第三十五節 夜月国を統べる聖女
開いた扉から、湿った紙の匂いとインクの匂いがつんと鼻を突く。
赤の分厚い絨毯にそっと足を乗せた。壁一面にびっしり並んだ無数の本の背が、視界を圧迫する。
正面にある大きな机の上は、書類の山がそびえるだけで誰もいない。案内してくれた三人の法衣もそそくさと退出してしまった。
高い天井にある大きな照明が、部屋の隅々まで照らそうと輝く。しかし背表紙の暗色は、受けた光を呑み込んで吐き出さない。
ロディは兄とニーナだけなのをいいことに大きなあくびをして、室内をきょろきょろと見回す。
「ここが謁見室か? なんか……思ってたんと違ぇな」
昼日国の謁見室を思い浮かべていたロディはそう口にして、ふと既視感を覚えた。
――そういえば、兄に連れられて入ったリアムの仕事場はここに似ている。
書類で埋め尽くされたあの部屋は何て言うんだっけ……とロディが思い出す前に、
「ふふっ、ここは執務室ですよ」
と、本棚のふりをして壁に紛れていた奥の扉が開き、一人の女性が現れた。
夜月国に入ってから、ラジアータをたくさん目にした。それと同じ赤の髪が、頭の丸みに沿って顎まで短く流れる。金と赤の刺繍が施された白の法衣は、首都にいた誰よりも気品と威厳を感じさせた。
街で通りすがった聖女たちが振りまいていた若々しさと違い、場に立つだけで成熟した落ち着きを醸す。
この女性が誰なのか……聞かずとも察しがついた。
女性は部屋の中央に置かれた机の前まで歩み寄り、アレクたちと向き合う。
髪と同じ温かな色の瞳で、にこりと笑いかけた。
「本来謁見は本堂で行なうのですが、人目がありますのでこちらにお呼びしました」
ニーナが一歩前に出て、すっと頭を下げた。
「第四位、ただいま戻りました」
「ええ、長旅ご苦労さま」
薄汚れた法衣に身を包む姿が変わりないのを見て確かめると、その目をアレクとロディに向ける。
「客人とは、彼らですね」
「はい、こちらが……」
「昼日国の英雄様と、その弟様とお見受けいたします。ようこそ夜月国へ」
ニーナが続けようとした言葉を横取り、女性はそのまま挨拶へと繋げた。
「なぜそれを……」
目を見開くアレクに女性がくすりと笑う。
「訳知りなのはご容赦ください。洗礼を行った王族の事情は、先代より引き継ぐ決まりなのです。まぁそうでなくても、魂が見える者にはひと目でわかりますけどね」
そう告げると、煌びやかな法衣をひらりとはためかせ、中に着ていたくるぶしまである白いドレスの裾をふわりと持ち上げる。
そうして、羽が舞い落ちるように、静かに腰を折った。
「申し遅れました。私はこの夜月国サンチェスをまとめております大聖女のノエルと申します」
優雅かつ洗礼された振る舞いに見とれていたアレクは、はっとして肩に力を入れる。この場ではアレクとロディの一挙一動が昼日国の顔となるのだ。無様な姿は晒せない。
アレクは努めて緩やかに握った拳を、ぴたりと胸に当てた。剣のように背筋を伸ばし、一寸の歪みなくノエルに向けて倒す。
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。私は昼日国前王の第一子、アレクサンダーでございます」
ロディは礼をするアレクを見て、ノエルを見て、また兄を見て……赤い制服の肩をとんとんと叩いた。
「なぁなぁ、俺ってどう名乗ったらいい?」
アレクは不穏当すぎる弟を睨み、その頭をがしっと掴んでは力づくでノエルの方に向ける。
「……で、こちらが第二子、ロデリックにございます」
ロディに代わって名乗ると、掴んだままの頭を思いっきり下に押し込んだ。
ノエルはくすくす笑いながら身を翻し、机と対に据えてある椅子に腰掛ける。書類の山がノエルの両肩を隠すが、その隙間からのぞく手元と表情は際立って目に入った。
「此度の事情はリアム様よりいただいた文を読み、大まかには把握しております」
ノエルは手元にあった数枚の紙を持ち上げ、文面に視線を走らせる。紙にかかる指の隙間から、金獅子を模した国章がちらりとみえた。
「夜月国も帝国の動きには気づいておりました。とはいえ昼日国と違い、直接帝国を探るような機関を持ちません」
ふぅとため息をこぼし、手にした紙をまた机に戻す。
もう手元には気を向けず、ノエルは壁一面の本たちをぐるりと視界に納めた。
「その代わり、夜月国には建国より伝わる膨大な史料や文献が残されています。それらを元に、学者の方々が研究したミレニアムの夜明けや魔力についての論文も。私どもはそれらから帝国が封印の間で何をしようとしているのか、防ぐ方法はないのかと調べを進めておりました」
背表紙の並びをゆっくりなぞっていた赤の瞳が、不意にアレクとロディをまっすぐ捉える。
「私も文に綴られていたリアム様と同じ思いです。国を担う者として、帝国の悪行は看過できるものではありません。とはいえ、魔力どころか武力に対抗する力も持たない私どもにできるのは、慈神の恩恵の一部をお貸しすることと、史料から得た情報を共有する程度。その思いあって、ニーナを遣わしました」
そこまで言うと、ノエルは英雄たちに向けてまたにこりと微笑みかけた。
「さて、魔力の見える聖女をご所望でしたのでニーナを送り出しましたが、本来国外に出すには恥ずかしいくらい落ち着きのない子で……突拍子もないことを言いだして、英雄様たちを困らせてはいませんでしたか?」
気の毒になるくらい、ニーナはノエルの言葉通りだ。
誤魔化してやるべきかと悩むアレクとロディをじっと見つめる、燃えるような赤い瞳。それは偽りを容易く炙り出しそうな強い視線で――
「いえ、そんなことなかったです」
ロディはふいと目を逸らした。
「……聖法もさることながら、ご自分の意志を貫く強い心をお持ちで、助力どころか旅の要でございました」
アレクも視線を交わすまいと頭を下げる。
口は平然と取り繕えど、二人の仕草が真実を知るに充分だったようで……ノエルは笑みを保ったまま、こめかみをひくつかせた。
「お気遣いありがとうございます。ニーナ、貴女の行動については、後でゆっくりと聞かせてもらいましょうか」
「……はぁい……」
「返事は『はい』です」
縮こまってしまったニーナを「まったくもう……」とさておいて、ノエルはまたアレクとロディに視線を戻す。
「さて、せっかくここに立ち寄っていただいたのですから、私どもが掴んでいる情報と、おそらく昼日国には伝わっていない史実をお伝えしたいと思います。きっとこの先、必ずお役に立つでしょう」
夜月国はどちらかといえば閉鎖的な国だ。
観光のために必要な広報以外の内情は、ほとんど開示しない。そんな夜月国の史料や独自で得た情報を供してくれるというのだ。
アレクは瞳を輝かせ礼を告げようとする。
「ですが、」
と、ノエルに遮られた。
「アレクサンダー様は誰を伴い、帝国へ行かれるおつもりですか? まさかおふたりだけ、ではないですよね?」
アレクはきょとんとノエルの表情をうかがう。柔らかな笑みから質問の意図は読み取れないが、答えは隠すことでもない。
「はい。昼日国から連れてきた……」
「で、その者たちはどこに?」
みなまでいい切る前にノエルが口を挟んだ。
「街で待たせております」
特に構えず返したアレクに、ノエルの瞳がきゅっと細まる。
「おそらくここから先は、ともに向かう者の力添えだけが頼りになるでしょう。英雄様が目的を成すためにも、夜月国が掴んでいる情報は帝国に向かう全員が知っておくべきだと考えます。命を預け合える者だけを連れ、改めて執務室に来ていただけますか」
鋭い視線とともに放たれた有無を言わさぬお願いは忠告と等しく、伝えるつもりのなかったアレクの打算に容赦なく釘を刺した。
「わかり……ました」
アレクは動揺で早まる鼓動を抑えつつ、なんとか返事を絞り出す。
この焦りの心当たりは、昨晩見方に引き込んだばかりの帝国兵だ。腕が立ち、従順には見える。
ただ、まだ背中を預けられる確証はない。それでもこれを逃せば、帝国内部を知る機会は失われるかもしれない。
腹を括って迎え入れるか、捨て置くか……それは今、アレクひとりで悩んでもしかたない。
後でロディ、クレイグ、ニーナと話し合わなければ……と考え、アレクはふと当たり前にニーナを連れていこうとしているのに気づいた。
ここに来るまでに受けた慈神の恩恵と、皆の欠けた部分を汲み取りその隙間を埋める存在感……どれをとっても、もうニーナ抜きなど考えられない。
しかし、ノエルはせっかく帰ってきたニーナを送り出すだろうかと、ふと不安になる。
この先は、英雄にすら苦言を呈すほど危険だと、ノエルは認識しているのだ。
「あの、ニーナは……」
降って湧いた別れの予感に、問おうとしたアレクの声がわずかに上ずった。唾を飲み込み、言葉を探す。
「いえ、第四位聖女様のこと、ですが……どうか、この先もお力添えをお許しいただけませんか……?」
言い終えると同時にアレクは頭を下げた。後ろで結わえた金髪がぴょんと垂れ下がり、うなじまであらわになる。
ノエルはそんな仰々しいお辞儀に「はて?」と首をひねった。そのついでに、縮こまったままのニーナに目を向ける。
「私はそのつもりでこの子を送り出したのですが……そうですね、当人の意志を尊重しましょう。ニーナ」
ニーナがびくっと肩を震わせ、顔を上げた。
「貴女はどうしたいですか?」
ノエルの問いに目をぱちぱちさせたが、すぐ口角をにっと吊り上げる。
「私の心は決まっています」
ニーナがアレクとロディに振り返った。
「アレクサンダー様、ロデリック様」
正しく名を呼ばれアレクは顔を上げる。
正面にいるニーナは、ここに来るまでの悲しみが染みついたワンピースの裾をうやうやしく持ち上げ、青い髪をふわりと前に垂らした。
「改めまして、夜月国第四位聖女ニーナ・クラークは自分の持てる力の全てを、この世界の未来のために戦う英雄様に捧げたく存じます。どうか、英雄様が望む未来まで、ともに歩ませていただけませんか?」
澄んだガラスを指で弾いたような声は、容易く耳に吸い込まれていく。
言い終えると、ニーナはワンピースから離した手をアレクに向かって差し出した。
アレクは間を置かず、ニーナの手を握り返す。
「もちろん、私たちからもお願いしたい。貴女のお力添え以上に心強いことはありません、感謝します」
満面の笑みで伝え、ひと振りした握手をほどく。
アレクはその手をぎゅっと丸めて、赤い騎士服の胸に当てた。
「このアレクサンダー・ウィルド・マルティネス、昼日国王であり英雄であるザムルーズの血と魂にかけて、必ずや人の手で紡ぐ未来を取り戻すと誓いましょう」
『ウィルド』……それは、今までアレクが名乗らなかった三つ目の名前。なりすましを防ぐため、洗礼を受けた貴人に与えられる魂の名だ。
決して表に出ないその名は、生涯傍に置くと決めた者だけに託す、最大の信頼の証だと……名を与える立場であるニーナは知っていた。
ニーナが驚いてアレクをみると、アレクが軽く目配せをする。それはいつもの口説き文句などよりずっと甘く、ニーナの心をときめかせた。
どきどきとうるさい胸の高鳴りを抑えながら、ニーナはロディに手を差し出す。
ロディは自分に伸ばされた白く小さな手をぐっと握り、何か言いたげに青い瞳をじっと覗き込んだ。
「どうしたんです?」
ロディがぱっとニーナの手を離す。
「多分、こうやって名乗るのは最初で最後だ。よく聞いとけ」
首をかしげるニーナに向け、らしからぬ硬い声でそう言うと……ふうっと息を吐き、ロディは兄を真似て固めた拳を胸に当てた。
「同じくロデリック・ティール・マルティネス。この血とこの魂が絶えない限り、世界に立ちはだかる闇を祓うと誓おう」
魂の責任だけを残し、なかったことにされた名前――それを自ら述べ、ロディはまっすぐニーナを見つめる。
黄土の瞳は昼日国の太陽のように力強く輝いて、ニーナを照らしていた。
英雄だけが背負える使命に連なるのを許されたと感じれば、ニーナの目頭にぐっと熱いものが込み上げる。それを気づかれないように、ニーナは深々と頭を下げた。
「お二人とも……ありがとうございます」
ノエルが椅子から立ち上がり、ぱぁんと手を打ち鳴らす。
「では、英雄様の再訪を心待ちにしております。準備が整ったら、いつでもニーナにお申し付けください」
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ニーナが少しノエルと話をしたいと言うので、アレクとロディは先に大聖堂の礼拝堂に戻ってきた。
木の扉をくぐれば、壇から近い長椅子に腰掛けているたクレイグがすぐアレクに気づく。
「おや、思いのほか早かったのですね」
「ああ。少し、時間が必要になった」
アレクは首を傾げるクレイグから、人ひとり分ほど離れて座るスカーレットを盗み見た。
スカーレットは、ぽかんと口を開けてステンドグラスを凝視している。
帝国へ渡るにあたり彼女の助けは得たいが、信頼を置けるかは別だ。悠長に構える暇はないと分かっている。
それでも、見極めるための時間と動因がわずかでも欲しい。
「なぁ、とりあえず飯食わねぇ?」
アレクの思考を遮るように、ロディが口を開いた。
「朝も食ってねぇじゃん。俺、腹減って腹減って」
「同意見だ」
ロディが腹をさするのを目で追いながら、スカーレットも自分のお腹にそっと手を置く。
「……そうだな。じっとしていては変わらないからな」
アレクは食の絆が生まれつつある二人の仕草をみて、くすりと笑った。