第二十五節 ザフィーラにて・後
赤茶けた倉庫が建ち並ぶ一帯に人気はない。
陽の光を遮るほど大きく高い建物に囲まれた薄暗い道では、キンと刃物がぶつかり合う音がよく響いた。
「おら!」
ザインが二の腕ほどの短剣を狂ったように振り回す。受け止めるのは、子供の背丈ほどあるバパスの大剣だ。
本来は両手で使うものなのだが、力の入らない左肩はかえって邪魔と右手だけで巧みに操る。重みで多少動きが鈍ろうとも、技術のない太刀筋を捌くには問題ない。
しかし……
「うっとおしぃんだよジジィ!」
「ぐっ!」
合わせる刃が、使えない左手を思わず添えてしまうほど――重い。
弾いた反動でもたついた大剣にザインは構えも型もなく短剣を叩きつけると、ただ力任せに押し下げた。
刃同士が重なり合いギッギッと嫌な音を立てる。
バパスはじわりと押された剣に体重を乗せながら、折れそうなほど細いザインの腕に目をやった。
「あんな腕で……なんて力だ。薬物のせいか?」
今日の彼はいつもと違う。
突然、人の多い通りで短剣を振りかざしたかと思えば……止めに来た自衛団の面々を殴り飛ばした。更にはバパスまで押されている始末である。
あのひ弱な男がどうやってこんな力を得たのかは分からないが、とにかく見くびっているとやられてしまう。
バパスは柄を強く握り直し、全力で大剣を振り切った。攻撃の受け流し方も知らないザインは後ろに飛ばされ尻もちをつく。
やはり戦い方は素人のままだ。それでも騎士のごとく短剣は離さない。
バパスは軽く息を吐き、切っ先を突きつけながらザインに近づく。地べたに尻をつけたまま憎らしげに見上げる目は、変わってないな……と昔を思い出させた。
ザインもこの街の生まれで、小さな頃から知っている。あまり肉がつかない体質なのか当時もひょろひょろで、体力も根性もなく何をやっても長続きしない。
ただ、自尊心は人一倍高かった。大人子供関係なく馬鹿にされてはつっかかり、ぼこぼこにされていたのをよく覚えている。
「小さい時は生意気なくらいがいい……など言いつつ、結局は正しく導いてやれなかった我々の責任か」
成長するにつれ、足りない力を補おうと良くないことばかり覚え……挙句の果てに、賑わう街中で暴れて多くの人を傷つけてしまった。
起こした事は彼の責任だが、起こすに至るきっかけを作ったのは――今まで彼をまともに諌めなかった周りの人間なのだろう。
「ならば、その責はわしが負おう!」
短剣を握りしめたまま、まだ立ち上がれずにいるザインに向け、バパスは大剣を振りかぶった。
****
魔力を辿ってきたアレクたちは入り組んだ倉庫の間を奥へ奥へと進んで、ようやくぴんと伸びる老いた背を見つけた。
四人はバパスの元に駆け寄る。
「バパスふ……さんっ!」
「おお、アレクか」
呼び声にバパスが振り向いた。
杖のように地面をつく大剣の先には血溜まりが広がり……その中心で、右手に短剣を握りしめたまま動かないザインの姿があった。
「騒ぎを聞きつけて来てくれたのかね?」
「はい……あの、彼は……?」
「渾身の一刀をくれてやったよ。確かめるまでもなかろう」
バパスはそっと首を横に振る。
……結局、彼の罪は自身の命をもって償わざるを得なかった。
「大丈夫、ですか?」
アレクは神妙な面持ちの老騎士を気遣う。バパスは血で汚れた大剣を背中の鞘に収め、ふっと笑った。
「これしき……まだ、そこまで衰えておらぬわ」
ザインの身体能力はピンスが驚き、バパスに全力を出させるほど……魔力の影響を受け強化されていたのだろう。
ただ、老騎士の一太刀で死出の旅へと送り出せたなら、幸いにも魔獣並みの生命力は得なかったようだ。
「へぇ、じぃさん強いんだな」
倒れたままのザインを見下ろしながら、ロディがいつもの調子で褒める。
「こ、こら! ロディ!」
「構わんよ」
無礼を慌てるアレクの隣で、豪快な笑い声が響いた。
「第一線からは退いたが、まだまだ現役じゃぞ!」
バパスはぐっと握った拳を目線に高々と掲げて……ふと心配そうにニーナを見る。
「しかし、こんな血なまぐさい場にお嬢さんを連れてきて大丈夫かね?」
確かに見目形は若年の女性でしかなく、彼女を知らなければ至極真っ当な疑問だ。
だが、アレクたちはここに来るまでで彼女がどういう女性かを、痛切に思い知らされている。
「彼女は問題ありません。夜月国からお招きした聖女様ですが……そこらの騎士より男前ですよ」
件の女性はどう考えても使いどころが違うその言葉が気に障ったらしく、眉をぴくりと上げた。
「アレク、それ、褒めてませんよね?」
「そんなことないさ、褒めてる褒めてる」
宿でぞんざいに扱われた恨みを晴らさんと、アレクはここぞとばかりににんまり目口を細めた。
そんな嫌みな笑いを浮かべたかつての部下に、「ほぅ」とバパスが目を丸くしている。
「見ないうちにそんな顔もするようになったか」
「へ?」
指摘されたアレクも驚いて、自分の顔をぺたぺたと触った。
騎士団にいた頃のアレクは、判で押したような笑顔しか見せなかった。まさか、自分でも気づいてなかったとは……そう分かれば、きょとんとする彼が少し滑稽であり、少しやり切れない。
バパスもアレクが英雄であると知っている。魂に課せられた使命があるといえ、周りも、自分も……それだけ彼に英雄としての顔を強いてきたのだろう。
取り繕わない生き生きとした表情は、いま彼を囲む面々が望んで、そうさせたのだ。
「いいことだ。そういう縁は大切にしなさい」
この瞬間ばかりは老輩ぶって、バパスは目尻のしわを深めた。
もともと陽が差し込まず薄暗かった周囲がますます薄ぼけてきた。見上げた空はまだ明るいが、日は傾きつつある。
「さて、戻ろうか。わしはこいつを連れていかねば」
バパスがうつ伏せに倒れたザインの腕を掴もうと手を伸ばし……ニーナが血相を変えて叫んだ。
「触っちゃダメ!」
突然、バパスの右手首が強い力で掴まれた。あっと驚く間もなく引き寄せられ――伸びたザインの右腕が、バパスの胸当てごと胸を貫く。短剣は勢い衰えず、刃先が背から顔を出した。
「が、はっ……」
呻いた口から赤い雨が重吹く。
それはぼたぼたと、短剣を押し込む長い前髪の張りつく顔に降り注いだ。
ザインはまだ地べたに尻をつけたまま、血で艶やかに粧われていく唇を憎らしげに見上げる。
「ウっせェってンだろ、ジジィ」
バパスの膝がかくんと折れ……支えを失った体は萎れて前に崩れた。ザインが右腕を振り払うと、老体は抵抗もせず宙を舞う。
その勢いは思いのほか強く、地面に落ちてもまだ紙くずのように何度も老体を転がし……胸が空を仰いだところで、止まった。
「バパス副長!」
アレクがすぐ倒れたバパスを追う。
「ぐ、ふっ……」
上を向いたバパスの口から、大量の血が逆流するように吹き出ては喉を塞ぐ。
アレクは苦しむ頭の下に手を回し、顔を傾けるついでにそっと首筋に触れた。はっはっと繰り返す浅い呼吸が脈を隠してしまう。血は横を向いた口からとめどなく流れ、みるみる灰白の石畳を真っ赤に染めていった。
「しっかりしてください!」
空いた手で汗ばむバパスの右手をぎゅっと握り、アレクは必死に呼びかける。
「おいっ! おまえっ!」
ロディが怒りに任せて声を荒らげ、疾風迅雷の勢いでザインの懐に駆け込んだ。その勢いを丸ごと拳に引っ括めて横面を殴り飛ばす。
ぐふっと呻いた次の瞬間――ザインの体は激しく倉庫の壁に叩きつけられていた。
ロディがふんと鼻を鳴らして、倒れたバパスを守るように立ちはだかる。その隣に剣を構えたクレイグが並んだ。
ザインとの距離が開いた隙に、ニーナもバパスの元へ急ぐ。
「ニーナ!」
『癒し〈イェシュア〉』
脇に着けばアレクが名を叫ぶが早いか、癒しの光がバパスの胸の傷を覆った。それでも、背から広がる赤い澱みは広がっていくばかりだった。
「やっト、ダマった……」
ザインが、亀裂が入るほど壁にめり込んだ背を起こす。
「おまえ! 何やったかわかってんのか!」
「まダ、う、う、うルサイ……」
地に両足をつけて立ち上がると、ロディを睨んだ。
ぎらぎらと光る瞳が……黄昏を迎えた空のように、青い。
「マタ……ゥ、オ、オマエら……ガァ!」
人とは思えない雄叫びをあげ……ザインは、長く深い太刀傷の走る胸を見せびらかすように仰け反らせた。
途端――血まみれの薄い胸板がぼこっと膨らんで、破れ目から服を裂く。そのまま肩、腹、腕、足と……焼かれる菓子の生地のように、みるみる肉が盛り上がった。
爪は小刀ほど長く鋭く伸び、大きく裂けた口から牙が剥き出す。血管が浮きだす青白い肌は、土気色に沈んでいった。
得体の知れない変貌にただ呆然と気を留めていれば、いつの間にかザインという青年はいない。いま四人の目に映るのは、人に似た面と獣のような風采を纏う……化け物と呼ぶに相応しい生き物だった。
クレイグは己の目を疑ったまま、無意識に顎をかくんと落とす。
「これは……何ですか……?」
「知らねぇよ!」
「これが……魔力に冒された人の末路、ですか……?」
「わかんねぇってば! けどよ! それさ、あいつが魔獣になっちまったって言ってんのか!」
想像するどころか、眼前に突きつけられても受け入れ難い変異――それは、戦いの中で落ち着きを乱さないロディでさえも、混乱のまま喚き立てる腰抜けに変えていた。
その騒がしさが鬱陶しいと示すように、ザイン……いや、化け物はぎろりとロディを睨むやいなや、地面を一歩、蹴った。
肥大化した脚筋で踏み出すたった一歩は、荷馬車が余裕で通れるほど開いていたロディとの距離を一瞬で消し去った。
まだぽかんとする獲物を目掛けて、腕の一部と化した短剣を振りかぶる。
ロディが注意を戻せたのは、自分を狙う刃先が頭上から振り下ろされた後で――もう構える間はない。
「やべぇっ!?」
かろうじて身を引いたが、頭を庇おうとして上げた腕の肉を鋭い刃が抉る。
「ロディ様!」
「ぐっ!」
返事代わりに呻きが漏れた。
先に化け物を蹴り飛ばしてから、ロディは傷口に手を当てる。
押さえた手のひらをいっぱいに満たしても止まらない生温かさに、傷が深いと察した。神経は無事かと切られた手を握って開いて……動く度に、眉間がいちいち縮こまる。
たった一撃でこれほどの深手を負わされたのは、魔獣を除けば初めてだ……痛みより悔しさで、ロディは顔を歪める。
怒りで体が力むほど傷を塞ぐ指の隙間から血がこぼれて、足元を点々と染めた。
「ロディ!」
それに気づいたニーナが叫ぶ。悲鳴に近い声は、今にも体ごとここまで届けてしまいそうで……
「大丈夫だ! おまえはじぃさんをみとけ!」
ロディは背中のまま、その勢いを押し止めた。
「もう!」
『癒し〈イェシュア〉』
金切り声がふてくされたかと思えば、ふと痛みが消えた。ロディが傷口を庇っていた手を離す。べっとりと血でまみれた腕に、切られた痕がない。
それに気を取られていると、『聖域〈カグ〉』と淡い光がロディの体を覆った。
「無茶しないでください!」
ロディは跡形もなくなった傷にまだ内心で驚きつつ、
「ニーナが言えることかよ」
いつもの軽口で返す。
相変わらずでたらめなほど効力が高い。これ、他の聖女サマに頼んだらいくら取られんだろ……と、こんな状況で考えた自分にちょっと笑った。
ロディの心に余裕ができたのは、ニーナの行動が自分の勝手な期待を裏切らなかったからだ。
力があるなら使うのが当たり前だと言っていたとおり、こちらが頼まなくても聖法を使い惜しまない。腕っ節も骨っ節もあって、後ろにいるのがこれほどまで頼もしく感じる存在は……今まで兄以外にいなかった。
「あんがとさん」
ロディは背中を向けたまま、礼を伝える。
癒しの対価として報えるものがあるとすれば、これ以上ニーナの手を煩わせないことだ。
静かに息を吐き……ロディは拳を構えた。
局面を見極めようと慎重に構えたロディの横を、
「ここは私が!」
と、クレイグが射った矢のごとく通り抜ける。熟れた駿足で化け物との距離を詰め、心臓に剣を突き立てた。
化け物は自分の胸を深々と貫いた剣にのんびり目を向け――握った。
「なっ……!」
クレイグは慌てて剣を引き抜こうとしたが、びくりとも動かない。
ふと、化け物がクレイグをみて笑った。
まるで人だと誇示するような口角の歪みがおぞましく、言い知れぬ悪寒が走る。クレイグは柄を手放し、急いでロディの隣まで下がった。
化け物は空いた柄に手を移すと剣を引き抜いて、血で濡れた剣身に視線を這わせていたが……突としてそれを、クレイグ目掛け投げた。
『聖域〈カグ〉!』
唐突すぎて動けなかったクレイグの目の前で、ガキン、と派手な音をたてて剣が止まり、地面に落ちる。はっとしてすぐ拾い上げると、後ろで助けてくれた聖女に少しだけ首を回し小さく頭を下げた。
「おいおい何やってんだ、らしくねぇな」
化け物から目を離さずロディが責める。クレイグの一連の動きは、普段の冷静さのかけらもなかった。
「あれが魔獣と同じだって言ったのクレイグだぜ?」
「そこまではっきりとは申してません」
「は? なんだよそれ」
「だって……信じたくないじゃないですか、魔力が人にも影響するなど……」
クレイグは苦々しげに奥歯を噛み締める。
「……もう、疑う余地はありませんが」
そう、たった今、クレイグは否定したい仮説を自らの手で確かにしてしまった。
――魔力に冒された獣は、元の個体とは比べものにならない力を得る。痛みも感じず、心臓をついても死なない――
目の前の化け物が、まさにそうだった。
「アレク様に倣うなら、魔獣ならぬ魔人ですかね」
「ははっ、忌々しさがぴったりだ」
口だけを動かすロディたちに痺れを切らしたのか、化け物は二人に突っ込んでくる。
「覚悟、決めるしかねぇのな」
それを迎え撃つべく、ロディも化け物へと向かって地面を蹴った。
アレクは冷たくなった手を握りしめたまま、じっとバパスの閉じた瞼を見下ろしていた。
自分の手を握り返さなくなったのも、喉鳴りが聞こえなくなったのも……ニーナが癒しを止めたのにも気づいている。それが何を意味するか、ちゃんと理解していた。
「なぁ、ニーナ」
戦う二人を心許なげに見守っていたニーナが、アレクに振り向く。
「村で井戸の水に使った聖法……彼に、試してくれないか?」
その願いに頷いて、化け物に向け『解毒〈キーテ〉』と唱える。が、目に見える変化はない。
「やっぱり、水のようにはいかないですね」
魔力の動きを見届けて首を横に振ると、今度はアレクを心配そうにうかがう。
「……そうか。ありがとう」
アレクはニーナににっこり笑って、再びバパスの顔を見下ろした。安らかにはほど遠いが、苦悶というほど歪んでいないのがせめてもの救いだ。
まだ赤みの残る頬に思わず「副長……」と呼びかけてしまう。返事はない。
「……もう、戻らない。やるしか、ないんだな」
握っていたバパスの手を血まみれの胸の上にそっと置き……アレクは立ち上がった。
「ニーナ、副長を頼む。あと、俺にも聖域を頼めるか?」
一緒に視線を上げたニーナは、静かに怒りを滾らせる横顔をしばらく見つめていたが……『聖域〈カグ〉』と唱えて頭を垂れた。
「……ご武運を、お祈りしています」
ロディが化け物に拳を振り下ろす。こめかみに直撃して化け物はやや首を捻じるが、すぐ顔面で押し返し右手の刃で止まった拳を狙う。その攻撃を蹴り弾いた反動に乗り、ロディは後ろに飛び退いた。
入れ替わりでクレイグが前にでて、駆け抜けざまに化け物の足首を切りつける。がっ、と鉄を叩いたような衝撃が剣を伝った。手に痺れが広がり、次の一手を振れないまま元いた位置へと引き下がる。
「なんだか、どんどん頑丈になっていませんか?」
「それ、俺も思った」
戦い始めはどこを切って叩いても、それなりに痕を残せていた。しかし攻撃を重ねるにつれクレイグの刃を弾き、英雄の力をもつロディの拳さえ通さないほど外皮は硬くなっている。
魔獣との戦いでこんなことはなかった。知性を持つ人であるが故の学習の早さと捉えれば、進化の先が見えず鳥肌が立つ。
ただ、開きっぱなしの口から漏れる荒い息はまさしく獣で、着実に人であることを捨てつつあった。
「がぁ!」
化け物は荒々しい咆哮をあげると、すぐ構える二人に近づき、右手の刃と左手の鋭い爪を無茶苦茶に振り回す。
猛撃に加え、繰り出される一撃一撃が、重い。聖域で辛うじてダメージは免れているが、反撃の隙どころか攻撃を捌くすらままならない。
やむなく防戦を強いられるロディたちだが、その一方で、化け物も苛立ちを募らせていた。倒れる気配のない獲物に、より強力な一撃を放とうと勢いよく両腕を振り上げる。
いつの間にか追いやられ、あと数歩後ろに引けば……倒れたバパスがいる。ここで攻撃を食い止めねばと、二人は身構えた。
次の瞬間、視界から化け物が消えた。
どんっと響いた衝撃音を追って、ロディが倉庫の壁からあがる砂埃に目を向けていると……
「遅くなってすまない」
目尻の傍から声がかかる。
そこにいたのは、振り切った槍をそのままにして立つアレクだった。
「兄貴!」
「アレク様! 副長は……」
アレクは腕を下ろし、そっと首を横に振る。
「そんな……」
ひどく落胆して構えを崩したクレイグの肩を、アレクが軽く叩いた。
「クレイグはニーナについててくれ」
「……心得ました」
クレイグは項垂れたまま、バパスの脇に座り込んだニーナのところまで引いていく。
その背を見送ったあと、アレクはロディに顔を向けた。
「ロディは彼の足止めを手伝ってくれるか?」
「もちろんだとも」
がらっと崩れる音がして、化け物が壁から立ち上がる。まだよろよろと覚束ない足取りの化け物をちらりと見流し……ロディはすぐ隣の兄に「なぁ」と投げかけた。
「あれ、やっちまうのか?」
「……ああ」
「兄貴は、やれるのか?」
弟の、戸惑いを隠せない縋るような視線がアレクをまっすぐ捉える。
魂を分かち合った分身が、同じ躊躇いを抱いていて……場違いにも少しだけ頬が緩んだ。
が、それはほんのわずか。アレクは覚悟を噛み締めて、弟の沈んだ黄土色の瞳を見つめ返す。
「やるしかないさ。ここで足を止めてしまったら……今は一人分の血溜まりでも、瞬く間にここで暮らす人たちの血で海となってしまう。俺たちは、先に進まなければならないんだ」
浅黄色の力強い輝きは揺らぎなくて……ロディは顔に寄った悩みじわをきれいさっぱり消した。
「やっぱ強えな、兄貴は。ありがと、今ので腹決まったぜ!」
「今のはお前の義理父さんの受け売りだよ」
「は!? 義理父に会ったの!? どこで!?」
素っ頓狂な声を上げたロディにひと吠えして、化け物が地面を蹴る。アレクは化け物に気を戻した。
「その話は後だ。行くぞ!」
「お、おう!」
真正面から突っ走ってきた化け物の顔面に、アレクが槍を横薙ぎに振り抜く。と、同時に後ろから回り込んだロディが、高く振り上げた足をうなじに叩き下ろした。
首を挟み撃つ二対の攻めから逃れようと、化け物は腕を扇のように広げぶん回す。二人はそれを避けながら、がら空きの胴に撃を食らわせつつ、とどめを打ち込む隙をうかがっていた。
『聖域<カグ>』
まだ終わらない戦いに備えて、ニーナは二人に聖域を張りなおす。
「お、オマエ」
不意に化け物がニーナに顔を向けた。青くぎらついた、獲物を見定めたような視線が交わる。
どうやら、自分の攻撃を阻むのがニーナだと気づいたらしい。
「ジャマ!」
不快そうに大きく叫ぶと、一直線にニーナへと突進する。
「ニーナ!」
「させるものですか!」
アレクの呼びかけと同時に、目障りなゴミをつまもうと広げていた爪をクレイグの剣が受け止めた。
速さを重視するクレイグの剣に力はなく、爪と一緒に後ずさる。が、一歩前に出した利き足にぐっと体重を乗せ、ぎりぎり横たわるバパスの直前で踏みとどまった。
それでも押し負け傾く剣の先に手をあてて、つっかえ棒さながら爪を食い止める。
「ぐっ!」
刃がくい込んだ手のひらから、赤い筋が何本も腕を伝った。
「クレイグ!」
ニーナが聖……と手を伸ばしかけ、
「ニーナは動かないで!」
と、必死な訴えにびくりと止める。
「大丈夫……ここを守るのが私の役目です。どうなろうとも、ここは絶対に行かせませんから!」
「クレイグ! 引け!」
声を合図にクレイグがありったけの力で化け物を押し返す。と同時に、ロディが後ろから化け物のくるぶし目掛けて蹴りを回した。足掛けで均衡を崩し浮いた体に、より大きく回した一回転分の勢いを脚に纏わせ蹴り伏せる。化け物はぐはっと呻いて地面に叩きつけられた。
ロディが崩れ落ちたクレイグの前に割り入る。
「よくやった! 後は任せな!」
そう言ってロディは思いっきり膝を屈めると、立ち上がりかけた化け物に体当たりをかました。
「うりゃぁぁぁぁ!」
体重を預けたまま化け物ごと走り、思いっきり壁にぶち当ててもなおそのまま押さえつける。
「兄貴! 今だ!」
「ああ!」
さっと身を交わしたロディの後ろで、すでにアレクはここまで駆けてきた勢いを槍に乗せていた。
そのまままっすぐ、青年の心臓に深く突き立てる。一撃では仕留めるに至らず、化け物は叫喚をあげ仰け反った。
「苦しいか? これはお前が傷つけた人の分の痛みだ! しっかり味わえ!」
命乞いさながら泣き叫ぶ化け物を睨みつけたまま、アレクは槍を引き抜き、ぐっと振りかぶる。
「そしてこれはバパス副長からだ。あの世で謝ってこい!」
そして、もう一度、化け物の胸に槍を突き立てた。
「があああぁぁぁぁぁ!」
断末魔の唸りを上げ、化け物は動くのを止めた。
赤い焼石の壁をこだました叫びは少しずつ小さくなって去り、代わりに訪れた静寂がしんと耳を突く。
アレクが槍を引き抜くと、化け物は自ら流した血の溜まりに突っ伏した。その姿は最期を迎えても、化け物のままだ。
ザインという青年は、いつ死んだのだろう……そんな考えが、アレクの頭の片隅を過ぎる。
……その答えは、もうわからない。
四人は倒れたものを、ただじっと見つめていた。
すみません、つまらない誤字で2度修正しました。