第十節 王の決断
喜びと憂いが交わる二人分の眼差しは等しく重く、リアムは思わず手元の紅茶に視線を逃がした。
猫っ毛をくるくる指に絡めてみるが――リアムの思惑とニーナの意志は噛み合っており、答えはもう決まっている。
リアムは紅茶をすする間に、情けないほど眉尻を落としたアレクを盗み見る。
最終的な決断を任せたのは、彼が過酷な道のりを進む当人だからだ。見守るだけのリアムが行動を強要するのは筋違いと考えていたが……彼は決断を放棄した。
リアムは紅茶を置き、にこにこと上座に笑いかけるニーナをそっと見る。
そういえば彼女は護衛を連れていない。今までの聖女なら……と思いかけて、やめた。振る舞いも考え方も、リアムが知る聖女像には全く当てはまらない。それに加え、常に聖人君子の鎧を纏うあの英雄が、赤の他人に感情をさらけだしたのなど初めてみた。
彼女には託せる気がする。同行を頑なに拒んでいたアレク自身もそう思って、はねつけきれなかったのだろう。
それなら彼の背中を押すのが僕の使命かな――リアムは猫っ毛で戯れる指を止めた。
「ならば、聖女ニーナ様」
リアムは居住まいを正すと、ニーナに向けて深々と頭を下げる。
「帝国に立ち向かうアレクサンダーの助けになっていただきたい。非常に危険を伴う願いですが、お受けいただけますか?」
「もちろん! 望むところですよ!」
ニーナの声が嬉しそうに弾んだ。リアムが顔を上げれば、えくぼを盛ったお椀型の笑い口がなんとも頼もしく、つられて頬が緩む。
「アレクサンダーも、それでよいな?」
一応、一緒に聞いているアレクにも念を押せば、
「……はい、ご決断に従います」
抑揚なく呻いて頭を垂れた。
素直に折れたアレクのつむじを見下ろせば、ようやくやり込めた喜びで胸がスカッとする。同時にふと別の不安が顔を覗かせて、リアムは再びニーナに視線を戻した。
「ただひとつだけ、承諾してほしい申し出があります」
「なんでしょう?」
満面の笑みで鼻を高くしていたニーナが目をしばたたかせる。
「聖女は異性交友に特段厳しいとお聞きしております。実は、彼にはやっかいな悪癖がありまして……それを知りながら、何も手を打たず送り出すわけにはいきません」
そう言いながらアレクに流れたリアムの横目は、まるで罪人を責めるように容赦なく険しい。ニーナも物言いたげに顔を上げたアレクをまじまじと見つめる。
肩まで流れる、絹糸のようにさらさらで艶のある淡い金色の髪。陽の光を受け輝く、砂地のような金味を帯びた浅黄の瞳が、少し垂れた切れ長の目の真ん中で煌めく。
細く緩やかに弧を描く眉から均整よく通った鼻筋。しゅっとしたあごに品よくおさまる薄い唇……ぱっと見ようがじっくり見ようが、誰もが目を奪われる端正な顔立ちだ。
今はテーブルで隠れて見えないが、謁見室で見た立ち姿はすらりとしていた。それは決して不健康というわけではなく、上半身にぴたりと纏う騎士服の輪郭は引き締まっていて、よく鍛えられていると分かる。
一介の騎士とはいえ王と懇意にしている様子から、それなりに家格が高いとうかがえた。さらに、この世でただひとり英雄の魂を継いでいる。
「あの……私に何か……ついておりますか?」
瞬きもせずじっとこちらを向く青い瞳が落ち着かず、アレクが力なく声を上げた。
その声質はやや高く、艶めいた響きで耳当たりがよい。そして、先ほど語った女性に対する考え方と、抱きあげようとした時の丁寧で手馴れた仕草……リアムの心配が何かピンときた。
「なるほど、よく分かりました」
これは本人も自分の出来を把握した上で上手く魅せて、網にかかった女性からお楽しみを得ているに違いない。その毒牙がニーナに向くのをリアムは懸念しているのだろう。
アレクが自分を口説く姿を想像してみて……ニーナは首をひねった。
「まぁ、私が絆されるとも思えませんが……例えそうなっても、顔いいし、優しそうだし、国のお抱え騎士って結構良い身分じゃないですか。その上、英雄だし。責任さえとってもらえば、私は困りませんよ?」
「いやいやいや! 我々が超困ります!」
あっけらかんと言い放ったニーナにリアムが慌てて言葉を被せる。
「多大な無理を押して夜月国からお借りしている大事な聖女様に何かしでかしたら、それこそ国際問題ですよ! こいつにとれる責任なんてたかが知れてます! まず、そんな殊勝な男ではありませんよ、こいつは!」
黙って聞いていたアレクの瞼がピクリと動いた。
「……ふーん、俺に対する信用ってその程度なんですね、陛下」
さっきまでしょぼくれて結んでいた口をむすっと尖らせてリアムをじっと睨む。が、
「何言ってんだ。ものすごく信用してるさ……下半身以外はね」
リアムは取り合う隙もみせずアレクにじと目を返した。
「知らないのかな? 英雄は要人扱いだから、城にいない時は常に影が君の行動を監視してるのさ。だから、君の悪行はぜぇーーーーんぶ、報告に上がってくるんだよ? よくもまぁ、毎夜毎夜取っかえ引っかえ……僕が知らないとでも思ったかい?」
その視線と言葉がちくちくと思い当たる記憶を刺してくる。ばつの悪さにアレクの意識は青空に逃げた。
女性は素晴らしい存在である。その姿は花のように華やかで……その体は羽毛のように温かで、一人では埋められない心の隙間を包んでくれる。
矜恃に従って大切に扱えば、彼女たちの多くは自らアレクの懐に入りたがった。それを受け入れるだけで自分も満たされる。ただそれだけだ。
咎められる謂れはないなとひとり頷いて、アレクはにこりとリアムに笑いかける。
「女性が望むのなら、応えるのが礼儀というものでしょう」
「君のそういうところだけは、本当に信用ならないな……」
ひょうひょうと言ってのける優男を睨み続けていたが、微塵も崩れない笑顔にリアムは大きなため息をついた。
こめかみを押さえて、
「クレイグ」
と、誰かの名前を呼ぶ。
「はい」
その声に応えたのは、ここに案内したあと扉の前で待機していた近衛兵だ。
「聖女様に紹介したい、こちらへ」
「かしこまりました」
近衛兵は言われたとおりに歩み寄ると、テーブルの脇からリアムの対面に立つ。
「ニーナ様、彼は騎士団近衛隊のクレイグです」
自分を向いた青い瞳に向けて、クレイグはびしっと頭を下げた。
「私はマルティネス騎士団近衛隊のクレイグと申します。何卒お見知り置きを」
黄味が混じる明るい茶色の整った髪に、ぴしっと伸びた背中。錆のような茶色の制服のボタンをきちんと一番上まで止め、横一文字に固定された口元に隙はない。良く言えば真面目そうで、悪く言えばお堅そうな雰囲気がアレクとは対照的だ。
「彼は近衛の中では一番腕が立ち、普段は私の護衛を任せております。茶汲みなどの雑務も器用にこなし世話係としても適任ですし、なによりアレクと付き合いが長く、扱いを心得ております。お目付け役として、ぜひ彼を連れて行ってほしいのです」
「もちろんかまいません。戦える人が増えるのは心強いです」
「ちょ、ちょっと待ってください」
二人だけでとんとん進む話をアレクがぱんぱんと手を打ち鳴らして止めた。
「おいクレイグ、勝手に決められてしまうぞ! 嫌なら嫌ときっぱり断っていいからな!」
「ご心配無用です、アレク様」
クレイグはふるふると首を振ったあと、力強く頷く。
「以前からお話を聞く度に、共に旅立ちたいと強く望んでおりました。陛下にも幾度となくお伝えしております。私にとってこの上なく光栄な下命でございます」
「そう……なの、か? なんか、危なっかしいな……頼むから死に急がないでくれよ」
クレイグはとんと胸に手を置いて、眩しそうに目を細めた。
「ご安心ください。アレク様を遺して殉ずる失態は犯しません」
その嬉々とした様子に呆れてため息をつくが、アレクの表情は柔らかい。
クレイグとは、アレクがまだ王位継承者として帝王学に勤しんでいた頃からの付き合いだ。ささいなきっかけを機にアレクに剣を捧げた彼は、アレクが騎士になっても変わらず主と崇め、誠実に付き従ってくれた。
アレクにとっても信用できる数少ない存在である。そんな彼の躊躇いのない返事は心強かった。
クレイグはニーナに向き頭を下げる。
「聖女様、我が主と我が剣の誇りにかけて、貴女を守り抜くと誓います。よろしくお願いいたします」
「改めまして、夜月国から参りました聖女のニーナと申します。どうか気軽にニーナとお呼びください。こちらこそよろしくお願いします」
挨拶を終え顔を上げたクレイグが、今度はリアムに頭を下げた。
「では、旅の準備を整えてまいります。アレク様はいかがされますか?」
「俺はもともとすぐに発つつもりでいたから、部屋から鞄を取ってくるだけだな。聖女様はいかがでしょう?」
「用意自体はないのですけど、ここまでで消費したものを補充したいです」
「それなら街で整えましょう。私ももともと用があり立ち寄るつもりでした。クレイグ、ついでに俺の鞄も取ってきてくれないかな? 終わったらここに戻ってきてくれ」
「かしこまりました。しばし失礼いたします」
クレイグはもう一度皆に一礼し、部屋を後にした。
「さて、と」
扉が閉まると同時に、ニーナがいそいそと空き皿の目立つテーブルに向きなおる。リアムも食べてはいるが、そのほとんどを摘んだのはニーナだ。
「お菓子ちゃんと、もうすぐお別れですね……クレイグさんが戻るまで頂いていても良いですか?」
「……どうぞ」
お別れも何も、クレイグが戻るまでには全部腹の中に収めるつもりだろ……と呆れつつ、アレクは頷いた。
壁に控えていた侍女がいつの間にか新しいお茶を入れている。
「ニーナ様、こちらのミルクジャムを添えたクッキーも美味しいですよ」
リアムが手ずからニーナの空いた取り皿におすすめを乗せた。
「わぁ! いただきます!」
ニーナがすぐに手を伸ばし、ひとくちで頬張る。
どうやらリアムは、勧めたものを美味しそうに食べるニーナを見るのが楽しいらしい。皿が空くとすぐ別の菓子を乗せ、ニーナが置かれたそばからどんどん口に入れていく。まるで親鳥と雛鳥だ。
華奢な体の一体どこに収まっているのか……と、アレクがぼんやり眺めていると、
「あら? アレク様は食べないのですか?」
ニーナがふと、使われていないアレクの取り皿に目をやった。
「取り分けて差し上げましょうか?」
甘い物がさほど好きではないのに加え、ニーナの食べっぷりを見ているだけでげっぷがでそうになる。
「……遠慮しておきます」
「あら、そうですか。美味しいのに」
残念そうにそう言っては、また菓子を口に入れ小動物のように頬をふくらませた。
幸せそうな笑顔と空いていくテーブルの皿を交互に目で追えば、この調子で大丈夫なのかとアレクの頭に不安がよぎる。
ただ、まるで餌をはむ小鳥のように……ぱくぱくと小気味よく動く、自分を言い負かした口からどうにも目が離せない。
黙ってそうしていれば素直で可愛いのにな……満足そうに弧を描くニーナの口元を見ながら、アレクは自分でも気づかないうちに頬を緩めていた。