表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君に深紅の花束を  作者: 小川 綾
■第一章
2/63

第一節 今の世界


 人が歴史を数えはじめて千六百年。

 滅びかけた命は、再び陽を仰ぎ、緑を芽吹かせていた。

 その営みを見守るかのように、今日も太陽は昇る。



 昼日国は――今日も、晴れ。



 だが、恵みの光に満ちた外とは裏腹に、城の謁見室には一筋の光も差し込まない。

 肌を刺す緊張と、耳を塞ぐ沈黙だけが空間を満たしていた。


 ここは昼日国城の謁見室。


 壇上の椅子に腰掛けるのは、昼日国の王リアム。

 くっきりと開いた胡桃色の瞳には、一晩の焦りと不安が滲んでいる。


 まっすぐな視線の先にあるのは、扉。

 それが開かれるのを、ただじっと待ち続けていた。



****



 神が創った三つの大地のひとつ、世界の最も北に位置するマールディア大陸。

 かつて起きた惨禍『ミレニアムの夜明け』で緑を焼き払われ、今なお岩石混じりの荒地がその爪痕を残す。

 それでも一日の約七割を照らす太陽が新芽を育み、人々の営みを支えていた。

 

 太陽に愛されるこの大陸を治めるのは狩猟国マルティネス。

 民は敬意を込めて『昼日国(ひるひこく)』と呼んだ。


 どっしりと構えるマルティネス城の麓に広がる街は、呼び込みの声と肉の焼ける匂いで今日も賑わっている。

 だが、小高い丘にそそり立つ城は静まり返り、乾いた風だけが吹き抜ける。外敵を退ける石の外壁も、今日は穏やかさを拒む絶壁だ。



****



「陛下! 陛下! 火急です!」

 慌ただしい叫び声が部屋の静けさを一瞬で打ち破る。


 ノックもなく扉が開け放たれ、入ってきたのは熟年の騎士――今朝の朝礼で「謁見の予定なし」と告げた本人だ。

 騎士たちに向けたその威厳はどこへやら、荒々しい足取りでリアムの前まで駆け寄る。辛うじて片膝をついたその姿に、いつもの余裕はなかった。


「件の間者が帰還いたしました!」

「ようやく帰ったか!」

 リアムも負けじと声を張り上げる。その拍子に茶色の縮れ毛がふわっと跳ねた。

 幼く見えるその姿に、煌びやかな羽織が不思議とよく馴染んでいる。


 普段の彼は玉座に相応しい威厳を備えている。だが今は座面から腰が浮き、肘置きを掴まなければ前に転がりそうなほどだ。


 リアムはその一言をずっと待ちわびていた。

 期待が膨らむ胸に、ふとあの日の光景が影を差す。



****



 ――すべてのはじまりは、十年前。


 昼日国内を震え上がらせたのは、暴走した一匹の獣だった。

 街を踏みにじり、狂ったように人を食い荒らす姿は、いまでも夢の中で繰り返される。


 騒ぎを収めにきた城の騎士たちは、いつものように獣の心臓を貫いた。


 しかし、獣は心臓を突いた騎士を踏み潰した。


 首を落としても噛みつき、四肢をもいでも胴は転げまわる。昼日国騎士団総出でその身を細切れにして、ようやく動きを止めた。

 終わったとき、点呼に応じた騎士は団の半数にも満たなかった。


 これほどの死者を出した討伐はかつてにない。首だけになった獣が兵に食らいついた瞬間を見た者たちは、口々に悪夢と語る。その恐怖は、民の間にたちまち広まっていった。

 民の不安を拭うためには、暴走の原因を突き止めねばならない。


 それが、即位したばかりの歳若き王(リアム)に課された、終わりなき初政務(しごと)となった。


 十年経っても、玉座はなお重い。

 それでも――託されたのなら背負うしかない。


 徹底的に調べても獣の暴走の原因は掴めなかった。

 生息地も、細切れになった肉片も、何一つ手がかりを残さなかった。


 過去の史料を遡るうち、リアムは酷似した事例にたどり着く。 


 それは『ミレニアムの夜明け』で起きた、獣の暴走だ。

 六百年前もまた、獣は狂い、人を喰らった。

 その根源は、今なお帝国城の奥に封じられているという。


 だが、封印の真相を知る者は誰一人いない。

 帝国もまた真実を覆い隠すように、沈黙を守り通していた。


『帝国は封じた禍害を、再び解き放とうとしているのではないか』


 それが、リアムの導き出した疑惑だった。


 それを探るため、二年前に帝国へと潜ませたのが件の間者だ。

 だが、彼らからの音信は「新しい兵器の開発に携わることになった」との報告を最後に、ぷつりと途絶えてしまった。


 待つこと三か月、ようやく一通の便りが届く。

 便りに記されていたのは、走り書きのたった一行。


 ――帰城、ラグナディール節、上月、十九日――


 偶然にも、その日は『ミレニアムの夜明け』の完全たる収束を宣言した、記念すべき日であり――


 ()()だった。


 期待に弾む胸は日を跨いでも鎮まらず、リアムは玉座で眠れぬ夜を明かした。

 そして、ようやく帰還の知らせを受けたのだ。



****



「彼らが戻りました!」

「ようやくか!」


 現実に引き戻されたリアムは、思わず玉座から身を押し出した。


「皆は無事か? 首尾はどうだ?」

 逸る気持ちが口から止まらない。その勢いに熟練の騎士も一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 すぐ咳払いで気を取り直し、険しい表情で告げる。

「……帰還を果たしたのは、オーツとレグ。二名のみでございます」


 その一言は、広い謁見室を凍りつかせた。

 リアムの指先が力をなくし、膝に落ちる。


 もともと彼らは、忠臣どころか金で雇った素性もしれぬ間者にすぎなかった。


 七度目の潜入も実らず手駒は尽き、そこで雇い入れた六人が彼らだ。


 最初に届いた報告は、あまりに荒唐無稽だと失笑した。

 しかし彼らは関係者すら知りえない軍事機密まで抉り出し、十日おきの報告を一度も欠かさなかった。

 便りの封を切るたび、指の震えが隠せなくなる。気づけば、報告を待ち侘びるほどの確かな信頼へと変わっていた。


「二名とも酷い火傷を負い、城壁の近くに倒れていたところを保護されました。意識のあったレグより『残り四人は帰路で死亡した』と報告を受けております」


 訃報が耳にこびりついた。

 胸は空虚なのに、心は押し潰されそうに重い。


 リアムは玉座に腰を落とす。

 沈黙を押し破り、震える声を絞り出した。

「……戻らなかった四人の名は、深く胸に刻もう。誠に、大儀であった」

 玉座を背負うには弱々しく、しかし民を束ねる者として相応しい言葉で死者を讃える。


 言い終えて、リアムはそっと目を閉じた。

 出発の際に見送った彼らの姿が脳裏に浮かぶ。

 ……自分は、どんな顔で送り出しただろうか。

 勇ましい笑顔を『胡散臭い』と笑った自分を、いま殴ってやりたい。


 やりきれなさが熱となり、目頭を刺した。

 でも、まだ悲しみに囚われるわけにはいかない。


 悔やむ心をぐっと押し込め、まぶたを開いた。

「戻った二名の容態を教えてくれ」


 リアムと目が合ったのを合図に、騎士が再び口を開く。

「オーツは火傷が内臓まで達しており、医師が手を尽くしてはいますが……」

「すぐ夜月国に聖女の依頼を! それまでは何としてでも命を繋いでくれ!」

「仰せのままに」

 騎士は言わずもがなと強く頷き、深く頭を下げる。


 そして、すぐ顔を上げた。

「一方のレグですが、比較的火傷は浅いものの全身に及んでいます。医師は安静を要すると」

「そうか」

 手放しに喜べないが、リアムはひとまずほっと胸を撫で下ろす。

 騎士の口はそこで閉じなかった。

「しかし、本人は一刻も早く報告したいと頑なに訴えております。医師も、致し方ない事情があるなら動かしても構わない、と」

 視線が鋭くその気づきを射抜く。リアムははっと息を飲み、声を荒げる。

「何を言う! せっかく繋ぎ止めた命だ、休む以外にさせることはない!」

 そうはっきりと口にしながらも、胸で膨らむ期待はそっと囁きかける。

 ……彼らが命懸けで持ち帰った成果を、聞かずにいられるのか?

 思わずリアムの手は、自分の巻き毛を掴みあげていた。


 ――なぜレグは、そこまで報告を急くのだろう。


 もし命を狙われたのが持ち出した情報のせいなら、帝国はまたレグを殺しに来る。彼が口を閉ざせば、彼らの犠牲は……いや、昼日国の十年は徒労に帰す。

 それが許されてたまるか。


 髪を掴んでいた手が、玉座の肘掛けを強く叩いた。

「……いや。やはり、呼べ」

 リアムが顔を上げる。大きく開かれた瞳が、まっすぐ騎士を射抜いた。

「レグをここに。報告を聞こう」

 その声は迷いを押し殺し、決意だけを響かせる。


 熟練の騎士はわずかに目を見開き――うやうやしく頭を垂れた。

「仰せのままに」

 短くそれだけを告げ、踵を返す。

 王の決断を確かに受け取り、静かに歩み去っていった。


 頼もしい背中を見送ろうとして、リアムは急に身を乗り出す。

「待て、ジルベルト」

 呼び止められた騎士(ジルベルト)が玉座を振り返った。

「何用で?」

「ついでにアレクも……」

 その気安すぎる呼び方を聞くなり、ジルベルトの眉尻が跳ね上がる。

「あ……アレクサンダー、も呼んでくれ」

 小言が飛ぶ前に自分で言い直した。


 ジルベルトの視線が今日一番冷たい。リアムは「ごほん」と咳払いでごまかした。


 先代より長年王に仕えてきたこの男は、決まりを乱す者に容赦がない。たとえ王であっても。


 ジルベルトはふんと鼻を鳴らした。

「今回は極めて機密性の高い報告です。そのような場に一介の騎士を同席させるなど感心しません。後から人目のないところでなさっては?」

「相変わらず厳しいね、鬼の騎士団長殿は」

 いついかなる時も特別扱いはしない――非常時まで紀律を乱さない鬼の顔を、リアムは呆れ半分からかい半分で見た。

 それでもこの屈強な騎士は、すました顔でリアムの視線を流す。

 リアムはわずかに口元を緩め、すぐ引き結んだ。


「今回は譲れない。この件において彼は特別だ。報告を聞く権利がある」

「……早急に彼が必要になりうると?」

「おそらく。いや、間違いなく、なる」

 騎士をまとめる長の険しい表情は、彼に対してか、彼が必要となる状況に対してなのかはわからない。

 ジルベルトは渋い顔のままため息をついた。

 それでも「御心のままに」と頭を下げ、玉座に背を向ける。


 ざっざっと絨毯を踏みしめる音が遠ざかり、扉がばんと鳴った。



 静けさを取り戻した謁見室で、リアムは大きく息を吐く。ようやくここまで来た……と思うと、昂る気持ちがおさまらない。

 玉座の背に無理やり背中を押しつけ、閉じないまぶたの代わりに手の甲をなすりつけた。


 遮った視界に浮かぶのは、この世界と、十年のこと。



****



 創造神ラグナディールが創った三つの大陸。

 そこには、それぞれを治める三つの国がある。


 北のマールディア大陸には、陽を仰ぐ狩猟の国――昼日国(ひるひこく)

 中央のユグラニア大陸には、月に祈る慈愛の国――夜月国(よつきこく)

 南のタルダント大陸には、均衡を掲げる帝国。



 六百年前の惨禍『ミレニアムの夜明け』の後、三国は均衡を保つことで平穏を築いてきた――少なくとも、リアムはそう信じて疑わなかった。


 リアムが即位した十年前、狂った獣が均衡を裂いた。


 政務に追われながらも、獣が狂った原因を探り、帝国の動向を疑ってきた。

 気づけば、即位したての青二才は玉座と釣り合う二十八歳になった。

 答えを得られないまま苦節十年。

 ようやく結実への一頁をめくれば、歴史上最悪の悲劇が再び顔を覗かせようとしていた。


 その糸口を見いだす鍵を握るのは、レグ



****



 きぃきぃと車輪のきしむ音が近づいてくる。

 それは大きくなるたび、現実と凶夢の境目を歪ませていく。


 リアムははっとして、視界を遮る手をのけた。

 ぼやけた視界に、謁見室の重厚な扉が映る。

 この扉が開けば、平穏という化けの皮は剥がれ落ちる。

 嫌な汗がじんわり額に滲む。


 ――だとしても、もう後には引けない。


 リアムはそっと、額を拭った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ