第三十六節 日常を素通りして
アレクたちが取り留めのない話をしているうちに、木の扉が開いて聖女が出てきた。
続いてニーナが……出てくる気配はなく、聖女はそのまま壇上に上がり説教を始めた。
アレクは話に耳を傾けながら、隣に座るスカーレットにそっと意識を向ける。
スカーレットは背筋をぴんと伸ばし、信徒かと思うほど真剣に聖女の話を聞いていた。その隣で、うつらうつら船を漕ぎはじめたロディもついでに目に入る。
長くない話が終わり、聖女は入ってきた扉に戻っていった。それと入れ替わり、ニーナが神官を一人連れ扉から出てきた。
ニーナはすぐアレクたちに気づき、足早に近づく。
「お待たせしました。さて、どうしましょう?」
「とりあえず食事に行こうかって話してたんだ」
アレクの言葉を聞くなり、ニーナのお腹がきゅうと鳴った。
「いいですね、お腹空いてたんですよ」
ぽんぽんとお腹をさするニーナを微笑ましげに眺めながら、クレイグは足元に置いた荷物をぽんぽんと叩く。
「その前に荷物を置きたいのですが……ニーナが手配して下さった宿はどこなのですか?」
「あ、この大聖堂の裏にある客人用の離れです」
クレイグはぽかんと口を開けた。
何をそんなに驚くのかと、アレクも思わずニーナの言葉を振り返る。
この大聖堂は、城のない夜月国でそれに代わる国の象徴だ。客人用の離れは、昼日国で置き換えるなら城の客室に当たる。
今までそこに泊まった人たちを思い浮かべ……ようやくアレクも、ぎょっと目を見開いた。
「は? そこ、貴人や国賓を迎える場所じゃないか!?」
「アレクたちもそうじゃないですか」
「いやいや! よく見てみろ? 騎士と狩人……挙句に帝国兵の捕虜だぞ?」
「またまたそんなご謙遜を」
またもやニーナは事もなげに言う。
「もう女王様の許可も取りましたし。あの離れ、国賓なんてそうそう来ないので、ここ数年空きっぱなしなんです。女王様も『英雄様があそこを使ってくださるなんて……』って喜んで、二つ返事で許してくれましたよ」
それでも呆気にとられたままのアレクとクレイグはそのままにして、ニーナは床に置かれた荷物を軽く叩く。それを合図に、一緒に出てきた神官が荷台を押してきた。
「荷物は神官が預かります。離れの清掃が終わり次第、部屋に運んでおきますね」
ニーナが言い終えると、神官は問答無用で荷物を載せて去っていく。
荷物の重みで車輪が軋み、寝こけていたロディがはっと目を覚ました。
「お。遅かったな! 飯いこう飯!」
****
大聖堂を出た五人は、ニーナがよく行くという近くの食事処へと向かう。
店の前でお品書きとにらめっこしていたロディが、「んー」と首を傾けた。
「肉がねぇな」
「このサンドイッチなら鳥の肉が挟んでますよ」
「ひと口じゃん。足りねぇよ」
「夜月国は獣を狩る人も養畜の技術もないので、獣肉は希少品なんです。お魚だってれっきとしたお肉ですからね!」
不満を垂れるロディに対抗してニーナも口を尖らせる。
「食べたことのない野菜の品が沢山ありますね」
クレイグが宥めるように品書きの豊富さを褒めるが、かえってニーナの口がむすっと曲がった。
「刈る人がいなくても草木は勝手に伸びますから」
他の食事処も覗いてみたが、供される品はさして変わらない。結局ニーナ行きつけの店に決め、ロディは魚の丸焼きを、アレクとクレイグは鳥肉と野菜のサンドイッチを頼んだ。
スカーレットは……勝手が分からず、先ほどから首を縦に振るだけの人形と化している。ニーナの勧めたものにひたすら頷いて、果物のパンケーキに決まってしまった。
五人の注文がテーブルを埋め、それぞれひと口つけたあたりでアレクがみんなの顔に目を配る。
「さて、せっかくだし街を見て回りたいんだけど、皆は寄りたいところあるか?」
「私は消耗品を買い足したいです。ザフィーラで頂いた分も結構消費しましたし」
予め決めていたのか、クレイグは次のひと口を食む前に希望を告げた。それを聞いたアレクがはっとなる。
「そういえば、皮紙ってもうなかったっけ?」
「先日、文に使った分が最後ですよ」
「じゃあ、まずは商店か……」
一つ目の行き先が決まり、サンドイッチをひと口かじったアレクは……スカーレットの上身に意識を向ける。
「あと、スカーレットのその服は買い換えた方がいいな」
スカーレットはぴたりと手を止めて、自分の出で立ちに目をやった。身につけている上着もズボンも、帝国軍から支給されたものだ。
「そうだな、これでは悪目立ちするか」
「着替えもいるだろうし、商店の次は服屋だな」
着々と進む話し合いを横目に、ロディが早くも手元の皿を空にした。水の入ったコップに手を伸ばしながら、自分の鞄の中を覗く。
「俺はナックルを手入れに出してぇな。武器屋ってあんのか?」
そう言って水を一気に飲み下したあと、ニーナに視線を投げかけた。ニーナは口をもぐもぐさせながら頷く。
「一軒ありますよ。普段は包丁研いだりしかしてないはずなので、腕は保証できませんけど」
「そりゃ困った。まぁ、磨くだけでもしてもらうか、悩むな」
気乗りの薄くなったロディの一言に、
「あ、俺も穂先を研いでもらいたいな」
「私も剣の握りを巻き直して欲しいですね」
「……あの、すまない、私の剣もお願いしたい……」
機を逃すまいと、武器を扱う全員が乗っかかった。
一瞬、咀嚼音だけになったテーブルをそっと見回し……クレイグがため息をつく。
「全員で全員の行きたい所を巡っていたら、日が暮れそうですね」
アレクは最後のひと口を飲み込み、よしと頷いた。
「それなら二手に分かれるか。武器の整備には時間がかかるから武器屋はロディに任せて、その間に俺とクレイグとスカーレットで買い出しにいこう」
分かりましたと言いかけて、クレイグは布巾でのんびり口を拭うニーナに目を向ける。
「ニーナはどうしますか?」
「私はロディについて行きますよ。一人だと持つの大変そうですし」
「家とか、帰んなくていいのか?」
珍しくロディが気を回す。
……兄はわざとニーナの名を挙げなかった。それは故郷に戻ったニーナが自由に動けるよう、配慮したのだと察したからだ。
ニーナは布巾を置くと、遠慮がちに微笑んだ。
「独り身ですから帰ってもすることないですし。ロディも全員の武器、一人で持つのは大変でしょ?」
「ふーん、そっか。じゃあ頼むかな」
食事処を出たところで、ロディがそれぞれの武器を預かる。一度携えてみたいというので、アレクはニーナに槍を手渡した……が、さして重くないのに長い槍の穂先があちこち揺れて、なんとも危なっかしい。結局、一番軽いスカーレットの剣をニーナが引き受け、槍とクレイグの剣はロディが持った。
剣を抱え込みながらニーナは空の様子をうかがう。夜月国は昼が短い。薄もやをまとった陽は、高いところからすでに地平線を目掛けて傾いていた。
大聖堂から鐘の音が鳴り響く。
「待ち合わせは大聖堂がいいですか?」
その音を振り返りながら、クレイグが誰に聞くでもなく問う。ニーナはちらりと大聖堂を見て、耳の近くで漂う鐘の音をなんとなく指さした。
「そうですね。今鳴っているのが正午の鐘で、三時になるとまた同じ鐘が鳴ります。それが聞こえたら、大聖堂の正面に戻ってきてくださいね」
それぞれ頷きあい、目的のために動き出した。
****
武器屋は食事処からほど近いところにあった。ロディが武器を預けて仕上がりの時間を尋ねると、次の鐘の音が鳴ったら来いと言う。
これといって他に用事のないロディは、ニーナの案内でぶらりと街を見て回ることにした。
薄曇りでも空は明るい。まんべんなく広がる昼の光が、白壁の街並みを一層浮き立たせた。国花に指定されているだけあり、至るところに飾られたラジアータが目に留まる。赤い花が天地に広がる白と相まって、なんとも鮮やかで美しい。
「平和だなぁ」
ロディは街の様子をのんびり眺めながら歩みを進めた。
「ほんと。世界の危機まで忘れちゃいそうですねぇ」
ニーナも慣れ親しんだ故郷の雰囲気に、頬を緩めている。
いま二人が歩く大きな通りの道沿いには、武器屋をはじめとした多くの商店が軒を連ねる。その賑わいは先日の国境都市を思い起こさせた。
だが、店先に並ぶのは娯楽的なものではなく、果物や野菜、花にお守りがほとんどだ。呼び込みもおっとりして柔らかで、ザフィーラとはまた違った趣がある。
道を行き交う人は観光客だけでなく、白い法衣の女性も多い。それでも楽しそうな笑い声があちこちで響くのは、ザフィーラと変わらない。
珍しい果物を味見したり、お守りの露店を冷やかしたり……気になるものは大体見尽くし、二人は街の盛況を肌で感じながら取り留めなく会話を重ねる。
「ニーナは親兄弟いないのか?」
「ええ、私は孤児なんです。身分上必要で、一応、養子に入ってますが、特に交流はありません」
「ふーん、寂しくないのか?」
「全然。一人が気楽で好きですね」
「でもさ、聖女やめたら色々困ったりしねぇの?」
「困る? うーん……まぁ、困ります、かね……?」
ニーナが苦笑いでお茶を濁した。
「聖女の任期があけたら、お見合いの嵐になりそうなんですよね。聖力の高い聖女を輩出するのは家門の名誉ですから、地位が欲しい家は少しでも聖力の高い嫁を迎えたいのですよ。序列持ちが退職したら……もう争奪戦です……」
ため息混じりに聞こえた「お見合い」という響きに、ロディは小さくぎくっとなった。
自分には縁遠い言葉だ。ニーナには――もっと遠いことだと思い込んでいた。
「じゃ、じゃあさ。ニーナも結婚、すんのか?」
「戦が始まる前に逃げます」
そう言いきると、ニーナは勇ましく眉を吊り上げる。逃げ切る意気込みがよく伝わって、ロディは思わずははっと笑いを漏らした。
笑いながら……ロディは街の様子に目を向ける。
街はいたって平穏だ。暮らしが安定しているからか、街を行く人の表情は一様におおらかで明るい。肉が少ないとはいえ、様々な食材が並ぶ店先は、食いっぱぐれるなど想像できない豊かさがある。
ロディはもう一度、ニーナの横顔をそっと探った。
強ばっていた顔はすでに緩やかな笑みを浮かべ、街の活気を眺めている。
それはいつもと同じに見えて、違う。飾らない、柔らかな笑顔。
ロディの心臓がどきん、と跳ねた。
勘違いするな、これは見慣れない表情のせいだ、と慌てて胸の内で言い訳をしながら、気づく。
――そりゃそうか、旅の間は安心できる場所なんてなかったもんな。
夜月国なら、肩の力も緩むのか……ロディはニーナの穏やかな笑顔を、食い入るように見つめた。
「ニーナ」
ロディが急に立ち止まる。
「どうしました?」
同じように足を止め不思議そうに覗き込んだニーナを、ロディは正面から見据えた。
「お前は夜月国に残れ」
突然の発言に、ニーナが目を丸くする。
「え……改めてお願いしますと言ったのついさっきですよ? それに、ロディも受け入れましたよね?」
「来て欲しいのも本心だ」
「なら……」
ニーナは茶化すようにへらっと笑いかけるが、ロディは表情を崩さない。
真剣なロディにニーナも笑みを消した。
「理由を教えてください」
理由なんて簡単だ。でも、真正面から構えると何も言えなくなりそうで……ロディはふいと視線を遠くに逃がす。目の端に、ニーナに視線を向ける白い法衣の集団が入った。
「夜月国は平和だ。そして、お前はここに居場所も、将来も、ある」
その熱っぽく潤む瞳たちも今は心地悪く、ロディは目に映る全てを瞼で遮る。そうすると、浮かんでくるのは……これまでの自分。
「もちろん、俺にも帰れる場所はあるさ。でも、そこに居るためには戦わなきゃなんねぇ。戦わねぇと、居場所どころか生きる権利すら得られねぇんだ。俺も、兄貴も、クレイグも、スカーレットだって、そうだろ」
――戦うのは獣だけじゃない。
ロディは忌み嫌われた出生と、アレクは英雄の魂の責苦と、クレイグは親の威光と、スカーレットは飢えと。生まれ持った境遇は否応なく争いを産み、生きる道を戦場に変え続ける。
「まぁ、俺たちは茨の道をいくのにもう慣れちまった。今さら抜け出せるとも思わねぇし」
ロディは呆れたように自分を鼻でせせら笑う。
生きるために足掻いてきた年月の積み重ねで、流石に自分も強くなった。この先も戦い続けるのにためらいはないが、改めて人生を振り返るとなかなかの悪路だ。
「でも、ニーナはそうじゃねぇだろ?」
冷めた笑いをふっと捨てて、ロディはニーナをまっすぐに見つめた。
「こっから先は、心も体も傷つかねぇで進むなんて無理だ。俺たちがニーナを守り切れる保証もねぇ。お前はわざわざ険しい道を選ばなくてもいい、平穏に生きていけんだよ。だから、」
「ロディ」
凛と透き通った声が、言葉の続きを遮った。
さぁっと柔らかい風が通り過ぎ、街の喧騒を連れていく。沈黙が、街から二人を切り離した。
「私の身を心配してくださっているのは伝わりました。ありがとうございます」
ロディの真剣な眼差しを受け入れるように。ニーナはふんわり微笑む。
「ロディからすれば、私は恵まれて育ったお嬢様にみえるのでしょう。まぁ、それは否定できませんね」
ニーナの目がロディの腕に刻まれた古傷を静かに追い、きゅっと引き締まった。
「でも、私だってこの世界で唯一無二の力を持つ身です。この力を使えば自分の大切なものを守れる。なら、望んで茨の道を進みましょう」
見つめ返す青い瞳は揺るぎない光を放つ。負けじとロディの目元も鋭さを増した。
「ニーナの大事なもんが何かは知らねぇけどさ、それは俺たちが引き受けるよ。ニーナが傷ついてまでやるこっちゃねぇ。俺たちじゃ、信用ならねぇか?」
真摯に訴える黄土色の瞳がわずかだけ震える。それは多分、ニーナの強さを痛感するがゆえの恐れ、なのだろう。
「そうじゃないです」
ロディの眼差しから優しさと迷いをひしひしと感じながら、ニーナは首を左右に滑らせた。
「私の一番大切なもの。それは、私の傷まで背負おうとするあなたたち、なんですよ」
ロディが戸惑いで顔を曇らせても、ニーナの瞳は逸れない。
「私に戦う力はありません。でも、戦いで傷つくロディたちを癒す力がある。それなら最後まで隣に立って守り通したい。それが私にとって、魂を懸ける価値があることなんです」
そう言って瞼を閉じると――すぐ上目遣いでロディを見上げ、いたずらっぽく口を尖らせた。
「……私では、信用なりませんか?」
投げかけられたその問いかけに、ロディは答えない。
信用なんて、もうこれ以上はないくらい互いにあるのだ。
二人は言葉にするのをやめ、譲れない思いを瞳の輝きに込めてぶつけ合う。
先に目を逸らしたのは――ロディだった。
「勝てねぇな」と舌打ちのように口の中でこもらせる。聞き取れなかったニーナが目をしばたたかせるが、ロディは見ないようにしてがしがし頭をかいた。
「この話はいったん止め、だ」
ちょうど大聖堂から鐘の音が聞こえる。街の賑やかさが、また二人を包んだ。
「そろそろ仕上がってるかな、戻るか」
****
武器屋に戻って整備の終わった武器を受け取る。軽く仕上がりを確かめていると、武器屋の主人から「ご武運を」とラジアータを一輪、渡された。
飛火のような花弁を広げる、赤い花――昼日国生まれのロディにとっては、供花の印象が拭えない。でも、夜月国では聖女を象徴する花として親しまれていると、前にニーナが語っていた。
きっと前向きな意味を持つんだろうと、ロディはラジアータをニーナに差し出す。
「やるよ」
ニーナの目が、この旅の中で一番大きく開いた。
「どうした?」
「え、っと……ロディはこの花を渡す意味、知ってます?」
「知らねぇよ。どんな意味なんだ?」
ニーナはきょとんとするロディを吹き飛ばす勢いでため息をつく。
「聞いた私がばかでした。ありがたくいただきます」
ニーナはラジアータを髪に飾ろうとして……ふとためらい、そっと法衣の内側に忍ばせた。
二人は来た時と同じように武器を抱え、のんびり大聖堂へと向かう。
「そういやお前さ、聖女辞めたら逃げたいんだろ? アテあんのか?」
「まだ何も考えてないんですよねー」
気の抜けた声をあははとこぼしたニーナを見ながら、ロディはぼんやり考える。
ニーナと一緒に過ごす時間は、やり合っていても戦っていても、とにかく楽しい。他の誰と居ても感じたことがないくらいに。
聖女と思えないほどあっけらかんとして朗らかで、どうしようもなく心が強い。困難の中だろうが悲しみの中だろうが、彼女の覚悟は微塵も揺らがなかった。「何があっても守る」と誓う隙すらない。
それでも、俺が守ってやりたい――この先もずっと、目の前の笑顔と一緒に並んでいたい。
「ならさ」
その考えは、さっきと違って驚くほどすんなりとロディの口からこぼれた。
「昼日国に来いよ」
ニーナは先ほど差し出されたラジアータを見た時より大きく目を見開く。
「え、と。私、その時はもう聖法使えませんよ?」
「別に構わねぇさ。お前一人くらい面倒みてやるよ」
いつもの嫌味もなく、素直に受け入れられたのがくすぐったくて……ニーナは火照った頬を空に晒した。夜月国の昼は短く、黄昏はもう白む空の向こうに控えている。
「……素敵なお誘いですね」
弾む足を一歩、二歩、三歩と進め、ロディの前に躍り出ると……ぴたりと止まった。
「ロディ」
白い法衣の背を向けたまま、ニーナが呼びかける。
「ん?」
その呼び掛けでロディも足を止めた。
「この旅が終わっても、その気持ちが変わらなかったら……もう一度、私を誘ってくれますか?」
振り向かずに呟いたニーナがどんな顔をしているかは分からない。ただ、どんな顔をしていようがロディの答えも変わらない。
「ああ。何度でも誘ってやるよ」
「……ありがとうございます。返事は、その時に」
ニーナは背中でぽつりと答えた。