第零節 はじまりのわかれめ
時は創造歴999年。
時節は生を揺るがす、衡神タルダディールの節、中月の二十六日目。
「イーサー! イーサー!」
エミーナの怒鳴り声は、帝国城の長い廊下を抜け、階段を駆け上がり……城にある部屋中に響き渡る。
地下にある自室で研究に没頭していたイーサーの耳にも、その声は届いていた。集中を切らされ煩わしく思っていると――突然、部屋の扉が開け放たれる。
そこには……怒りに白い肌を真っ赤に染め、顔を歪ませたエミーナが立っていた。
イーサーを見るなり、ずかずかと部屋へ押し入ってくる。
「……騒々しいと思ったら、夜月国の大聖女どのじゃないか。どうした? 求婚の返事でも聞かせてくれるのか?」
イーサーはやれやれと論文を書いていた手を止め、机から立ち上がった。
エミーナは歩調を緩めることなくイーサーの前まで突き進むと、軽薄な笑みを浮かべるその胸ぐらを掴みあげる。
「ザムルーズをどこへ連れていったの!」
今にも殴りかかりそうなエミーナに、イーサーは両手を頭の上に掲げ、ひらひらと振る。
「なんのことかなぁ?」
「しらばっくれるんじゃないわよ!」
馬鹿にしたような態度に一層かっとなり、掴んだ胸ぐらをぐっと締め上げた。
だが、エミーナの力では服が伸びた程度で、イーサーの体は細くても揺れすらしない。
イーサーはされるがまま半笑いを絶やしもせず、挑発的に「おおこわい」と口にする。
「うるさい!」
エミーナが一喝した。
「あんたがザムルーズを隠したのは分かってるのよ! どこにやったのよ!? 早く返して!」
それに気づいたのは――一週間ほど前のことだった。
……ザムルーズと連絡が取れない。
嫌な予感に耐えきれず、制止する老害どもを無理やり振り切って昼日国に向かった。ものの……顔見知りの従者から得られた情報は、「数日前にひとりで帝国に向かった」ことのみ。
帝国に向かったあと音信不通になったのは、間違いない。
ならば……次に向かう先は、もう決まっていた。そのまま馬を走らせて――今、エミーナはイーサーの前に立っている。
いや、この部屋に来るまでに城の中は全て探した。ザムルーズほど魂が輝いているなら、見つけるなんてすぐだと高を括っていた。
しかし、ザムルーズは見つからなかった。
彼とこんなにも長く連絡が取れなくなったことなど、一度もない。
ザムルーズの存在を感じられない恐怖が、不安が、焦りが……胸を内から破ってしまいそうなほど、エミーナを掻き乱す。
――絶対、イーサーが何かした。
エミーナはそう、確信していた。
「もう城は探したんだろう?」
イーサーはいとも簡単に、力いっぱい握りしめられた非力な大聖女の手を解く。
「それで居なかった……ということはね、城にはいないってことだよ」
「いい加減にして!」
他人事のような物言いに激昂して、エミーナは激しく声を荒らげた。
「あんたがその気なら……私も容赦しない!」
エミーナはイーサーに向けて右手を突き出す。それをちらりと見やって、イーサーはしわが寄った服の胸元をのんびり伸ばす。
「おやおや。人を殺める術もないのに随分勇ましいことで」
「殺せなくたって、あんたを世界から隔絶するくらい訳ないわ!」
「本当に負けん気の強い聖女様だな。まぁまぁ……とりあえず落ち着きなよ」
「落ち着けるわけないでしょ!」
宥めたつもりが、エミーナは突き出した手のひらをイーサーの胸元に思い切り押し当てた。せっかく整えた服がまたよれる。
イーサーはやれやれと首を振り、わざとエミーナから視線を逸らせた。
「……ザムルーズを、解放して欲しいか?」
「当たり前……」
エミーナは構えず頷き……次の瞬間、
「やっぱりあんたじゃないの!」
この城ごとイーサーを引き裂いてしまいそうなほど嫌悪に溢れる絶叫を浴びせた。
――突然、イーサーの左手がエミーナの喉を掴む。
非力な聖女とは比べ物にならない握力が、細い首を締めつける。その強い力で持ち上げられ、エミーナの踵がわずかに浮いた。
苦しさから逃れようと、エミーナの両手が首にかかる手を力いっぱい引っ掻く。
しかし……首を絞める手の力は強まるばかりだった。
「そうさ! 俺が仕組んだ!」
イーサーは嬉々とした声を張り上げる。
「ザムルーズは俺しか知らないところに監禁している。もう三日ほど経ったか。俺がこのまま黙れば……そう長くは持たないだろうな」
意識が朦朧とし、視界が霞んだ。それでもなお、エミーナの燃えるような赤い瞳は憎しみを放ち、イーサーに食らいつく。
酸素を求めて開いた口から、短い喘鳴がもれて――前触れもなく、イーサーが手を離した。
エミーナは膝から床に崩れ落ち、咳き込むようにむせ返る。イーサーはエミーナの顔の高さに合わせてしゃがむと、赤い前髪を引っ張り上げた。
ぐっと近づいた、これでもかと光を映さない真っ暗闇の瞳が……エミーナの視界を占める。
「条件」
「は?」
何を言い出したのかと、ほんの一瞬だけエミーナの頬から強ばる力が抜けた。
「条件を呑んだら、ザムルーズの居場所を教えてやろう」
「……一応、聞いてやるわ……」
軽蔑と苦痛を含んだその声を聞くなり、イーサーの瞳を満たすどす黒い望みが喜びに震える。
「エミーナ、君の魂の中にあるものを解放しろ」
「な……」
息苦しさが嘘のように、ひゅっと引っ込んだ。
「君の魂は衡神タルダディールが創った特別な器、なんだろう? 君の魂が持つ、負の感情を神の力に変える原理……すなわち、魔力の解放が条件だ」
エミーナの目が、驚きで見開かれる。
「……なんで、それを知って……?」
――それは、誰も知らないはずの、秘密。
物心がついた時から気づいていた。
自分の心の中の操れないほど深いところに湧いては澱む、黒くて、重くて、どろどろとした……言葉では言い表せない「何か」。
それが「何」かを知ったのは……大聖女の印を身に宿した時。
あの瞬間、自分の知らない知識が脳を貫いて……頭の余白に無理やり理解を植え付けていった。
限界を迎えた衡神タルダディールに代わり、世界に溢れる負の感情を引き受けるための「器」として創られた――それが、エミーナの魂。
自分の奥底に潜むこの不快なものは、人の歴史の分だけ積み重なった――怒り、憎しみ、悲しみ、妬み。
それは、神話で人を裁いた神の怒りの根源であり、生きとし生けるものを魂へ還す、尊く恐ろしい――魔力。
そんな、どうしようもない力が、自分の中にあった。
大聖女の印を授かるに至ったこの際限ない聖力も、偶然で備わったものではない。
果てなく流れ込むどす黒い力で魂が壊れないようにと、慈神ユグラディールが与えた慈悲なのだ。
呼吸を忘れるほど固まったエミーナを見て、イーサーは満足げな笑みを浮かべる。
「やれやれ、忘れたのかい? 俺は衡神タルダディールを研究する唯一の人、なのだよ。まぁ、まだ憶測ではあったけど……君の反応を見る限り、どうやら間違いなさそうだね」
イーサーは抵抗しない前髪を掴んだまま、エミーナの体を後ろへ突き飛ばした。
「なぁ、エミーナ。こんな簡単に踏みにじれる虫けらばかりじゃあ、俺は退屈、なんだよ」
背が倒れないよう後ろ手をついて仰け反ったエミーナに、イーサーの手がじりじり迫ってくる。触れられるのがおぞましくて、『聖域〈カグ〉』でその手を弾き返した。
イーサーは「あいたた」と手を引っ込めたが……すぐにその手を、天井に向けて大きく広げる。
「君が力を持てば、世界は変わる! 思いのままに蹂躙し尽くしてさ、何もなくなったこの世界で君と殺しあえたら……なんて素晴らしいんだろう! 例え俺を殺したとて、一人立つ君がどんな顔をしてるかって考えただけで……ゾクゾクするなぁ!」
思い描いた通りに事が運び、この先に待つ下卑た望みを隠そうともしなかった。
ザムルーズの命と引き換えに、イーサーが望むのは――エミーナの魂にある力の解放。
……知ってるよ、どうすればいいか。
大聖女の印を宿したまま、純潔を捨てればいい。
元より聖女は身を穢せば聖力が暴走して、自我が保てなくなる。
そうならないように印が操を守ってくれるのだけど……それをすり抜ける術さえ、ご丁寧に授けてくれた。
エミーナという存在は、神話のように世界を壊し尽くす素質を抱える……破滅の化身だ。
そんな身を穢してしまえば……負の感情は聖力との均衡など一瞬で崩し、エミーナの肉体を介して魔力へと変わり……世界に撒き散らされる。
――そうなったら、私は……
「さぁ、選べ!」
イーサーが声高らかに叫ぶ。
「ザムルーズの命か、自身の安寧かを!」
「そんなの……」
そう呟いて、またエミーナへと伸びるイーサーの手をじっと見据えた。
……ふと指先に、ザムルーズの手の温もりを思い出す。
周りの老害がうるさくて、逢瀬の際も触れられたのはそこだけ。
でも、彼の存在を思えば……エミーナの胸はどうしようもなく温かく、強くなる。
何を天秤にかけようが……片方がザムルーズなら、釣り合うものなど存在しない。
――あの温もりが取り戻せるなら、どうにでもなってやる。
エミーナは決意に滾る赤い瞳で、イーサーを射るように睨む。
「決まってるじゃない」
エミーナははっきりと答えた。
……躊躇も迷いもない、確信に満ちた声で。




