
しかし、玉座の据わる壇を登らず、謁見の礼儀に即した正面の定置で足を止める。
「話がある」
リアムは黙って玉座に姿勢を正した。
「俺たちは」
「行くんだろう? 帝国に」
アレクの続きを、リアムは自分の言葉に変えた。
アレクは不意を食らったように、少しばかり目を見開いた。
ただ、それもほんの瞬く間。
「ああ」
短く強く、答えた。
迷いのないまっすぐな浅黄色の瞳をまじまじと見つめ、リアムはため息をもらす。
付き合いの長い従兄弟の考えは、手に取るように分かった。予想通りすぎて、口から出ていく息が止まない。
そんなリアムに構わず、
「昼日国王、頼みがあります」
アレクは深く頭を下げた。
「昼日国の聖遺物を、譲り受けたい」
リアムは垂れ下がる淡い金髪を眺めながら、肺の中身を吐き切るような仰々しい息を吐く。
「そう言うと思ってたよ」
言いながら軽く右手を持ち上げた。
白い布に包まれた何かを握っている。
リアムはちょいちょいとアレクを手招く。そそくさと玉座の傍まできたアレクの手のひらに、白い布ごと何かを乗せた。
アレクが白い布を捲る。
包まれていたのは……手のひらにぎりぎり収まる長さの、光沢のない銀の杭だった。
「これ、は……?」
ぎこちなく戸惑うアレクが気になり、三人も玉座に集まる。アレクの背後から白い布の中身を覗き込んだ。
「……杭ですか?」
「……杭だな」
クレイグとスカーレットは目を点にして、ありのままを口にする。
ロディは杭とリアムを何度も交互に見比べ、目をしばたたかせた。
「城のどっかが壊れたのか?」
「違うよ!」
空気の読めないロディに、リアムが声を張った。
「これが昼日国の聖遺物だよ!」
……この杭が、聖遺物。
アレクも場の流れから、そうだろうと察していた。
決して崇高な代物を期待していたわけではない。ただ、その見た目があまりにもありふれていて、希望を託すには頼りなさすぎた。
「……なんだか、思ってたのと違うな」
アレクが半ば呆れ気味に杭を掲げ、部屋の光に晒す。飾り気のないざらりとした曲面が、集まる光を拡げ散らしていた。
「これは……どんな力を秘めてる?」
リアムはきっぱり首を横に振る。
「残念ながら、この聖遺物の力は何も伝わっていない。残っているのはこの杭だけ、だ」
その答えに、アレクがしゅんと眉尻を下げた。
「こんなもの、って思っただろう?」
落胆を晒すその表情を、リアムは険しい目付きで咎める。
「でも間違いなくこれが、600年もの間、この世界の均衡を保っていたんだ」
アレクの手の中が、急にずっしり重くなった。
増したのは、600年分の平穏の重みだろう。
「昼日国の安寧を……アレクに、託す」
今、帝国は聖遺物を求めている。昼日国王の決断が示すのは……帝国への静かな抵抗であり、反撃の狼煙なのだ。
「……有難く、拝受します」
アレクは手の中の未知なる物を、強く握りしめた。
「杭だし、やっぱ打ち込んで使うもんなんかな?」
兄の手の中に収まった杭を見ながら、ロディが使い方に頭を巡らせる。
そして、「あ」と小さく声をもらした。
「あの人なら知ってんじゃねぇか?」
クレイグが無言で訝しげな視線を投げる。ロディは鼻息を荒くして、クレイグを睨み返した。
「夜月国の女王様だよ!」
今度はクレイグの口から「あ」ともれる。
「ロディ様はたまに冴えますね」
「るせぇ」
ロディは恨みを中指に込めて、クレイグの額を弾いた。
膨大な史料を有する夜月国の女王、ノエル。
帝国の聖遺物は鍵だと教えてくれた彼女なら、何らかの手掛かりを持っているかもしれない。
「ならば、夜月国に向かおうか。どのみち、夜月国の聖遺物も借り受けたいしな」
アレクは杭を包み……不意にロディへと差し出した。
「ロディ。この杭、お前が持っていてくれないか?」
「いいけど、なんで?」
きょとんとするロディに、ほんの一瞬、アレクが言葉を詰まらせる。
さっきロディが何気なく言った「打ち込む」という響き。アレクはそれに、白い法衣から繁吹く血を思い浮かべてしまった。
己の悲観的な発想を恨みつつ、その映像が、頭から離れない。
「……見た目通り、突き刺して使うものなら、俺より力の強いロディの方が適しているかなと、思っただけだ……」
ロディは後ろめたさを隠しきれない兄をじっと見据えていたが、
「わかった」
素直に頷いて、布に包まれた杭を受け取った。
ロディが杭を仕舞うのを見届けると、アレクは再びリアムを向く。
「リアム、馬車道を使う許可が欲しい。こんな状況で国民の不安を煽るのは心苦しいが、ことは一刻を争う。緊急事態を宣言して道を譲ってくれないか?」
躊躇いがちに申し出たアレクに、リアムは得意げな笑みを満面に湛えた。
「もうとっくに出してあるよ。馬車道は空けてある。それと、厩舎に馬を用意してある。使ってくれ」
「有能すぎる王様だ、昼日国の未来は明るいな」
アレクは眩しそうに目を細める。
「……後のこと、よろしく頼むよ」
そう言って、アレクは微笑んだ。
もし、アレクサンダーという男を偲ぶ日が来たら、何をさておき真っ先に浮かぶ……そんな、記憶に焼き付きそうなほど、美しい笑顔だった。
まるで……最期を飾ろうとするように。
リアムは思わず腰を浮かせかけ……ぐっと肘掛を握ると尻を座面に押し付ける。
そんなリアムに気づかないまま、四人は互いに頷き合い、玉座に背を向けた。
……その背を、引き止める力はない。
ならば、王として、リアムとして――いま贈れる、最良の餞を。
リアムは大きく息を吸い込んだ。
「アレクサンダー!」
突然、リアムの声が謁見室中に響き渡る。
「ロデリック! クレイグ! それと……スカーレット!」
その声に驚き、全員がリアムを振り返った。
スカーレットは、名乗りすらしていない王に自分の名を呼ばれ、ぽかんと口まで開いている。
「昼日国王より命ずる!」
リアムの口調は先程までとは打って変わり、堂々とした威厳を轟かせた。
四人の背が、自然と伸びる。
……そして。
「必ず、絶対、生きて昼日国に帰ってこい!」
その言葉は……それぞれの心の、人生で積み上げた喜びを全部引き剥がした奥底に、深く食い込んだ。
死を覚悟した四人に、王命としてまで生きて帰ることを強く望む人がいる。
それは何よりも心を奮い立たせ、生への執着を抱かせる……尊ぶべき命令だった。
アレクが静かに姿勢を正し、リアムに騎士の礼をとる。アレクに続き、ロディも、クレイグも、スカーレットも、深々と腰を折った。
表情を悟らせまいと深く頭を下げたままで、アレクは声を絞り出す。
「……王命、承りました……」
それでも、震える声は隠しきれなかった。




