第二十四節 ザフィーラにて・中
四人は食事の席を求めつつ、食事処の看板が連なる一角をぶらついていた。夕食には早い時間だが、すでに食欲をそそる香ばしい匂いが漂っている。
さっきまで魔力に向けていた険しい表情はどこへやら。けぇき、けぇきと歌いながらにやけ顔で先陣を切るニーナの足が、ひょこひょこ踊っている。
「ニーナは本当に甘い物が好きですね」
「聖法使うと食べたくなっちゃうんですよねぇ」
嬉しそうな声に合わせて調子よく跳ねる腕を優しく見守るクレイグとは対照的に、
「……聖法って、頭を使うものなのか?」
アレクは呆れた眉が上がらない。
ふわふわと揺れる青い髪が、さっき見えた赤い日差しのお品書きを美味しそうと眺めては、あらこちらも……と隣にある焼き菓子色の壁の文字に流れていく。
そんな法衣の背をなんの気なく目で追っていたロディが、いたずらを思いついた悪がきのように意地悪く口の片端を上げた。
「じゃあおまえ、この旅が終わる頃にはぶくぶくに太ってんな!」
「女の子になんて失礼な!」
くわっと見開いた目は次の小言を飛ばしそうな勢いなのに、なぜかふふんと鼻を鳴らして得意げに胸を張る。
「太るなんてありえませんね! この先もまだまだ戦うでしょうし、これくらいすぐ消費しちゃえますから!」
「で、また聖法使って食うんだろ?」
ロディがしれっと返した。言葉を選ばない無神経さが、かえって的確に脆いところをついてくる。ニーナは崩れていく笑みをすっと手で隠した。
「……ロディ、ひどい……」
沈んだ声でぽつりと呟いたついでに肩を震わせる。
傷ついたを象る仕草にまごつきながら頭をかくロディの前で、顔を覆っていた両手がつつっと顎の下に滑っておもむろに肉をぷにっとつまみ上げた。
「すげぇ気にしてんじゃん!」
「するに決まってるじゃないですか!」
大笑いするロディに物申すと、ニーナが頬をまるまると膨らませる。そのやり取りがほっとするほどおかしくて、アレクとクレイグも堪えきれず笑いだした。
晴れやかに響く笑い声は四人を温かく包む。たとえそれが今一時の夢だとしても、ここまで抱えてきた苦しみや悲しみを胸の奥底へと追いやってくれた。
しかし、和やかな空気を弾くようにニーナが横を向く。視線の先をぐっと睨む真剣な瞳が拗ねたせいではないと、いち早く気づいたアレクが笑うのを止めた。
「どうしたんだ?」
「しっ!」
ニーナは理由を問おうとする口に指を押し当てる。ぱっと周りを見渡し、すぐそばにあった焼き菓子色の壁に身を押し当てた。手で皆に真似るよう煽ってから、自分だけそっと路地に首を伸ばす。
狭い小道の奥には井戸があり……それを覗き込む背がみえた。体に隠れて何をしているのかは分からないが、水を汲んでいるふうでもない。
強いられたまま息を潜めるアレクたちを捨て置き、ニーナはひとり忍び足で井戸に近づいていった。皆が、あ、と思っても意図が分からず動くに動けない。
「……何されているのですか?」
「うわっ!」
声をかければ大袈裟なほどびくっと肩が跳ねて、その拍子に何かが石畳に落ちた。振り向いた顔にばさっとかかる長い前髪は記憶に新しく、ニーナがはっとする。
「あなたはさっきぶつかってきた……」
こちらを向いたのは……バパスが追っていた青年だった。
「確か……ザインさんと言っていましたっけ」
「あのジジィ、余計なこと教えやがったな」
ザインは真っ先に落としたものを拾う。見咎められたくないとすぐ懐に隠したが、落ちた瞬間から目で追っていたニーナは、それが膨らんだ皮の袋だとすでに確かめていた。
「ね、その袋、どこで手に入れたのですか?」
「なんでテメェに教えなきゃなんねーんだよ。つーか、誰だよテメェ!」
「それを、どうしようとしていたんですか?」
「誰だって聞いてんだろ!」
「……まさかそれ、使おうとしていたんですか?」
「テメェにゃ関係ねーだろが!」
不躾な態度には一切応じず、自分の聞きたいことだけを押しつける。会話にもならないやり取りに苛立ったザインの目が、鋭く吊り上がった。それでもニーナは瞳を逸らさず、一歩も引かない。
「その袋の中身、使っちゃだめです」
「クソが!」
突然、獣のような大口を開けザインが吠えた。間髪入れず歯を剥き出しにして、ものすごい勢いでニーナに突っ込んでくる。
「うぜってぇ! どけ!」
「きゃっ!」
小柄なニーナにためらいなく体当りをかまして、そのまま小道を抜けていく。
訳が分からず壁から静観していたロディだが、
「おい! なにすんだ!」
さすがに見過ごせず路地に踏み込んだ。ザインを止めようと手を伸ばすが、その手で先に突き飛ばされてきたニーナを抱きとめる。ザインはさっさと走り去ってしまった。
小さくなる背中は諦めて、腕の中にすっぽりおさまったちっちゃい肩を軽く揺さぶる。
「おい! 大丈夫か!?」
「あ、ありがとうございます……」
がっちりした胸板は、ニーナの全体重を預けてもびくともしない。頼もしい反面、重いって思われてたらどうしよう……とニーナが内心びくついているうちに、アレクとクレイグもニーナの元へ駆けつけてきた。
「ニーナ、大丈夫ですか!?」
「咄嗟で聖域を張りましたので、なんとか……」
「頼むから、あまり無茶しないでくれよ」
「ごめんなさい」
「謝罪は結構です」
怪我がないのを確認してほっとしたアレクとは対照的に、状況を把握できないクレイグはますます顔を強ばらせる。
「それより、説明していただけますか? 一体これは何なのです?」
「彼なんです」
ニーナはロディの手を借りて立ち上がると、ザインの去った方へと視線を向けた。
「街に入る前から捉えていた魔力、彼から感じるんです」
魔力は人にも影響を与えるのではないか……それは村の夜に、ニーナが提言した優惧だ。ただ、アレクには現実と受け入れ難い。
「本当に人から……なのか?」
信じたくないと半笑いで疑るアレクに向けて、ニーナは首をしかと縦に振った。
「厳密に言えば、彼と、彼の持っていた皮袋からですが」
みるみる結ばれていく薄い唇をやるせなく見つめるニーナの代わりに、ロディが青年の去った方を向く。
「あいつ、なんか最初からずっと苛立ってたな」
「元々の性格に、薬物の影響もあるのでしょうが……もし、魔力を取り込んでいると仮定するなら、暴力的な部分を抑えられなくなっているのかもしれませんね」
そう言うと、クレイグは路地の奥に目をやった。
「しかし、なぜ井戸に?」
「あ、そうだ」
ニーナがはっと井戸に駆け寄り、水を汲み上げる。
「よかった、水は大丈夫みたい」
「なぁニーナ、魔力を感じると言った袋って、さっき彼が落としたあれか? どんな感じだった?」
「ええ、こぶし大くらいの普通の皮袋でしたよ。ぱんぱんに膨らんでました。落ちた時の感じが柔らかそうだったので、たぶん中身は粉みたいなものだと思います」
アレクとクレイグが顔を見合せ頷きあった。
「なるほど。それがバパス副団長の言う『よろしくない薬物』で間違いなさそうですね」
「ああ。あの様子だと、薬物への依存もかなり進んでいそうだな」
「そんなん分かんの?」
「ずっと興奮してただろう? 薬物を摂る癖がつけば、気分が高揚していないと落ち着かなくなる。それに、使い続けるとだんだん効きが悪くなって、頻度も量も増えていくんだ」
「じゃあ、ほっといたらまた使っちまうんじゃねぇの?」
何気ないロディの一言に、今度は全員で顔を見合わせた。
「……彼を探すか」
「その前に」
騒がしい街中へ戻ろうとしたアレクをクレイグが引き止める。
「荷物を置きに行きませんか? すぐ解決するとも思えませんし、身軽な方が何かと動きやすいでしょう」
そう言われれば急に背負い袋が重くなった気がして、アレクは「そうだな」と素直に頷いた。
「ケーキはー?」
「飯はー?」
仲良く重なった声を辿れば、高低差で縦に並んだ二つの顔が同じように口を尖らせている。
「全部終わったら、存分に食べてくれ。な?」
ぐずる二人をアレクが苦笑いで宥めて、ひとまず四人は宿に向かった。
****
ザフィーラは国境を越えるための審査を一手に引き受ける街だ。
夜月国は魔獣どころか野獣さえほぼ生息せず、戦う必要がないため自国で武力を有しない。ゆえに、争いを持ち込まれたくないと、入国者に対する身元証明や動機、荷物などの確認がすこぶる厳しかった。
ただ、魔獣に脅かされる昼日国民からすれば、戦いのない環境というだけで十分に魅力的である。その上、首都を象徴する荘厳な大聖堂や美しい街並みに、聖法が込められた特産品など見所も満載で、訪れようとする人は後を絶たない。
出国したい人が多い分、審査にも時間がかかる。旅行者もそれをわかっていて、長い待ち時間を快適に過ごすための出費は惜しまない。
商売人はこぞって目をつけ、寝具や食事の質を高めたり、他にはない娯楽を提供したりとしのぎを削ってきた。そうして今やザフィーラは、昼日国いち持て成しの手厚い街と高い評価を受けていた。
近くにあったというだけで決めた宿もご多分にもれず、四人部屋にしては広く掃除が行き届いており不満はなかった。
あくまで宿には。
「久しぶりのベッド!」
部屋に入ったニーナは一目散に、四つ横に並ぶ一番奥のベッドに飛び込んだ。整えられた寝具一式はいずれもしみひとつなく柔らかで、鼻を近づければ陽の匂いがはっきりと感じられる。
「あー気持ちいー……ちょっと休憩してもいいですかー……」
シーツに顔を埋めて洗いたての心地良さを楽しむニーナを横目に、アレクが激しい息もれ声で宿を取ってくれた従者にけちをつけていた。
「ちょっとまて! なんで四人部屋なんだ!」
つられてクレイグも申し訳なさそうに声をひそめる。
「この部屋しか空いていなかったのですよ」
「はー、やっぱ屋根があるっていいなあ」
アレクの心配をよそに、ロディは残る三つのベッドの真ん中を陣取った。腰を下ろした勢いでこてんと仰向けに寝転んだロディをきっと睨むと、アレクはさらに口を大きくはくはくさせる。
「おいロディ! 少しは気にしろ!」
声の出し方を忘れたのか、息だけを荒ぶらせる兄にきょとんとしながらロディが背を起こした。
「なになに? 何を気にするんだ?」
「声がでかい!」
潜まない返事にアレクが小声で焦る。
「弟よ、隣を見ろ」
「なんで?」
「誰がいる?」
「ニーナがいる」
「あれでも一応、年頃の女性なんだぞ!」
「ああ」
ようやく兄の言いたいことを察し、ちらりと隣を見た。件の女性は三人の男など見ずベッドの包容力に夢中だ。
「本人が全く気にしてねぇからいいんじゃない?」
「良くない!」
「あら、アレクこそ、そんなことを気にする人でしたか?」
ニーナがふと話に割り込んだ。聞こえていたなら自分で何とか言え、と言わんばかりに不貞腐れるアレクをおかしそうに眺めて、あははと笑う。
「ここまで来といてなに言ってるんですか。昨晩なんか寝息が顔にかかるくらい近かったのに」
「ニーナは気にしろ!」
やっとアレクの息に声が乗った。
野宿では獣が襲ってきても見張りが守りやすいようにと、寝返りを打てば腕が当たるくらい寄り合って寝ていた。本当になぜ今さら気にするんだろうと考えて、ニーナはふと思い当たる。
村での悲劇に心を痛めながら、同じことが起こっても皆を守り切れるよう、アレクは毎夜どころか道中ずっと気を張りつめていたに違いない。獣を警戒しなくてもよくなった今だから、ようやく心にゆとりができたのだ。
「ふふ、アレクらしいですね。ご安心を」
結局その余裕も他人の心配に回してしまう優しい騎士をいとおしむように見つめ、ニーナは微笑んだ。
「邪な気持ちで私に近付けば、聖域に弾かれますから」
ただし、下半身に対する信用があるかどうかは別の話である。
「そりゃほんとに安心だな!」
「……まさか、野宿の間に聖域を張らざるべき事態があったのですか……?」
思わず吹き出したロディの向かいで、クレイグがなぜか冷然とした眼差しで主人を凝視した。
「さて、どうでしょうか。幸い誰も弾き飛ばされてませんし、真相は闇の中……ということで」
ニーナのアレクに向けた目もどことなく生温かい。
「まぁ、どうせ餌食になるの兄貴だけだろ」
ロディですら薄ら笑いで兄を見ていた。
「弟よ! 兄を疑うのか!」
そんな仕打ちを受ける覚えもいわれもないアレクは、とりあえず弟に食ってかかる。
だが、さすがは手練の狩人。「兄貴だからな」と、何食わぬ顔で恨みがましい兄の視線をぬるっとかわす。それに便乗して、クレイグは大きく一回首を縦に振った。
ニーナも乗り損ねるものかとアレクに向けて親指を立てる。
「まぁ、この中にそんな不届き者はいないと思いますが、念のため天罰も追加しておきます」
「そうですね、用心するに越したことはありませんから」
クレイグはうんうんと頷いて、ロディとニーナの間にさっさと自分の荷物を降ろした。
その一連の流れにまったく納得がいかない様子で、アレクは口をへの字に曲げる。
「お前ら……俺をなんだと思ってるんだ」
「万年発情期の人ですかね」
「下半身は獣と変わんないよな」
あまりの言われようにあんぐり口を開けていると、
「ご不満なら、先ほど声をかけられたご婦人と夜を明かしていただいて結構ですよ」
従者にとどめを刺された。弁解の余地どころか口を挟む隙すらない。針のむしろとはこのことか……アレクはしょんぼりと肩をすくめた。
けたけたと部屋に溢れる笑い声が、突然の轟音にかき消された。
「なんだ!?」
石が砕け散ったような激しい音に慌てて、ロディが窓を開ける。眼下に広がる通りが騒がしい。
「事故でも起きたか?」
もっとよく見たいと身を乗り出すロディの後ろから、アレクとクレイグも窓の外を覗く。
少し遠くの建物からもわっと砂埃が巻き上がった。
やや遅れてニーナがむくりとベッドから身を起こす。しかし、首はうなだれたまま、うわ言のように呟いた。
「ふたつあった魔力が、すごく大きなひとつになりました」
三人が一斉に垂れ下がった頭を向く。
「そんな……まだ三十分も経っていませんよ!?」
「反応を辿れるか?」
「ええ、行きましょう!」
ニーナは力強く返すとすぐベッドから飛び降りて、部屋の外へ駆けていく。残った三人もそれぞれの武器を手にし、白い法会の背を追った。
宿をでた四人は魔力の反応を目指す。やはりというべきか、ニーナの視線の先は砂埃の上がった方を捉えていた。
建物の角を曲がると、通りたい道を数人の男が塞いでいる。全員がバパスと同じ胸当てをつけていた。おそらく自衛団で揃えているのだろう。
彼らが立ちはだかる道の奥には、街の人が何人も倒れている。動ける者がやれ医者だ、やれ薬だと大声を飛ばし合い、負傷者がいるのも分かった。
足止めに苛立って無理やり道に踏み込んだロディを、胸当てをつけたひとりが止める。
「ここから先は危ない!」
「知ってるよ! だからどいてくれ!」
「どけるか、馬鹿者!」
気が焦るあまり互いの主張が見事にすれ違って、険悪な雰囲気が漂った。そんな中、
「あなたはさっきの!」
と、聞き覚えのある声が飛んでくる。見れば、駐屯所でピンスと名乗った男が四人を目掛けて走ってきた。青ざめて汗を滲ませるその顔に、嫌な予感がよぎる。
「何があったんだ!?」
「それは……」
アレクが問いてもそこから先は言いはばかられると、何度も首を横に振るばかりだ。
苛立ちで我慢できなくなったロディが、ピンスの煮え切らない肩をがっと掴んだ。
「ザインってやつが暴れだしたんだろ!」
「なぜそれを!」
「バパスのじぃさんから聞いた!」
「……その通りです。バパスさんがひとり囮になって、人気のない方へとおびき寄せています。あいつ、態度も力もなんだか別人みたいで……どうなってるんですか!?」
ピンスは酷く狼狽して、ロディの腕を振り切るとそのまま頭をかきむしる。
現役時代のバパスは、団長には及ばずともかなり腕の立つ騎士だった。が、英雄ではないし、今は騎士ですらない。加えて万全ではない左肩だ。ひとりで魔力に立ち向かうのは分が悪すぎる。
「ここを通してくれ」
「しかし……」
渋るピンスに見せつけるよう、アレクは手にした槍を掲げた。
「俺は昼日国騎士団に所属している騎士だ。バパス副長とはそれで面識がある。少なくとも、足でまといにはならない」
ピンスは難しい顔のまま槍を見つめ、四人に視線を流し……隣に立つ厳しい顔の団員を見上げた。
「……この人たちを通してやって欲しい」
どうやら加勢を許してくれたらしい。頬を緩めて礼を述べたアレクに、二人はこの奥にある倉庫群にいるはずだと伝え、ピンスは深く頭を下げる。
「どうか、バパスさんを頼みます」
「任された!」
ロディがどんと胸を叩く音でより気を引き締めた四人は、けが人で溢れかえる道の、さらに奥へと進んでいった。