第零節 おとずれるはじまり
時は創造歴999年。
時節は生を眠らす、衡神タルダディールの節、中月の三十日目。
「……く……」
……嗅ぎなれた、花の香りが鼻を掠める。
差し込んだ陽の眩しさで、ザムルーズは目を覚ました。
「ここは……?」
まだぼんやりとした眼で辺りを見渡す。赤い絨毯に大きな窓、石造りの天井、重厚感のある木製の扉……どれも全く見覚えがない。
ザムルーズは知らない景色に戸惑いながら、体を起こそうとして……動かした頭に鋭い痛みが走った。あまりの痛さに、また頭を床に投げ出す。
唐突に、意識が途切れる前に見た光景を思いだす。
「……あれ? おれ?」
頭が上手く回らない。体も、妙に火照っている。
ひとまず仰向けに寝転んだまま、ザムルーズは記憶の断片をなぞるように、手首、胸、顔と触った。
「……傷がない? なぜだ……?」
ザムルーズは不穏な動きをみせるイーサーを咎めるため、単身で帝国を訪れた。謁見室の扉を開けた瞬間、後ろからの衝撃を受け……意識が途切れた。
次に目覚めた記憶はある。
どこかは分からないが、薄暗い牢だ。肌で感じた湿り気や音の響き方からすると、おそらく地下だろう。手足を枷で繋がれたまま、何度も殴られた。剣ではなく、木の棒で。
殺す気はないというように、笑いながら嬲り続けた相手の顔は――しっかり覚えている。
「イーサーに、こっぴどくやられたはずなんだが……」
ザムルーズを打ちのめした相手は、まさに警告を促すつもりだった皇帝イーサー当人だった。
城で気を失ったと考えれば、捕らえられていたのはおそらく城の地下牢だろう。手足を動かせないまま、全身に至るところを何度も殴られ、蹴られ、踏みつけられ……いつの間にか、気を失ってしまったようだ。
しかし、いまザムルーズが目を覚ました部屋は、薄暗い地下牢ではなかった。小綺麗で、明るく、背に当たる感触は柔らかく……そして、訪れた記憶もない。
手足の枷はすでに外されていて、絨毯の上に寝かされている。
頭の痛みで起き上がれそうもない。ザムルーズは仰向いたまま手で腰の剣を探る。牢にいた時は確かに腰に携わったままだった気はするが、今は鞘しかない。
ザムルーズはため息をついた。
息が熱い。いや、息だけでなく、全身が異様に熱っぽい。
けだるくはあるが、病の類とは違った感じだ。
そして……頭の痛みはあれど、あれだけ殴られたはずの体に痛みはなかった。
……夢でも見ていたのか?
動かせる手で唇をなぞる。
口に広がった血の味は覚えている。ただ、触れた指の先に血はつかない。その手首も縛られた痕すらない。
しかし、袖には血の染みがこびりついていた。
やはり、殴られた記憶は幻ではない。
「一体、どうなってるんだ……?」
ザムルーズは誰もいない部屋でひとり首を傾げる。
「お目覚めかな?」
その耳に、聞くのすら腹立たしい声が飛び込んだ。
「イーサー!」
怒りに任せて叫ぶと、声の振動でこめかみに突き刺すような痛みが走る。
ザムルーズは歯を食いしばりながら、上体を起こした。
いつの間にか扉の代わりに、イーサーが悠然と立ちはだかっている。その後ろからすっとイーサーの隣に現れた人影は……見覚えがあった。
いや、見覚えはない。
ただ、よく知っている女だった。
「……なぜ……?」
イーサーの隣に立ったのは……エミーナだった。
ザムルーズは目を疑う。
愛しい婚約者を見間違えるはずがない。
しかし、そこに立つ彼女は凍てつくような青い髪と、青い瞳を纏っていた。
燃えるような赤い髪は、慈愛で満ち溢れていた温かな眼差しは、跡形もない。
青々とした瞳でザムルーズを見下ろしながら、婚約の証に贈った指輪が光る手をイーサーの腕に絡めた。
もう痛みなど忘れ、ザムルーズは勢いよく立ち上がる。
「おはよう、ザムルーズ」
エミーナの柔らかな表情は、夜月国を訪れるたびに見たのと同じようで……どこかよそよそしい。
なぜそんなに落ち着いているのか。
なぜイーサーの隣に立つのか。
その髪の色はどうした。
いいや、それより……
「エミーナ……なんで、ここにいるんだ……?」
「私、イーサーと結婚するの」
「は?」
ザムルーズは面食らうしかない。ぽかんと開いた口は、現実が飲み込めない。
立ちすくむザムルーズに見せつけるように、エミーナはイーサーの腕にしなだれかかった。
「おい……悪い冗談はよせ……」
見たくないのに目が逸れてくれない。
悪夢じゃないなら冗談か。
いや、冗談にしては酷い……冗談であってくれ。
「冗談じゃないわ。本当よ」
そんなザムルーズの思いをエミーナが一笑した。
「何言ってんだ……」
エミーナにプロポーズしたのは俺だ。聖女の任期を終えたら結婚しようと。エミーナもそれを受け入れた……はずだ。
なのに今、目の前にいる婚約者は、彼女がプロポーズを断り続けた不審な男と結ばれるという。もう、なにがなんだかよくわからない。
「ザムルーズったら、イーサーにあっさりと捕まっちゃったじゃない。私、頭しか使えない弱い男より、強い男がいいの。強さこそ、夜月国を繁栄させるのに必要だと思わない?」
聞けば聞くほど、本当にエミーナなのかを疑ってしまう。
弱いと言われるのは心外だが、確かにエミーナの前で腕の話はしたことがない。いや、その前に……エミーナの口から「夜月国の繁栄」などという言葉を、今まで聞いたことがなかった。
むしろ、大聖堂に押し込められていたエミーナは、自国の話を一切しなかった。夜月国の在り方に対し、強い憤りがあるのでは、とすら感じていた。
目の前にいるのは、本当に自分の愛した婚約者なのだろうか。そう疑ってしまうほど、ザムルーズの知るエミーナの面影はなかった。
しかし、青い髪を揺らし妖艶にほくそ笑む女性は、見間違うはずのない魂の輝きを放っている。
この女は、エミーナの顔をしただけの、誰かだ。
噛み合わない記憶と現実が、背筋をぞわぞわと這い上がった。
ザムルーズの口から、もう言葉はでない。
「だから、あなたとの婚約はなし!」
エミーナは、呆然とするザムルーズに追い打ちをかける。
「強いイーサーの方が、私に相応しいわ」
何か言いたい、言わなくては……と、口は開く。
「……それで、いいのか? お前は……そんなものに拘る女……じゃないだろ……?」
絞り出せたのは、ザムルーズ自身も驚くほど情けない声だった。
「どんな女に見えていたかは知らないけど、勝手に勘違いしてたのはザムルーズでしょ?」
エミーナは呆れてぼやいたのと同時に、何かをザムルーズに投げつける。
金縛りのように動かないザムルーズの胸に、固い小さな塊が当たり……そのまま絨毯の上に落ちた。
「もういらない、返すわ」
ザムルーズが落ちた塊に目を向ける。投げつけられ床に転がるのは、エミーナに送った婚約指輪だった。
絨毯の上に落ちた指輪の赤い石を、じっと見つめる。
部屋ごと押し潰しそうな沈黙のあと……ザムルーズはゆっくり指輪を拾い上げた。
……今、自分はどんな顔をしているのだろう。
そんなこと、もう、どうでもいいや。
ザムルーズは顔を上げる。目が合ったエミーナは、一瞬たじろいだようにも見えた。きっと、気のせいだ。
エミーナは慌ててザムルーズから顔を逸らし、イーサーの腕を引っ張る。部屋を出られるように扉の前を空けると、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「もう顔も見たくない! 早く出てって!」
ザムルーズは言われたとおりに扉へ向かう。
もう、何も考えられない。投げ返された指輪で、自分たちの関係が絶たれたことだけは理解できた。
このまま行ってしまってもいいのかを考える余裕すらない。ただこれ以上、目の前で腕を絡ませ体を寄せ合う二人を見ていたくなかった。
ザムルーズはふらり、ふらりと足を動かし、エミーナの脇を通り抜ける。
「……さようなら、ザムルーズ」
すれ違いざまに聞こえた別れの言葉は、震えていた。
その声に振り返ることなく、ザムルーズは部屋を出ていった。




