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君に深紅の花束を  作者: 小川 綾
■第四章
45/63

第零節 おとずれるはじまり

 時は創造歴999年。

 時節は生を眠らす、衡神タルダディールの節、中月の三十日目。




「……く……」


 ……嗅ぎなれた、花の香りが鼻を掠める。

 差し込んだ陽の眩しさで、ザムルーズは目を覚ました。

「ここは……?」

 まだぼんやりとした眼で辺りを見渡す。赤い絨毯に大きな窓、石造りの天井、重厚感のある木製の扉……どれも全く見覚えがない。


 ザムルーズは知らない景色に戸惑いながら、体を起こそうとして……動かした頭に鋭い痛みが走った。あまりの痛さに、また頭を床に投げ出す。

 唐突に、意識が途切れる前に見た光景を思いだす。


「……あれ? おれ?」


 頭が上手く回らない。体も、妙に火照っている。

 ひとまず仰向けに寝転んだまま、ザムルーズは記憶の断片をなぞるように、手首、胸、顔と触った。

「……傷がない? なぜだ……?」



 ザムルーズは不穏な動きをみせるイーサーを咎めるため、単身で帝国を訪れた。謁見室の扉を開けた瞬間、後ろからの衝撃を受け……意識が途切れた。

 次に目覚めた記憶はある。

 どこかは分からないが、薄暗い牢だ。肌で感じた湿り気や音の響き方からすると、おそらく地下だろう。手足を枷で繋がれたまま、何度も殴られた。剣ではなく、木の棒で。

 殺す気はないというように、笑いながら嬲り続けた相手の顔は――しっかり覚えている。

「イーサーに、こっぴどくやられたはずなんだが……」


 ザムルーズを打ちのめした相手は、まさに警告を促すつもりだった皇帝イーサー当人だった。

 城で気を失ったと考えれば、捕らえられていたのはおそらく城の地下牢だろう。手足を動かせないまま、全身に至るところを何度も殴られ、蹴られ、踏みつけられ……いつの間にか、気を失ってしまったようだ。



 しかし、いまザムルーズが目を覚ました部屋は、薄暗い地下牢ではなかった。小綺麗で、明るく、背に当たる感触は柔らかく……そして、訪れた記憶もない。

 手足の枷はすでに外されていて、絨毯の上に寝かされている。


 頭の痛みで起き上がれそうもない。ザムルーズは仰向いたまま手で腰の剣を探る。牢にいた時は確かに腰に携わったままだった気はするが、今は鞘しかない。

 ザムルーズはため息をついた。

 息が熱い。いや、息だけでなく、全身が異様に熱っぽい。

 けだるくはあるが、病の類とは違った感じだ。


 そして……頭の痛みはあれど、あれだけ殴られたはずの体に痛みはなかった。


 ……夢でも見ていたのか?


 動かせる手で唇をなぞる。

 口に広がった血の味は覚えている。ただ、触れた指の先に血はつかない。その手首も縛られた痕すらない。

 しかし、袖には血の染みがこびりついていた。


 やはり、殴られた記憶は幻ではない。

「一体、どうなってるんだ……?」


 ザムルーズは誰もいない部屋でひとり首を傾げる。

「お目覚めかな?」

 その耳に、聞くのすら腹立たしい声が飛び込んだ。

「イーサー!」

 怒りに任せて叫ぶと、声の振動でこめかみに突き刺すような痛みが走る。

 ザムルーズは歯を食いしばりながら、上体を起こした。


 いつの間にか扉の代わりに、イーサーが悠然と立ちはだかっている。その後ろからすっとイーサーの隣に現れた人影は……見覚えがあった。

 いや、見覚えはない。

 ただ、よく知っている女だった。


「……なぜ……?」


 イーサーの隣に立ったのは……エミーナだった。



 ザムルーズは目を疑う。

 愛しい婚約者を見間違えるはずがない。

 しかし、そこに立つ彼女は凍てつくような青い髪と、青い瞳を纏っていた。

 燃えるような赤い髪は、慈愛で満ち溢れていた温かな眼差しは、跡形もない。

 青々とした瞳でザムルーズを見下ろしながら、婚約の証に贈った指輪が光る手をイーサーの腕に絡めた。


 もう痛みなど忘れ、ザムルーズは勢いよく立ち上がる。


「おはよう、ザムルーズ」

 エミーナの柔らかな表情は、夜月国を訪れるたびに見たのと同じようで……どこかよそよそしい。

 なぜそんなに落ち着いているのか。

 なぜイーサーの隣に立つのか。

 その髪の色はどうした。

 いいや、それより……


「エミーナ……なんで、ここにいるんだ……?」

「私、イーサーと結婚するの」

「は?」

 ザムルーズは面食らうしかない。ぽかんと開いた口は、現実が飲み込めない。

 立ちすくむザムルーズに見せつけるように、エミーナはイーサーの腕にしなだれかかった。


「おい……悪い冗談はよせ……」

 見たくないのに目が逸れてくれない。

 悪夢じゃないなら冗談か。

 いや、冗談にしては酷い……冗談であってくれ。


「冗談じゃないわ。本当よ」

 そんなザムルーズの思いをエミーナが一笑した。

「何言ってんだ……」

 エミーナにプロポーズしたのは俺だ。聖女の任期を終えたら結婚しようと。エミーナもそれを受け入れた……はずだ。


 なのに今、目の前にいる婚約者は、彼女がプロポーズを断り続けた不審な男と結ばれるという。もう、なにがなんだかよくわからない。


「ザムルーズったら、イーサーにあっさりと捕まっちゃったじゃない。私、頭しか使えない弱い男より、強い男がいいの。強さこそ、夜月国を繁栄させるのに必要だと思わない?」


 聞けば聞くほど、本当にエミーナなのかを疑ってしまう。

 弱いと言われるのは心外だが、確かにエミーナの前で腕の話はしたことがない。いや、その前に……エミーナの口から「夜月国の繁栄」などという言葉を、今まで聞いたことがなかった。

 むしろ、大聖堂に押し込められていたエミーナは、自国の話を一切しなかった。夜月国の在り方に対し、強い憤りがあるのでは、とすら感じていた。


 目の前にいるのは、本当に自分の愛した婚約者なのだろうか。そう疑ってしまうほど、ザムルーズの知るエミーナの面影はなかった。


 しかし、青い髪を揺らし妖艶にほくそ笑む女性は、見間違うはずのない魂の輝きを放っている。


 この女は、エミーナの顔をしただけの、誰かだ。

 噛み合わない記憶と現実が、背筋をぞわぞわと這い上がった。


 ザムルーズの口から、もう言葉はでない。


「だから、あなたとの婚約はなし!」

 エミーナは、呆然とするザムルーズに追い打ちをかける。

「強いイーサーの方が、私に相応しいわ」


 何か言いたい、言わなくては……と、口は開く。

「……それで、いいのか? お前は……そんなものに拘る女……じゃないだろ……?」

 絞り出せたのは、ザムルーズ自身も驚くほど情けない声だった。


「どんな女に見えていたかは知らないけど、勝手に勘違いしてたのはザムルーズでしょ?」

 エミーナは呆れてぼやいたのと同時に、何かをザムルーズに投げつける。


 金縛りのように動かないザムルーズの胸に、固い小さな塊が当たり……そのまま絨毯の上に落ちた。

「もういらない、返すわ」

 ザムルーズが落ちた塊に目を向ける。投げつけられ床に転がるのは、エミーナに送った婚約指輪だった。


 絨毯の上に落ちた指輪の赤い石を、じっと見つめる。


 部屋ごと押し潰しそうな沈黙のあと……ザムルーズはゆっくり指輪を拾い上げた。


 ……今、自分はどんな顔をしているのだろう。

 そんなこと、もう、どうでもいいや。


 ザムルーズは顔を上げる。目が合ったエミーナは、一瞬たじろいだようにも見えた。きっと、気のせいだ。


 エミーナは慌ててザムルーズから顔を逸らし、イーサーの腕を引っ張る。部屋を出られるように扉の前を空けると、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。

「もう顔も見たくない! 早く出てって!」

 ザムルーズは言われたとおりに扉へ向かう。


 もう、何も考えられない。投げ返された指輪で、自分たちの関係が絶たれたことだけは理解できた。

 このまま行ってしまってもいいのかを考える余裕すらない。ただこれ以上、目の前で腕を絡ませ体を寄せ合う二人を見ていたくなかった。


 ザムルーズはふらり、ふらりと足を動かし、エミーナの脇を通り抜ける。


「……さようなら、ザムルーズ」

 すれ違いざまに聞こえた別れの言葉は、震えていた。



 その声に振り返ることなく、ザムルーズは部屋を出ていった。

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