第四節 昼日国の英雄
「いい意気込みだな」
リアムの独り言に相槌が返った。
耳にした瞬間、リアムは心臓を鷲掴まれたかのように玉座から跳ね上がる。謁見室を見渡し……ても、人の姿はない。だが、いま間違いなく聞き覚えのある声がした。
ありったけの五感を研ぎ澄ますと、かさり、とかすかな布擦れの音をリアムの耳が拾う。逃がすかと食らいつかんばかりに振り返れば、玉座後ろの壁一面を飾る赤い幕の、ちょうど玉座の真後ろがぽっこり膨らんでいた。
「おい! 誰だ!」
リアムは膨らみに向かって一段と高い声で怒鳴りつける。それに応えるように幕の膨らみは大きく揺れ、そのまま壁伝いに部屋の角までゆっくり流れて……幕の縁からひょいと頭を覗かせた。
肩まで届く淡い金色の髪を後ろでまとめ、切れ長の垂れ目が印象的な整った顔立ちは……もっと早くこの場で見たかった面だ。
「アレク!」
なぜと思うより先に気が抜けて、膝が崩れそうになる。リアムは慌てて玉座に手をついた。
「何やってるんだよ……びっくりしただろ?」
「ははは、悪い悪い」
「一体いつからそこに?」
「団長が来る少し前くらいかな。リアムが手を洗いに立った隙に、ね」
「よくもまぁ、あんな短時間で……」
「そう、すぐ戻ってくるだろうから焦ってさ。とりあえず隠れてみたけど、自分でも無理あるなーって。でも、意外とばれなかったな」
そう言って、アレクはすこぶる満足げな笑みを浮かべた。
音の正体がわかって眉を開いたリアムだが、アレクに向ける笑顔はどうにも釈然としない。中腰を後ろに捻ったまま、突然現れた探し人を見続けている。
アレクは幕から抜けようとして――かくんと何かに引っ張られた。足を止め携えていた長い槍を見上げれば、穂先に幕が絡まっている。アレクは煩わしげに睨んだものの、ため息をひとつ落としゆっくり優しく槍を揺すって絡まりを解いた。
それでも少し破けてしまった部分をばれないよう慎重に整えると、アレクは再びリアムににっこり笑いかける。
この男こそ先ほどリアムが探していた騎士、アレクサンダーだ。
最高位を表す金の刺繍が施された鮮やかな赤の羽織と王の証の銀冠を戴くリアムに対し、アレクはくすんだ赤の飾り気もない騎士団の制服に身を包んでいる。同じ赤とて立場の差は一目瞭然なのだが、アレクの昼日国王に対する口調は非常にくだけたもので、リアムもそれを気にする素振りはない。
「なんで隠れてたんだよ? 立ち会ってもらおうと思ってジルベルトの小言まで聞いたのに」
「はは、俺も間者の報告を聞きたくてさ。でも、団長は絶対許さないだろうから、こっそり忍び込んだんだ。逆に、リアムが頑なに同席させようとしてくれたのが意外だったな」
「当たり前だよ。やれやれ……そりゃ会うわけないな。かくれんぼは君の勝ちだ。賞品はジルベルトの小言でいいかい?」
「それは本当に勘弁してくれ。悪かったよ、出るに出れなくなってさ」
「本当に悪いと思ってる?」
リアムは呆れた顔で不満をたれるも、いたずらっぽく笑うアレクを見てすぐ口元を緩める。
「まぁいいや。君にちゃんと説明できるか悩ましかったし、時間も手間も省けたからかえって助かったよ」
今日の運はこれで使い果たしたなとひと息ついて、リアムは元通り玉座に腰を落ち着けた。
アレクは玉座に近づき、椅子の背で見えなくなったリアムの顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「大丈夫……なわけないって、わかってるくせに」
リアムは弱々しく息を吐いた。
「これが話に聞く八方塞がりってやつ?」
おどけた口ぶりで、アレクに見せつけるように引きつった頬の端を無理やり持ち上げる。が、すぐ膝の上に顔を埋め、肺が裏返りそうなほど長いため息をついた。
間者が持ち帰った帝国の現状は悪夢としか思えず、隠れてうっすら聞いていただけのアレクですら、嫌悪感が先立ち情報の消化が追いつかない。
ましてや国の指導者として正面から受け止め、判断を下さなければならないリアムの心理的負担はかなりのものだろう。
アレクは気丈に取り繕えなくなった背中を視線で撫でると、笑いを含めた息をはっと吐きかけた。
「なんだ、『やってやろう』は空耳だったか」
「そんなことはない!」
リアムがばっと体を起こし、物言いたげにアレクを見上げる。まっすぐリアムを見つめる金みがかった浅黄色の瞳は、気遣わしげに細まるも潤んで輝き高まる熱意を隠さない。
「……けど、さ……」
歯切れ悪い答えに合わせて落ちたリアムの肩を、アレクはあやすようにぽんぽんと叩いた。
「なら、迷うことないさ。あとは任せてくれ。すぐ昼日国を発つよ」
いつだって頼もしいアレクの笑顔が胸を余計ざわつかせて、リアムはふいと顔を背けた。
「何拗ねてるんだ。最悪の場合、俺が帝国に向かうのは元々伝えてあっただろう?」
「……ああ」
「この機を逃せば、俺たちの十年も、間者の死も、昼日国の未来も……全部無駄になってしまうからな」
「そんなの分かってるよ!」
リアムが勢いよく玉座から立ち上がり、すぐそばにいるアレクの胸ぐらを掴みあげた。
片や即位してからろくに剣も握らない王と、片や毎日過酷な訓練に勤しむ騎士……力の差は歴然だ。リアムがいくらアレクを掴んだところでたぐり寄せられるはずもなく、服だけがぐいっと伸びた。
そんな情けなさなどお構いなしに、リアムはされるがままで目をぱちくりさせるアレクを強く睨む。
「君こそわかってるのか! さっきの報告、聞いてたんだろ! 今起きているのは……僕らの考えた最悪より最悪だ!」
「ああ、そうだな」
全く動じない浅黄の瞳の輝きがかえってリアムを怯ませた。負けじと目頭に力を入れる。
「それでも君は……行くって言うのか!」
「望むところだ。ずっと、そうしようと決めていた」
どれだけ不安を煽ろうが信念を貫くアレクの姿勢は、神なんかより崇めるに相応しい。もちろん他に手がないことも、リアム自身よく分かっていた。
ただ、正論なんかでは割り切れない。
「今回、僕が送り出した者はほとんどが帰らなかった! それよりもっと、ずっと危険な任務に赴くんだぞ! もし……もし君に、何かあったら……」
考えたくないもしが泡のように膨らんで、アレクにぶつけたい言葉を覆い隠していく。吐ききれなかった不安は、服を掴むリアムの拳をさらに力ませた。
「……まったく心配性だな、リアムは」
ふるふると震えるリアムの手に、アレクはそっと自分の手を重ねる。触れた肌から小刻みに揺れる温かさが伝わって、アレクの目元は自然と綻んだ。
「その気持ちは嬉しいよ。でも、俺は帝国に乗り込む名分が立つのを待ってたんだ」
服を掴む力が緩んだのを見計らい、アレクはリアムの手をほどく。縋るものがなくなった腕は力なくすとんと落ちた。腕に合わせて頭もかくんと垂れる。
項垂れた茶色のくせ毛の上に載る銀冠は――本来なら自分が戴かなければならなかったもの。
目の前に映るそれを、アレクは優しく見つめた。
「俺がザムルーズの魂を継いでいるなんて、昼日国民なら誰でも知っているだろう?」
アレクの言う通り、昼日国に暮らすなら賢王ザムルーズの名を知らない者などいない。600年前の昼日国を治め、彼が確立した政策や制度は今も国の礎となっている。
そして、当時起きた歴史上最悪の惨禍『ミレニアムの夜明け』で脅威を打ち破った『英雄』だ。
「周りは英雄の再誕だと担ぎ上げるけど、俺にできたのはその場しのぎしかなく、語り継がれる英雄の足元にも及ばなかった」
「……それでも、あの獣を屠れるのは君しかいない」
リアムは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
****
かつて世界を脅かした神のごとき力――今は”魔力”と呼ぶその力が脅威だった理由はふたつ。
ひとつは、一切の理を無視し無から事象を創り出せること。
もうひとつは、人が触れることさえ許されない絶対の不可侵性をもつことだ。
生み出される炎は消せず、降り注ぐ氷の礫は振り払えず――そんな魔力に対し、ザムルーズだけが干渉できる力を持っていた。
なぜそのような力があったのかは謎のまま。だが、その力で魔力の元を断ち切り世界から脅威を消し去った。
アレクが持って生まれてきたのはその英雄の魂だ。つまり、この世界で唯一、帝国の封印された力に対抗できる存在なのである。
****
「あの獣が現れたのと同時に前王が崩御して……あの時の俺は、王と魂、二つの責任を一手に担う力なんてなかった」
過去を思い返すと、項垂れたままのリアムが当時の自分に重なった。悔しさと……温かな気持ちが込み上げてくる。
「そんな俺の肩を軽くしてくれたのがリアムじゃないか。昼日国を引き受けてくれて本当にありがと……」
不意にリアムが顔を上げた。
「礼なんて聞きたくない」
研ぎ澄まされた茶色の瞳は潤んでも涙を零さず、恐ろしさで怯え上擦っていた声は腹の底から重く、響く。
「確かに、僕は昼日国の王になったさ。でもそれは、あの時、君の助けになりたいと思ったからだ。僕からすれば君は魂だけじゃなく、志も賢王ザムルーズそのものだよ」
「なんだ、えらい褒めてくれるじゃないか」
褒めるにしては口調がきつい。素直に受け取れずアレクは曖昧に笑う。
「……にしても、それは買いかぶりすぎさ」
「僕は、君が帰れば王位を返したい」
リアムはアレクの謙遜など、聞く耳も持たない。
「僕の中で昼日国の王はアレクサンダー、君しかいない。僕は、君が治める昼日国をみたいんだよ!」
まだ言い足りないと口を動かすリアムに、アレクはさっと背を向けた。そして赤い騎士服の肩越しに、そこまで、と片手をひらひら払った。
「……いっつもそれだ……」
気勢をそがれてリアムはため息をつく。
「何度も言うけど、これは命令だ。忘れないでくれ」
この堂々巡りは、アレクが帰るまでまたお預けか――悔しそうにその赤い背を睨み、リアムは玉座に腰を下ろした。
「……俺は、賢王と並べる器じゃないさ……」
そっと独りごち、アレクは玉座に背を向けたまま軽い足どりで数歩の壇を降りる。降りきったところで立ち止まると――携えていた槍をまっすぐ扉に向けて伸ばした。
「リアムは覚えてるか?」
唐突に問いかけられ、リアムがきょとんとする。
「何を?」
「十年前の魔獣の暴走をさ」
「当然だよ」
槍を構える凛々しい騎士服の背中を見つめ、リアムは大きく頷いた。
「君が魔力を断つ決心を、そして、僕が王位を預かるに至った出来事だ……忘れるわけない」
「はは、そうりゃそうか」
リアムの力強い答えを背で受け、アレクは小さく微笑む。
「あの一件から魔力をまとう獣が現れはじめ、その度に多くの命が失われてきた。地図から消えた村も、少なくない……」
十年前、リアムが獣の暴走を調べる際に漁った『ミレニアムの夜明け』――魔力との初めての戦いを遺した史料に、『魔獣』という呼び名と、魔獣は『魔力を得て暴走した獣』ということが記されていた。
まさにこれが、帝国に疑惑を抱く大きなきっかけだった。魔獣は今なお、昼日国を蝕み続けている。
アレクの言葉に、リアムは黙って頷いた。背を向けたアレクがどんな顔をしているかは分からない。ただ、もうきっと笑ってはいないだろう。
「あのあと俺はすぐ騎士団に入ってさ。しばらくは騎士の数が足りなくて、見習いも魔獣の討伐に駆り出されたな。そこで街を襲う魔獣を一人で仕留め……俺は本当に英雄の魂を継いでいたんだ、って思い知ったよ」
リアムは口を挟まない。そもそも野獣を倒すのもそれなりの腕が要る。ましてやそれが、魔力の恩恵を受ける魔獣となれば……一人で仕留められるのは英雄しかいない。
「まぁ……一突きで動かなくなった時は俺よりも団長の方が驚いてたけどな」
アレクは口にしながら、顎が外れるほどぽかんと口を開けた騎士団長を思い出し……小さく吹き出す。
……が、すぐきっと扉を睨むと、見えない何かを切り裂くように槍先を振り下ろた。
「こんな、何気ない一振ですら魔獣を排除できるのに……それすら間に合わなかった……」
赤い絨毯を突く槍に、覚えている限りの救えなかった命を思い浮かべ、アレクは顔を歪めた。
「なぁ、リアム」
ふとアレクが玉座を振り返る。
「なんだい?」
「英雄と魔力は、再びこの世界で肩を並べた。これはもう、神様が俺に魔力を断て、って言ってるようなものだよな?」
英雄は自信に満ちた笑顔で肯定を促す。
「……そうせざるを得ないけど、神様は何も言わないよ」
リアムは笑いも困りもできず締りのない顔で頷いた。アレクは「まぁな」と少し目を細め、また扉に顔を向ける。
「でも、今こそ受け継いだ魂の力を振るう時じゃないか。そのために俺は王位を託し、鍛錬を積み重ねてきたんだ」
リアムは頼もしい騎士服の背中を見つめ、ただ力強く頷いた。それを知ってか知らずか、アレクは扉を向いたままで頷き返す。
「リアムの十年……いや、ミレニアムの夜明けから、人は地道に文明を築き直してきたんだ。それを600年前と同じ手でぶち壊そうとする者がいる。それを止められるのが俺だけなら、俺の手で断ち切ってやる」
……世界から魔力を断つ。
アレクにはそれが自身の生に課された役割で、なし遂げるべき使命とすら感じていた。もちろん、王位は捨てたが民の平穏を守る責任も深く胸に刻んでいる。
ただ、それとは全く違う……自分の心の奥を越えたもっと深いところで、魔力と向き合うのが当然と刷り込まれているようだった。
ありふれた言葉で表すなら、これはきっと魂に刻まれた宿命だ。そうとしか思えない。
「それが、俺という人として生き着くべき先だ」
アレクの瞳は扉の、そのまたずっと先を、強く見据えていた。