第二十二節 夜の帳は絶望を隠して
昼日国の夜は短い。
ただし、短くても夜は夜。辺りはもう真っ暗で、多少の灯りがあったとて祈りを捧げるのすら心もとない。
しかし、やはり夜は短い。今すぐ横になっても寝れるのはあと五時間程度だ。
皆より体力のないニーナが今日の疲れを持ち越さないよう、なるべく早く寝袋までたどり着きたい。が、とりあえずクレイグの器がまだ空かない。
「クレイグ、早く食えよー」
ロディにせっつかれ、クレイグは器に入れた匙をぐるぐる回す。
「……わかってますよ……」
口ではそう返せても、腕が思うように動かない。焦って手元を見れば、浮いてきた肉とぬいぐるみを握る小さな腕が重なって嘔吐いてしまった。耐えきれず汁から逃げた視線が、心配そうにこちらを見るアレクとぶつかる。その瞬間、クレイグの頭の中で、主人に忠実な従者が吠えた。
――おい、たかが夕食の汁ごときで、主人になんて顔をさせているんだ!
急に膨らんだ申し訳なさが不快感を上回れば、クレイグを蝕んでいたものが一気に飛んだ。
すぐさま覚悟を決め、すくい上げた匙を口に入れる。
「ん! これは!」
とたん、クレイグがカッと目を見開く。見守る三人に緊張が走った。
「美味しいですね!」
さっきまでの嫌がりようはなんだったのか。ぱっと瞳を輝かせてせっせと匙を動かす変わり身の早さに、心配した三人まで一杯食わされた気分だ。
もちろん毒など入っていないのだから、何も起こるはずない。そう分かってはいたが、やたら強ばるクレイグに無駄な気を割いてしまった。なんだがどっと疲れて、三人は同時に肩を落とす。
そんな三人はそっちのけで美味しそうに汁をすするクレイグに「ま、いっか」とニーナは気を取り直し、食事を終えた三枚の器を空の鍋に放り込んだ。
「クレイグが食べ終わるまでの間に、お皿洗ってきますね。井戸はあちらですか?」
「ああ、手伝おうか?」
立ち上がろうとするアレクを手で制し、見えるように鍋を掲げる。
「いえいえ、これだけですから大丈夫です」
そう言ってニーナは明かりを手に、村の中へと入っていった。
昼日国の夜は短い。
ご馳走様でした、とクレイグが器を置いた。急ぎつつもしっかり噛んで味わっていたので、汁一杯といえ食べ終えるのにそれなりの時間を要したが、鍋一個、器三枚を洗うだけのニーナがまだ帰ってこない。
何かあったのかとアレクが心配して目を向けた先に、ちょうど青い髪が揺れた。しかし、両手で鍋を抱え込むその表情はこころなしか暗い。そのままとぼとぼと火の元まで戻ってくるなり、アレクの上着をじっと見つめた。
「アレク、あの井戸の水は使わない方がいいかもしれません」
「どうしたんだ?」
ニーナはふーとため息をついて、抱えていたものを荷袋にしまう。
「汲み上げるまで分かりませんでしたが、ほんの少し、魔力が混ざってるみたいです」
「水に……魔力が?」
「ええ。試しに解毒の聖法を使ってみたら効いたので、鍋と器だけ洗ってきました」
「「「は!?」」」
何の気なしに伝えて法衣の裾を持ち上げた聖女に、野郎どもが目を丸くした。
「聖法で魔力消せんの!?」
「消せませんよ、英雄じゃあるまいし」
「しかし、魔力って不可侵の力ですよ!?」
「知ってますよ、ロディじゃあるまいし」
ニーナは素っ頓狂な口々からこぼれた疑問を軽く受け流し、裾をぴんと張って汚れ具合を確かめている。
「でも、試してみるもんですね。水からは出てっちゃいました」
「水に、魔力……」
アレクがふと、口を覆った。
「アレク様……どうされました?」
「なんか引っかかるな、と……」
そう言って考え込んだ向かいで、ニーナの「またダメにしちゃったなぁ……」とため息混じりの小声が聞こえる。声の主はしばらく黒ずんだ裾を指で揉んだり擦ったりしていたが、諦めて手を離した。
「お待たせしてすみません。祈りに行きましょうか」
昼日国の夜は短い。
アレクがせめて献花くらいは……と、ロディを連れて隣の畑に入っていった。
その隙にクレイグは、手頃な長さの木片を二枚拾って十字に縛る。村の入口に突き立てれば、簡素な墓標の出来上がりだ。
「さっき手際よく火を起こしてくれたのといい、クレイグは手先が器用なんですね」
すごーいと目をきらきらさせるニーナにクレイグは苦笑いで返し、首を横に振った。
「これくらいは誰にでも……むしろ、こんなものしかできなくて申し訳ありません」
「とんでもない。大切なのは弔う気持ちですから、十分に立派ですよ!」
「お待たせ」
畑からでてきたアレクとロディの両手には、根ごと抜いたラジアータの花が握られている。クレイグとニーナにも手渡され、全員で墓標を囲んだ。
「では、はじめます。どうか皆さんも、土に帰る人たちが安らかであること、そして次の生へ繋がれることを祈っていただけますか?」
そう言って一歩標に近づくと、ニーナは花を持ったままの手を胸の前で合わせる。三人も同じように手を合わせ、目を閉じた。
「陽に育まれ、夜に慈しまれ、神に愛された子らよ。肉身は土に還れど、魂は神の御許で安寧を賜う……」
弔いの祈りが静かな村にしみていく。
しばらくして祈祷を終えると、ニーナが墓標の前から身を引いた。この先は昼日国のしきたりでどうぞと促され、まずアレクがラジアータの花の部分を折って標に供える。ロディとクレイグも同じように花を手向けた。
ニーナも見よう見まねで花を置いて、手に残っている茎はどうするのかと首をひねる。ロディが得意げに茎は遺体を埋めてからなと答えて、ふとニーナを見た。
「夜月国ってこういう時、何供えんだ?」
「夜月国ではですね……あ、そうだ!」
ニーナはひらめいたとばかりに荷物の元へ駆けていく。荷袋を漁って取り出したのは、街で買ったお菓子だ。ありったけのそれを手に墓標まで戻ると、供えたラジアータの隣に並べた。
「夜月国では神のみもとに発つはなむけとして、土の実りを捧げるのですよ。いつもなら果物を使うんですが、あの子はお菓子でも喜んでくれるかなって」
明日になったら、ぬいぐるみも置いてあげよう……そっと目を閉じ、あの小さな腕を思い出す。
暮らす人を失い、営みの活気を失い、時間までも失ったかのようなしじまに、さあっと吹いた夜風が墓標のラジアータを揺らした。
昼日国の夜は短い。
大して長くない夜の見張りは二人で事足りると、アレクとクレイグで受け持った。
ニーナとロディが幸せそうに寝息を立てる中、仮眠から覚めたアレクがクレイグに声をかける。クレイグは一礼すると、寝袋へと向かった。アレクは火のそばに座り、周囲に目を配る。
その様子を森の中からうかがう一人の男がいた。
「あんな餌に釣られてくれるとは……いやはや、昼日国の英雄様は実に謹厳実直なことだ」
黒いフードを目深にかぶり木陰の闇に紛れるさまは、少なくともアレクたちと親しい間柄ではないと分かる。くっくともれる低いしわがれ声が、重ねてきた相応の歳月を感じさせた。
距離もあってアレクは男の存在に気づかない。
「君たちは魔力が脅威だという割に、わしの存在にもあの奥から溢れる匂いにも、えらく無頓着じゃないか」
男はにやりと口元を歪め、アレクから目を逸らすとある一点をじっと見据える。
『ラド〈転移〉』
唱えたとたん、男が消えた。
次の瞬間、その姿は馬車の休憩所にあった。
男は御者の死体に近づき、仰向けに寝かされていた体を足で転がす。
「獣は使いものにならなくなってしまったが……こっちは良く仕上がっておる」
『イス〈氷槍〉』
声に伴って現れた男の身長ほどもある鋭いつららのような氷の塊は、死体の背を貫く。刺し口からじわじわ広がる血を見て満足気に笑うと、男は懐から膨んだ皮の袋を二つ取り出した。
それを両手にひとつずつ乗せ、血まみれの背中にかざす。
『ヤラ〈摂取〉』
目に映る変化はない。しかし、背と袋の間には思わず歯を食いしばるほどの不快で禍々しい何かが確かに広がって、消えた。
「予測以上に濃いな。これは結果が楽しみだ」
袋を懐にしまうと、またくっくと笑う。
「さて、英雄様はどうなさるか? たっぷり絶望を重ね、最高の糧になってくれたまえ」
『ラド〈転移〉』
そう言い残し、男は姿を消した。
昼日国の夜は短い。
次に男が現れたのは、どこかの街の裏路地にある地下へと続く階段の前だ。薄暗く狭いそれを下っていくと扉がある。男はフードを深く被り直し、ノックもせず取っ手を握る。
開くと中は小さな倉庫のようで、たくさんの置き荷のひとつに一人の青年が腰掛けていた。
口に入りそうな長い前髪をぐしゃぐしゃに掻きむしっていた青年は、男を見るなり駆け寄って胸ぐらを掴む。
「おせぇんだよ! いっつもいっつも待たせやがって!」
フード付きの外套を羽織る男は良くも悪くも中肉中背で、お世辞にも逞しいとはいえない。が、青年から伸びる痩せこけた腕の弱々しさはその上をいく。
激しく揺さぶっているつもりが一緒にがくがく振れて……しばらくすると疲れて動くのをやめた。
「そうカッカするな……今日のやつはとびきりさ」
男は平然としたまま青年の手を振り払い、「新作だ」とさっき懐に入れた皮袋をひとつ取りだす。
萎えた青年の視線がみるみるぎらついて、男の手に食らいついた。いつもはつまみ上げれば干物みたくぺしゃんこだった皮袋が、今日は指が柔らかくくい込むほどずっしりと膨らんでいる。
「やべー量だな。効きは?」
「まだ他で試してはいないが、今までのとは比べものにならないくらいキマるさ」
「そりゃいいな!」
青年の目が袋のふくよかな曲線を舐めた。その欲むき出しのいやらしい素振りが可笑しくて、男は皮袋をさらに大きく揉みしだく。
青年は手の中でもてあそばれる袋と誘い文句に鼻を大きく膨らませ、
「どうせ高ぇんだろうがよ!」
悪態と一緒に吐き捨てた。
それでもフードから覗く口元の弧は崩れない。
「いやいや、まだ試作だからな……いつもの額で構わないさ」
袋の膨らみはいつもの倍どころではなく、今までになかった気前の良さが青年の目元を険しく釣り上げた。
「……気味悪ぃ……ほんとに効くのか?」
「それは保証する」
「……ふーん……」
疑るような鋭い視線は時折、袋に泳いで垂れる。なけなしの警戒心と分かれば声を立てて笑ってしまいそうになるのを、男は必死にこらえた。
「ただ、その代わりと言ってはなんだが……少し頼みたいことがある」
「頼み? 面倒なことはお断りだぜ」
「これを街の井戸に落として欲しいだけだ。簡単だろう? できるだけ多くの人が口にしそうな……そうだな、飯屋の井戸あたりがいいか」
「なんだそりゃ?」
青年が顔をしかめた。
「そんなことしてテメェになんの得があるんだ……オレに何させる気だ?」
「ははっ、落とすだけだと言っただろう? お前が不利を被ることはないさ。なんといっても上得意様、だからな」
そう言ったあと、男は急ににやついていた顔を曇らせる。
「……まぁしかし、お前さんが気乗りしないなら仕方ない。これは他に回すか」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
袋をしまいかけた手を青年が慌てて止めた。
目の前の膨らんだ皮袋は、いつもの値段とほんの少しの手間で手に入る。懐も心も痛まないどころか、量も気分も倍以上だ。
「……分かった、引き受ける。くれよ」
疑問は残れどおいしい話に抗えず、青年は握っていた銀貨を一枚、手のひらに乗せて差し出した。男はまたにやりとして、銀貨を取った代わりに皮袋を乗せる。
そして懐からもうひとつ、同じ膨らみの皮袋を取り出した。
「これは井戸に落とす分だ」
念押ししながら青年に手渡す。両手に感じるずっしりとした重みで、青年の顔が蕩けた。
「おいおい、自分でやるんじゃないぞ」
「わあってるってぇ」
いちおう釘を刺すが、すでに呂律は回っていない。
男は苦笑して、フードを深く被り直した。
「また使った感想を教えてくれ。参考にさせてもらう」
「はいはい」
青年はもう袋しか見えないとばかりに、軽く上げた手をおざなりに振る。早く試したくて居ても立ってもいられない様子だ。
「では、良い夢を」
青年の期待を汲んで男はさっさと部屋を後にした。
扉を閉めたあと、受け取った銀貨を投げ捨ててくっくと笑う。
「前の男は、おまけを渡すに至らなかったからな。まぁ……どちらに転んでくれても構わないさ。期待してるよ、実験体くん」
昼日国の夜は短い。
白んできた空をぼんやり眺めていたアレクの耳に、遠く蹄の音が聞こえた。それはだんだん大きくなり、どうやらこちらに向かっているようだ。
アレクは皆の寝息を確かめると、忍び足で寝袋から離れた。そのまま村の入り口まで来ると、迫る音を迎え撃つように槍を構える。
前方に小さく見えたのは……馬に跨る赤い制服の小隊だった。それらを率いるがっしりした体躯が誰か分かると、アレクは槍を下ろす。
「団長!」
険しく精悍な顔つきはよく見知った鬼……もとい、騎士団長ジルベルトだ。その後ろには馴染みある騎馬隊の面々が連なる。
ジルベルトも声を上げたのがアレクだと気づいたようで、少し速度を上げ村の入り口まで来ると馬を降りた。
「やはりアレクサンダーか。ここで夜を越したのか?」
「ええ……団長自らがこちらに来られるとは思いませんでした」
「色んな報告が重なってな」
ジルベルトは、含みのある言い方にきょとんとするアレクの顔から制服の上着に目を移す。
「その様子だと、魔獣は対処を終えたようだな」
「はい。ただ、ここは私どもが着いた時にはもう……」
血のしみを確かめて視線を戻すと、アレクの口元は悔しげに歪んでいた。ジルベルトはそのまま見える範囲で村を見渡すと、
「ご苦労だった」
ここで起きたことを全て背負い込もうとする部下に、短い労いをかけた。
「ジルベルト騎士団長!」
忙しない足音を立てるのはクレイグだ。物音で目を覚ますなり鬼の顔に気づいて、寝袋から飛び出たのだろう。近づきながら必死にぼさぼさの頭を整えている。
「カールデンの息子か」
正面まで来ると寝起きの体をぴんと直立し、騎士の礼をとった。この律儀な近衛兵をジルベルトはよりいっそう厳しく見据える。
「うちのに力添えをくれたと陛下から聞いている。過酷な旅になるだろうが、よろしく頼む」
「はっ! この命にかえましても!」
激励ですら身がすくみそうで……声を振り絞った勢いに任せて、クレイグは直角に腰を折り曲げた。
張り詰めた空気の中、んがっ、と寝袋から高いびきが聞こえる。アレクは寝こける弟を慌てて振り返ったあと、おそるおそるジルベルトに目を向けた。
「あ、あの……ロデリックを起こしましょうか?」
「……いや、構わん。あいつは騎士ではないのだから、あれでいい。ちゃんと帰ってこいとだけ伝えてくれ」
そう言った口元はほんのわずかに緩んでいて……アレクもクレイグも見間違いかと目を擦る。
強くて、面白くて、優しい自慢の義理父だと、いつもロディは言っていた。しかし、騎士団での常に厳格な姿しか知らないアレクには、到底信じられなかった。アレクどころか騎士団の誰も信じないだろう。
鬼の中にもちゃんと親心があると分かれば、あの厳つい顔もそれほど怖くは感じな……いわけがない。おまけに、じっと見ていたせいでいつもより険しい目に捕まって、アレクは大急ぎでにやけ顔を引き締めた。
ジルベルトはひとつ咳払いをすると、後ろに視線を流す。それを合図にして、待機していた団員たちが村の中に入っていった。
「さて、弔いは騎士団で受け持とう。わしらに構わず先を急げ」
理解ある申し出にアレクは戸惑う。まだ先は長いが、息絶える瞬間に立ち会ったこの村の全てを任せて発つのは、やはり気が引けた。
「しかし、私たちも少しくらいは……」
「お前に課せられた使命は、これしきの亡骸を埋めて果たせるほど軽くない。こんなところで足を止めるな」
それを見透かすようにジルベルトが発破をかける。目的を全うするまでの時間が延びるほど、同じ悲劇が繰り返されると言いたいのだ。
アレクは言いかけた「でも」をぐっと飲み込んだ。
「……かしこまりました。お言葉に甘えます」
礼をとろうと倒しかけた両肩を、いきなりごつごつした大きな手ががしっと掴む。見開いた浅黄の瞳いっぱいに映るのは、尊敬する騎士の、精悍で憂い気な面持ちだった。
「必ず、生きて帰ってこい」
団長の言葉はいつも短く、厳しい。ただ、取り繕わないからこそ収まりきらない本心が溢れて、受け手の秘めた恐れや期待をありのままに揺さぶるのだ。
「……はい」
自分の胸に拳を押し当て、アレクは力強く頷いた。