第二十三節 ザフィーラにて・前
今日の昼日国も晴れだ。
雲ひとつない青々とした空の下、広大な平野に真っすぐ伸びる大きな道の上を四つの影が進んでいく。
「おー! 見えてきた見えてきた!」
先頭を歩くロディが額に手をかざし、嬉しそうに目を細めた。
いま彼らが踏みしめるこの道は、まだ少し遠目に佇む大きな門へと吸いこまれるように続く。その門から広がる街こそ最初の目的地、国境都市ザフィーラだ。
「思ったより順調に来れたな」
アレクもロディの後ろから門の存在を確かめて、ほっと息をつく。
「ええ、何事もなくてよかったです」
一番後ろを歩くクレイグが来た道を振り返った。
ライラックの村を出るまでは、異常ともいえる数の魔獣に阻まれてきた。きっとこの先は更なる難路に見舞われるだろう……そう覚悟して村を出たのだが、魔獣どころか野獣にさえ足を止められることはなかった。
おかげで想定どおりの三泊で到達できたのだ。
村の悲劇を思い出せば、胸が痛むのと同時に何もないのは良いことだと改めて実感させてくれる。ほんのわずかに鼻をかすめる潮の香りと穏やかな陽気に誘われて、ロディは大きく上体を伸ばした。
「まぁ、これが当たり前っちゃあ当たり前か」
「そうだな、歩いてきたのは馬車道だもんな」
完全に気の抜けた弟の後ろ姿を追いながら、アレクは苦笑いを浮かべる。
そう、自分たちが歩いてきたのは馬車優先道。野獣除けの施された一本道なのだから。
「あんなことがありましたので……気持ちも足も自然と急いてしまったのかもしれませんね。ニーナは疲れていませんか?」
クレイグが目の前で揺れる青髪を覗き込んで、その顔が強ばっているのに気づいた。
「どうしたんですか、ニーナ?」
「なんだ? 菓子切れか?」
ロディは背中を見せたままだが、にやついているのが声でわかる。
「子供じゃないんですから、そんなことでぐずったりしませんもん!」
アレクが振り向くとニーナは眉間に深くしわを寄せたまま、これでもかと頬をふくらませていた。その険しく歪んだ目元だけを捉えれば、なんらかの不安を抱えているとわかる。
ただ、ロディの軽口にもれなく尖る口との不釣り合いさがおかしくて、こらえきれずに吹き出してしまった。
「まあまあ……で、なにか心配事か?」
なんとか笑いを噛み殺すアレクを見ながら、ニーナは申し訳なさそうに眉を下げる。
「……ようやく皆さんがほっとしたところに水を差すようで、いつ言おうか迷ってたんですが……非常に残念なお知らせがありまして……」
「残念なお知らせ……ですか?」
クレイグが繰り返した言葉に足を止め、すっと前を指さした。
「街から大きな魔力を感じます」
「マジか」
ようやくロディがニーナを振り返った。まだ距離があり街の様子は窺えない。それでも皆の頭を一様に過ぎるのは、魔獣によって赤く染まった村の凄惨な光景だった。
「兄貴! 急ごうぜ!」
忌まわしい記憶に顔をしかめたロディがいの一番に駆けだす。三人も頷きあって、ロディの後に続いた。
国境都市ザフィーラの大きな門の前で、四人は足を止める。
国を跨ぐ人々の経由点となるこの街は、古めかしい石造りの城下街とは違い、白く塗った焼石材に明るく鮮やかな色を塗り重ねた斬新な建築物が立ち並ぶ。色合いがうるさくならないようにと、ところどころ暗色を混えたり白の布地で遮ったりと上手く工夫され、各々が景観に気を配っているとよく分かった。
門から臨む限りでは魔獣が現れた気配もなく、多くの人や露店が集い、笑い、語らいあい、すこぶる賑わっているように見える。
さらに様子を探ろうと、四人は灰白の石が敷き詰められた道を辿り、街の中へ足を踏み入れた。異変がないか確かめながら、焼石材で彩られた大通りを進んでいく。すれ違う人々の服装も多種多様で、街並みにより華やかさを添えていた。
ロディは笑顔で挨拶をくれた街の老人に手を振ったあと、不思議そうに首をひねる。
「魔力のまの字もないくらい、いい雰囲気じゃん。ニーナの勘違いか?」
「勘違いならよかったんですけどね……」
ニーナはしょぼんと首を横に振った。
「魔力の反応はこの先に大小ふたつ、近づいているのではっきりと感じます」
「でも、なーんもないぜ。気張りすぎじゃねぇの?」
「いえ、森での事例を顧みるとニーナの察知力は完璧です。なら、きっと何かあるはず……アレク様もそう思いませんか?」
クレイグはそっと腰の剣に手を添え、慎重に周りを見渡しながら隣にいるはずの主人に問いかける。で、その主人は、というと……いつの間にか声をかけられた若い女性との談笑に夢中だ。
「まったく……アレク様は……」
クレイグがこめかみを押さえた。
「あーあ、はじまったよ」
いつもは兄貴兄貴とうるさいロディですら、冷めた目でアレクを眺めている。
「普段はどうしてるんですか? あれ」
「半日くらいほっときゃ、満足して帰ってくるさ」
「あ……あはは……あっ!」
生々しい解決策に呆れるしかなくへらへらと笑っていたニーナだが――突然、人混みのある一点に顔を向けた。
「どうしました!?」
「魔力がこっちに向かってきます!」
ニーナが視線を向けた先から人々のどよめきが波のように広がる。
「まじかよ! こんな人の多いところで!」
徐々に迫ってくる姿の見えない騒ぎの元凶に、ロディは拳を構えた。クレイグも剣を抜こうとして……その横を何かがすり抜ける。
「きゃっ!」
それは勢いよくニーナにぶつかってよろけた。尻もちをついたニーナを見下すのは、だらしなく伸びた髪をかきあげる一人の青年だ。
「道ふさいでんじゃねぇよ! クソアマ!」
青年は苛立たしげに罵声を飛ばし足を振りかぶるが、
「おい! まて!」
人混みの中を飛んできた大声に「ちっ!」と舌打ちすると、そのまま走り去ってしまった。
入れ違うように、ごった返す人のざわめきを抜けてきた大声の主が姿を現す。きちんと後ろに流した白髪が品良く映る、温顔な初老の男だった。
男は青年の去った跡にため息をついて、座り込んだままのニーナに手を差しだす。
「すまない、大丈夫か?」
「ええ、ありがとうございます」
「見ない顔だな……旅の人か?」
素直に手を借りて立ち上がった青い髪を、男は物珍しげに眺めている。
その男の面影に既視感を感じて記憶をひっくり返していたクレイグが、はっと声を上げた。
「もしかして、あなたは……」
男も驚いたクレイグの顔をまじまじと確かめて、目を丸くする。
「まさか、カールデンの……」
「ニーナ! 大丈夫か!?」
野次馬に阻まれひとり遅れをとっていたアレクが、ようやくニーナの元にたどり着いた。いきなり割って入った金髪を目にして、男がさらに驚きの声を上げる。
「アレクサンダーじゃないか!」
名前を呼ばれて男を振り返ったアレクが顔をほころばせた。
「バパス副長!」
アレクは男……バパスと正面から向かい合って手を差し出す。
「お久しぶりです、副長。退役されたあと、故郷に戻られたとうかがっておりましたが……」
「私はここの生まれでね。アレクサンダーこそ……」
バパスがそれに応えようとして、ふと手を止めた。
「……いや、アレクサンダー様と呼ぶべきですな」
「やめてください」
アレクはかしこまろうとした元上司にぶんぶんと首を振ると、止まったままの手を悲しげに見つめる。
「副長の前では、ただの騎士です」
「なら、その副長もやめてくれ。今の私はただの民間人だからな」
そう言ってにやりと笑い、アレクの手を握った。
「お元気そうでなによりです」
「アレクサンダーに、クレイグもな。そちらはお連れさんかね?」
ちらりと目を向けたバパスに、ニーナとロディが仲良く頭を下げる。
「はじめまして、ニーナといいます」
「ロデリックです。よろしくお願いします」
さすがのロディも、年長者に対する礼儀のひとつくらいは弁えているらしい。
「私はバパスと言う。この街の自衛団を任されている者だ、よろしく頼む」
穏やかな笑顔に刻まれるしわと白髪が、重ねてきた歳を思わせる。それでも、防具をつけた上半身はしゃんと伸びて、衰えを感じさせない勇ましさがあった。
「数年前まで騎士団の副団長をされていたんだ」
アレクの紹介を受けながら、バパスは左腕をくるりと回そうとする。が、肘を後ろに引いてすぐ下ろしてしまった。
「魔獣の討伐中に左肩をやられてしまってな。生活に支障はないが、前線で戦うには力が及ばんかった」
「それなのに、今も自衛団で剣を握られているのですか?」
「長年で染み付いたくせなのか、体を動かさないのはどうにも苦痛でのぅ」
やれやれとうなだれた老兵の横から、ニーナがあの……と控えめに声をかける。
「さっきの人って……」
「ああ、そうだな」
バパスは待ちきれない子供みたく潤んだ青い瞳に微笑んでから、元部下に軽く目配せをした。
「すまないが、一度駐屯所に戻らねばならない。よかったら、話がてら付き合ってくれんかね」
陽も露店の呼び込みも高々と上がり華めく雑踏のなか、四人は老騎士の後ろをぞろぞろとついて行く。
「さっきの若者はザインといってな」
行き交う人の隙間をのんびりと縫いながら、バパスはぽつりと口を開いた。
「腕っ節は弱いくせに喧嘩っ早く、昔から何かと騒ぎを起こす問題児だった。それが、少し前かな? どこで仕入れてきたのやら……よろしくない薬物を使っては、街の人に危害を加えるようになってしまった」
「薬物、ですか」
眉をひそめたクレイグを念押すように頷く。
「小耳に挟んだ話だが……なんでも、一部の荒くれの間で流行っているそうだ。痛覚を麻痺させ、一時的に気分を高揚させるものだと聞いた」
そこまで話すと、バパスが足を止めた。
すぐ横の壁の見える位置に、大きな旗が掲げられている。剣と盾を合わせた意匠は、昼日国で自衛団を表す印だ。ここが駐屯所らしい。
焼石材本来の茶色そのままを使った質素な造りだが、周りの華やかさと相容れず、その無骨さが逆に目立っている。
頑丈な扉を開けると、まず一行を迎えたのは部屋の中央を陣取る大きな机で、その周りを豊満な髭と体の男が妙に縮こまってうろうろしていた。男はきぃと鳴った音ですぐ気づいて駆け寄ってくる。
「バパスさん! どうでしたか!?」
「すまない、逃がしてしまったよ」
「そうでしたか……お疲れ様でした」
残念そうに眉尻を下げるが、労いは忘れない。ぺこりと頭を下げたあと、バパスの後ろにいる四人に気づいた。
「そちらは?」
バパスはアレクをちらりと見て、あー……と口ごもる。
「……なに、昔の知り合いだ。そこでばったり会ってな」
「それはそれは、ようこそザフィーラへ。どうぞお入りください」
バパスの曖昧な紹介も気にならないようで、男は四人へ手招きしながら人懐っこそうな笑顔を振りまいた。
「私はピンスと言います。ここで雑務をやってます」
せっせと椅子に並べる合間にピンスが名乗る。四人もそれぞれ簡単な挨拶をして腰掛けると、バパスが人数分のお茶を机に置いて、よっこらせと自分も腰を下ろした。
「切られた人の怪我の具合はどうだ?」
「幸いかすり傷でしたので、手当が終わるとすぐ帰られました」
ならよかった、とお茶をひと口すすって、バパスは深いため息をつく。
「捕まえては留置所に放り込むんだが、出てはまた暴れるの繰り返しだ。狡猾なのか臆病なのかは分からんが、一線を越えよらんからそれ以上の処罰が与えられず、手をこまねいている」
「街から放り出しちまうってのは?」
自信満々なロディのひらめきも、うなだれたまま静かに首を振った。
「逆に居場所を把握できん方が危ないだろう」
ロディはそっかぁとしょぼくれて、より一層難しい顔で腕を組む。それにつられていつの間にか、全員が渋い顔で考え込んでいた。
誰もお茶に手をつけていないのを気づいたバパスが、おしまいと言わんばかりにひとつ手を打つ。意図を汲んだアレクも額のしわを消した。
「すまないな。久しく会えたのに、こんな話で」
「いえ、今も活躍されているお姿が見れて安心しました」
自分を向く眩しそうな視線に、バパスはお茶を飲むふりではにかんだ口元を隠す。
「私も会えてよかったよ。まだザフィーラに留まるのかね?」
「今から国境を越える審査を受けなければならないのですよ」
「なるほど、一番の面倒事が残っているな」
審査には書類が要る。身元確認に出国理由などなど……記入事項も多く、少しでも不備があればやり直しだ。さすがの老練は、ほんの少し煩わしげに寄ったクレイグの眉を見落とさず、にやりと笑う。
「……王に鳩を飛ばしてやろうか?」
「よろしいのですか!」
「この老いぼれの戯言に付き合ってくれた、せめてもの礼だ。おそらく明日には、審査免除の許可証がもらえるだろう」
「ご厚意に甘えます、ありがとうございます」
「ここは賑やかで楽しい街だ、そんなつまらない事で時間を潰していてはもったいない。短い間だろうが楽しんでいってくれ」
アレクとクレイグが別れの握手を交わし、皆で一礼すると駐屯所を後にした。
再び賑わう街を歩きながら、ロディがなにやら考え込む兄を覗き込む。
「なぁ、兄貴。これからどうすんだ?」
「ニーナの言った魔力も気にかかるし、あの青年のことも……」
「少なくとも明日まではこの街に滞在しなければなりませんし、とりあえず宿を確保しましょう。あとは状況に応じて考えるのがよいのではないでしょうか」
ぱっと辺りを見渡せば、すぐ近くに宿の看板が吊り下がっている。善は急げと言わんばかりに、クレイグはさっさと宿の扉をくぐっていった。
残された三人はクレイグを待ちながら、改めて街並みを眺める。
「可愛らしくておしゃれですねぇ」
そう呟きながら、ニーナはある一点を見つめ目をきらきらと輝かせていた。何があるのかと気になったロディが視線の先を追えば、
「あのケーキ……クリームが色とりどりでお花みたい……おいしそう……」
少し先にある真っ赤な日差しの喫茶店に設けられた外席の皿の上だった。店の面構えも負けず劣らず華やかなのだが、食べられないなら興味はないようだ。
ケーキが減っていくのを眺めていたロディのお腹が、きゅうううっ、と大きな音を立てた。腹が減っていたのは言わずもがなと、口を介さず主張するロディにアレクは思わず吹き出した。
「ははっ、そうだな、昼食もとってないもんな。クレイグが戻ってきたら、少し早いけど夕食にしようか」
「「やったー!」」
ニーナとロディが声を揃えて、互いの手をぱぁんと叩く。欲望が重なれば、普段以上に息ぴったりだ。
「お待たせしました」
「待ちました! 早速ケーキを食べに行きましょう!」
宿から出てきたクレイグが、るんるんとご機嫌で鼻歌を歌うニーナにきょとんとしている。
「……この時間から間食をとるんですか?」
「夕食です」
アレクが食い気味に否定した。
ニーナはさっきの喫茶店へと駆けていき、ロディもすでに飯屋のお品書きを物色している。もはやなだめる気もおきない。
「アレク様、宿に荷物置いていかないんですか?」
心配して声をかけたクレイグに力なく首を振って、アレクは食欲に身を委ねる二人の後を追った。