第一節 今の世界
人が歴史を数えはじめて千六百年。
滅びかけた命は、再び陽を仰ぎ、緑を芽吹かせていた。
その営みを見守るかのように、今日も太陽は昇る。
昼日国は――今日も、晴れ。
だが、恵みの光に満ちた外とは裏腹に、城の謁見室には一筋の光も差し込まない。
肌を刺す緊張と、耳を塞ぐ沈黙だけが空間を満たしていた。
ここは昼日国城の謁見室。
壇上の椅子に腰掛けるのは、昼日国の王リアム。
くっきりと開いた胡桃色の瞳には、一晩の焦りと不安が滲んでいる。
まっすぐな視線の先にあるのは、扉。
それが開かれるのを、ただじっと待ち続けていた。
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神が創った三つの大地のひとつ、世界の最も北に位置するマールディア大陸。
かつて起きた惨禍『ミレニアムの夜明け』で緑を焼き払われ、今なお岩石混じりの荒地がその爪痕を残す。
それでも一日の約七割を照らす太陽が新芽を育み、人々の営みを支えていた。
太陽に愛されるこの大陸を治めるのは狩猟国マルティネス。
民は敬意を込めて『昼日国』と呼んだ。
どっしりと構えるマルティネス城の麓に広がる街は、呼び込みの声と肉の焼ける匂いで今日も賑わっている。
だが、小高い丘にそそり立つ城は静まり返り、乾いた風だけが吹き抜ける。外敵を退ける石の外壁も、今日は穏やかさを拒む絶壁だ。
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「陛下! 陛下! 火急です!」
慌ただしい叫び声が部屋の静けさを一瞬で打ち破る。
ノックもなく扉が開け放たれ、入ってきたのは熟年の騎士――今朝の朝礼で「謁見の予定なし」と告げた本人だ。
騎士たちに向けたその威厳はどこへやら、荒々しい足取りでリアムの前まで駆け寄る。辛うじて片膝をついたその姿に、いつもの余裕はなかった。
「件の間者が帰還いたしました!」
「ようやく帰ったか!」
リアムも負けじと声を張り上げる。その拍子に茶色の縮れ毛がふわっと跳ねた。
幼く見えるその姿に、煌びやかな羽織が不思議とよく馴染んでいる。
普段の彼は玉座に相応しい威厳を備えている。だが今は座面から腰が浮き、肘置きを掴まなければ前に転がりそうなほどだ。
リアムはその一言をずっと待ちわびていた。
期待が膨らむ胸に、ふとあの日の光景が影を差す。
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――すべてのはじまりは、十年前。
昼日国内を震え上がらせたのは、暴走した一匹の獣だった。
街を踏みにじり、狂ったように人を食い荒らす姿は、いまでも夢の中で繰り返される。
騒ぎを収めにきた城の騎士たちは、いつものように獣の心臓を貫いた。
しかし、獣は心臓を突いた騎士を踏み潰した。
首を落としても噛みつき、四肢をもいでも胴は転げまわる。昼日国騎士団総出でその身を細切れにして、ようやく動きを止めた。
終わったとき、点呼に応じた騎士は団の半数にも満たなかった。
これほどの死者を出した討伐はかつてにない。首だけになった獣が兵に食らいついた瞬間を見た者たちは、口々に悪夢と語る。その恐怖は、民の間にたちまち広まっていった。
民の不安を拭うためには、暴走の原因を突き止めねばならない。
それが、即位したばかりの歳若き王に課された、終わりなき初政務となった。
十年経っても、玉座はなお重い。
それでも――託されたのなら背負うしかない。
徹底的に調べても獣の暴走の原因は掴めなかった。
生息地も、細切れになった肉片も、何一つ手がかりを残さなかった。
過去の史料を遡るうち、リアムは酷似した事例にたどり着く。
それは『ミレニアムの夜明け』で起きた、獣の暴走だ。
六百年前もまた、獣は狂い、人を喰らった。
その根源は、今なお帝国城の奥に封じられているという。
だが、封印の真相を知る者は誰一人いない。
帝国もまた真実を覆い隠すように、沈黙を守り通していた。
『帝国は封じた禍害を、再び解き放とうとしているのではないか』
それが、リアムの導き出した疑惑だった。
それを探るため、二年前に帝国へと潜ませたのが件の間者だ。
だが、彼らからの音信は「新しい兵器の開発に携わることになった」との報告を最後に、ぷつりと途絶えてしまった。
待つこと三か月、ようやく一通の便りが届く。
便りに記されていたのは、走り書きのたった一行。
――帰城、ラグナディール節、上月、十九日――
偶然にも、その日は『ミレニアムの夜明け』の完全たる収束を宣言した、記念すべき日であり――
昨日だった。
期待に弾む胸は日を跨いでも鎮まらず、リアムは玉座で眠れぬ夜を明かした。
そして、ようやく帰還の知らせを受けたのだ。
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「彼らが戻りました!」
「ようやくか!」
現実に引き戻されたリアムは、思わず玉座から身を押し出した。
「皆は無事か? 首尾はどうだ?」
逸る気持ちが口から止まらない。その勢いに熟練の騎士も一瞬だけ言葉を詰まらせた。
すぐ咳払いで気を取り直し、険しい表情で告げる。
「……帰還を果たしたのは、オーツとレグ。二名のみでございます」
その一言は、広い謁見室を凍りつかせた。
リアムの指先が力をなくし、膝に落ちる。
もともと彼らは、忠臣どころか金で雇った素性もしれぬ間者にすぎなかった。
七度目の潜入も実らず手駒は尽き、そこで雇い入れた六人が彼らだ。
最初に届いた報告は、あまりに荒唐無稽だと失笑した。
しかし彼らは関係者すら知りえない軍事機密まで抉り出し、十日おきの報告を一度も欠かさなかった。
便りの封を切るたび、指の震えが隠せなくなる。気づけば、報告を待ち侘びるほどの確かな信頼へと変わっていた。
「二名とも酷い火傷を負い、城壁の近くに倒れていたところを保護されました。意識のあったレグより『残り四人は帰路で死亡した』と報告を受けております」
訃報が耳にこびりついた。
胸は空虚なのに、心は押し潰されそうに重い。
リアムは玉座に腰を落とす。
沈黙を押し破り、震える声を絞り出した。
「……戻らなかった四人の名は、深く胸に刻もう。誠に、大儀であった」
玉座を背負うには弱々しく、しかし民を束ねる者として相応しい言葉で死者を讃える。
言い終えて、リアムはそっと目を閉じた。
出発の際に見送った彼らの姿が脳裏に浮かぶ。
……自分は、どんな顔で送り出しただろうか。
勇ましい笑顔を『胡散臭い』と笑った自分を、いま殴ってやりたい。
やりきれなさが熱となり、目頭を刺した。
でも、まだ悲しみに囚われるわけにはいかない。
悔やむ心をぐっと押し込め、まぶたを開いた。
「戻った二名の容態を教えてくれ」
リアムと目が合ったのを合図に、騎士が再び口を開く。
「オーツは火傷が内臓まで達しており、医師が手を尽くしてはいますが……」
「すぐ夜月国に聖女の依頼を! それまでは何としてでも命を繋いでくれ!」
「仰せのままに」
騎士は言わずもがなと強く頷き、深く頭を下げる。
そして、すぐ顔を上げた。
「一方のレグですが、比較的火傷は浅いものの全身に及んでいます。医師は安静を要すると」
「そうか」
手放しに喜べないが、リアムはひとまずほっと胸を撫で下ろす。
騎士の口はそこで閉じなかった。
「しかし、本人は一刻も早く報告したいと頑なに訴えております。医師も、致し方ない事情があるなら動かしても構わない、と」
視線が鋭くその気づきを射抜く。リアムははっと息を飲み、声を荒げる。
「何を言う! せっかく繋ぎ止めた命だ、休む以外にさせることはない!」
そうはっきりと口にしながらも、胸で膨らむ期待はそっと囁きかける。
……彼らが命懸けで持ち帰った成果を、聞かずにいられるのか?
思わずリアムの手は、自分の巻き毛を掴みあげていた。
――なぜレグは、そこまで報告を急くのだろう。
もし命を狙われたのが持ち出した情報のせいなら、帝国はまたレグを殺しに来る。彼が口を閉ざせば、彼らの犠牲は……いや、昼日国の十年は徒労に帰す。
それが許されてたまるか。
髪を掴んでいた手が、玉座の肘掛けを強く叩いた。
「……いや。やはり、呼べ」
リアムが顔を上げる。大きく開かれた瞳が、まっすぐ騎士を射抜いた。
「レグをここに。報告を聞こう」
その声は迷いを押し殺し、決意だけを響かせる。
熟練の騎士はわずかに目を見開き――うやうやしく頭を垂れた。
「仰せのままに」
短くそれだけを告げ、踵を返す。
王の決断を確かに受け取り、静かに歩み去っていった。
頼もしい背中を見送ろうとして、リアムは急に身を乗り出す。
「待て、ジルベルト」
呼び止められた騎士が玉座を振り返った。
「何用で?」
「ついでにアレクも……」
その気安すぎる呼び方を聞くなり、ジルベルトの眉尻が跳ね上がる。
「あ……アレクサンダー、も呼んでくれ」
小言が飛ぶ前に自分で言い直した。
ジルベルトの視線が今日一番冷たい。リアムは「ごほん」と咳払いでごまかした。
先代より長年王に仕えてきたこの男は、決まりを乱す者に容赦がない。たとえ王であっても。
ジルベルトはふんと鼻を鳴らした。
「今回は極めて機密性の高い報告です。そのような場に一介の騎士を同席させるなど感心しません。後から人目のないところでなさっては?」
「相変わらず厳しいね、鬼の騎士団長殿は」
いついかなる時も特別扱いはしない――非常時まで紀律を乱さない鬼の顔を、リアムは呆れ半分からかい半分で見た。
それでもこの屈強な騎士は、すました顔でリアムの視線を流す。
リアムはわずかに口元を緩め、すぐ引き結んだ。
「今回は譲れない。この件において彼は特別だ。報告を聞く権利がある」
「……早急に彼が必要になりうると?」
「おそらく。いや、間違いなく、なる」
騎士をまとめる長の険しい表情は、彼に対してか、彼が必要となる状況に対してなのかはわからない。
ジルベルトは渋い顔のままため息をついた。
それでも「御心のままに」と頭を下げ、玉座に背を向ける。
ざっざっと絨毯を踏みしめる音が遠ざかり、扉がばんと鳴った。
静けさを取り戻した謁見室で、リアムは大きく息を吐く。ようやくここまで来た……と思うと、昂る気持ちがおさまらない。
玉座の背に無理やり背中を押しつけ、閉じないまぶたの代わりに手の甲をなすりつけた。
遮った視界に浮かぶのは、この世界と、十年のこと。
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創造神ラグナディールが創った三つの大陸。
そこには、それぞれを治める三つの国がある。
北のマールディア大陸には、陽を仰ぐ狩猟の国――昼日国。
中央のユグラニア大陸には、月に祈る慈愛の国――夜月国。
南のタルダント大陸には、均衡を掲げる帝国。
六百年前の惨禍『ミレニアムの夜明け』の後、三国は均衡を保つことで平穏を築いてきた――少なくとも、リアムはそう信じて疑わなかった。
リアムが即位した十年前、狂った獣が均衡を裂いた。
政務に追われながらも、獣が狂った原因を探り、帝国の動向を疑ってきた。
気づけば、即位したての青二才は玉座と釣り合う二十八歳になった。
答えを得られないまま苦節十年。
ようやく結実への一頁をめくれば、歴史上最悪の悲劇が再び顔を覗かせようとしていた。
その糸口を見いだす鍵を握るのは、彼。
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きぃきぃと車輪のきしむ音が近づいてくる。
それは大きくなるたび、現実と凶夢の境目を歪ませていく。
リアムははっとして、視界を遮る手をのけた。
ぼやけた視界に、謁見室の重厚な扉が映る。
この扉が開けば、平穏という化けの皮は剥がれ落ちる。
嫌な汗がじんわり額に滲む。
――だとしても、もう後には引けない。
リアムはそっと、額を拭った。