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君に深紅の花束を  作者: 小川 綾
■第五章
54/63

第零節 はじまりのわかれめ

 時は創造歴999年。

 時節は生を揺るがす、衡神タルダディールの節、中月の二十六日目。




「イーサー! イーサー!」


 エミーナの怒鳴り声は、帝国城の長い廊下を抜け、階段を駆け上がり……城にある部屋中に響き渡る。


 地下にある自室で研究に没頭していたイーサーの耳にも、その声は届いていた。集中を切らされ煩わしく思っていると――突然、部屋の扉が開け放たれる。


 そこには……怒りに白い肌を真っ赤に染め、顔を歪ませたエミーナが立っていた。

 イーサーを見るなり、ずかずかと部屋へ押し入ってくる。


「……騒々しいと思ったら、夜月国の大聖女どのじゃないか。どうした? 求婚の返事でも聞かせてくれるのか?」

 イーサーはやれやれと論文を書いていた手を止め、机から立ち上がった。


 エミーナは歩調を緩めることなくイーサーの前まで突き進むと、軽薄な笑みを浮かべるその胸ぐらを掴みあげる。

「ザムルーズをどこへ連れていったの!」

 今にも殴りかかりそうなエミーナに、イーサーは両手を頭の上に掲げ、ひらひらと振る。

「なんのことかなぁ?」

「しらばっくれるんじゃないわよ!」

 馬鹿にしたような態度に一層かっとなり、掴んだ胸ぐらをぐっと締め上げた。

 だが、エミーナの力では服が伸びた程度で、イーサーの体は細くても揺れすらしない。


 イーサーはされるがまま半笑いを絶やしもせず、挑発的に「おおこわい」と口にする。

「うるさい!」

 エミーナが一喝した。

「あんたがザムルーズを隠したのは分かってるのよ! どこにやったのよ!? 早く返して!」



 ()()に気づいたのは――一週間ほど前のことだった。

 ……ザムルーズと連絡が取れない。

 嫌な予感に耐えきれず、制止する老害どもを無理やり振り切って昼日国に向かった。ものの……顔見知りの従者から得られた情報は、「数日前にひとりで帝国に向かった」ことのみ。

 帝国に向かったあと音信不通になったのは、間違いない。

 ならば……次に向かう先は、もう決まっていた。そのまま馬を走らせて――今、エミーナはイーサーの前に立っている。


 いや、この部屋に来るまでに城の中は全て探した。ザムルーズほど魂が輝いているなら、見つけるなんてすぐだと高を括っていた。


 しかし、ザムルーズは見つからなかった。


 彼とこんなにも長く連絡が取れなくなったことなど、一度もない。

 ザムルーズの存在を感じられない恐怖が、不安が、焦りが……胸を内から破ってしまいそうなほど、エミーナを掻き乱す。


 ――絶対、イーサーが何かした。


 エミーナはそう、確信していた。



「もう城は探したんだろう?」

 イーサーはいとも簡単に、力いっぱい握りしめられた非力な大聖女の手を解く。

「それで居なかった……ということはね、()()()いないってことだよ」

「いい加減にして!」

 他人事のような物言いに激昂して、エミーナは激しく声を荒らげた。


「あんたがその気なら……私も容赦しない!」

 エミーナはイーサーに向けて右手を突き出す。それをちらりと見やって、イーサーはしわが寄った服の胸元をのんびり伸ばす。

「おやおや。人を殺める術もないのに随分勇ましいことで」

「殺せなくたって、あんたを世界から隔絶するくらい訳ないわ!」

「本当に負けん気の強い聖女様だな。まぁまぁ……とりあえず落ち着きなよ」

「落ち着けるわけないでしょ!」

 宥めたつもりが、エミーナは突き出した手のひらをイーサーの胸元に思い切り押し当てた。せっかく整えた服がまたよれる。


 イーサーはやれやれと首を振り、わざとエミーナから視線を逸らせた。

「……ザムルーズを、解放して欲しいか?」

「当たり前……」

 エミーナは構えず頷き……次の瞬間、

「やっぱりあんたじゃないの!」

 この城ごとイーサーを引き裂いてしまいそうなほど嫌悪に溢れる絶叫を浴びせた。



 ――突然、イーサーの左手がエミーナの喉を掴む。


 非力な聖女とは比べ物にならない握力が、細い首を締めつける。その強い力で持ち上げられ、エミーナの踵がわずかに浮いた。

 苦しさから逃れようと、エミーナの両手が首にかかる手を力いっぱい引っ掻く。

 しかし……首を絞める手の力は強まるばかりだった。



「そうさ! 俺が仕組んだ!」


 イーサーは嬉々とした声を張り上げる。


「ザムルーズは俺しか知らないところに監禁している。もう三日ほど経ったか。俺がこのまま黙れば……そう長くは持たないだろうな」

 意識が朦朧とし、視界が霞んだ。それでもなお、エミーナの燃えるような赤い瞳は憎しみを放ち、イーサーに食らいつく。


 酸素を求めて開いた口から、短い喘鳴がもれて――前触れもなく、イーサーが手を離した。


 エミーナは膝から床に崩れ落ち、咳き込むようにむせ返る。イーサーはエミーナの顔の高さに合わせてしゃがむと、赤い前髪を引っ張り上げた。


 ぐっと近づいた、これでもかと光を映さない真っ暗闇の瞳が……エミーナの視界を占める。


「条件」

「は?」

 何を言い出したのかと、ほんの一瞬だけエミーナの頬から強ばる力が抜けた。

「条件を呑んだら、ザムルーズの居場所を教えてやろう」

「……一応、聞いてやるわ……」

 軽蔑と苦痛を含んだその声を聞くなり、イーサーの瞳を満たすどす黒い望みが喜びに震える。


「エミーナ、君の魂の中にあるものを解放しろ」


「な……」

 息苦しさが嘘のように、ひゅっと引っ込んだ。

「君の魂は衡神タルダディールが創った特別な器、なんだろう? 君の魂が持つ、負の感情を神の力に変える原理……すなわち、魔力の解放が条件だ」


 エミーナの目が、驚きで見開かれる。


「……なんで、それを知って……?」




 ――それは、誰も知らないはずの、秘密。



 物心がついた時から気づいていた。

 自分の心の中の操れないほど深いところに湧いては澱む、黒くて、重くて、どろどろとした……言葉では言い表せない「何か」。


 それが「何」かを知ったのは……大聖女の印を身に宿した時。

 あの瞬間、自分の知らない知識が脳を貫いて……頭の余白に無理やり理解を植え付けていった。


 限界を迎えた衡神タルダディールに代わり、世界に溢れる負の感情を引き受けるための「器」として創られた――それが、エミーナの魂。


 自分の奥底に潜むこの不快なものは、人の歴史の分だけ積み重なった――怒り、憎しみ、悲しみ、妬み。

 それは、神話で人を裁いた神の怒りの根源であり、生きとし生けるものを魂へ還す、尊く恐ろしい――魔力。


 そんな、どうしようもない力が、自分の中にあった。


 大聖女の印を授かるに至ったこの際限ない聖力も、偶然で備わったものではない。

 果てなく流れ込むどす黒い力で魂が壊れないようにと、慈神ユグラディールが与えた慈悲なのだ。




 呼吸を忘れるほど固まったエミーナを見て、イーサーは満足げな笑みを浮かべる。

「やれやれ、忘れたのかい? 俺は衡神タルダディールを研究する唯一の人、なのだよ。まぁ、まだ憶測ではあったけど……君の反応を見る限り、どうやら間違いなさそうだね」


 イーサーは抵抗しない前髪を掴んだまま、エミーナの体を後ろへ突き飛ばした。

「なぁ、エミーナ。こんな簡単に踏みにじれる虫けらばかりじゃあ、俺は退屈、なんだよ」

 背が倒れないよう後ろ手をついて仰け反ったエミーナに、イーサーの手がじりじり迫ってくる。触れられるのがおぞましくて、『聖域〈カグ〉』でその手を弾き返した。


 イーサーは「あいたた」と手を引っ込めたが……すぐにその手を、天井に向けて大きく広げる。

「君が力を持てば、世界は変わる! 思いのままに蹂躙し尽くしてさ、何もなくなったこの世界で君と殺しあえたら……なんて素晴らしいんだろう! 例え俺を殺したとて、一人立つ君がどんな顔をしてるかって考えただけで……ゾクゾクするなぁ!」

 思い描いた通りに事が運び、この先に待つ下卑た望みを隠そうともしなかった。



 ザムルーズの命と引き換えに、イーサーが望むのは――エミーナの魂にある力の解放。



 ……知ってるよ、どうすればいいか。



 大聖女の印を宿したまま、純潔を捨てればいい。


 元より聖女は身を穢せば聖力が暴走して、自我が保てなくなる。

 そうならないように印が操を守ってくれるのだけど……それをすり抜ける術さえ、ご丁寧に授けてくれた。


 エミーナという存在は、神話のように世界を壊し尽くす素質を抱える……破滅の化身だ。

 そんな身を穢してしまえば……負の感情は聖力との均衡など一瞬で崩し、エミーナの肉体を介して魔力へと変わり……世界に撒き散らされる。



 ――そうなったら、私は……




「さぁ、選べ!」


 イーサーが声高らかに叫ぶ。


「ザムルーズの命か、自身の安寧かを!」


「そんなの……」

 そう呟いて、またエミーナへと伸びるイーサーの手をじっと見据えた。



 ……ふと指先に、ザムルーズの手の温もりを思い出す。

 周りの老害がうるさくて、逢瀬の際も触れられたのはそこだけ。

 でも、彼の存在を思えば……エミーナの胸はどうしようもなく温かく、強くなる。


 何を天秤にかけようが……片方がザムルーズなら、釣り合うものなど存在しない。



 ――あの温もりが取り戻せるなら、どうにでもなってやる。



 エミーナは決意に滾る赤い瞳で、イーサーを射るように睨む。



「決まってるじゃない」



 エミーナははっきりと答えた。

 ……躊躇も迷いもない、確信に満ちた声で。

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