第九節 助力と要求
ニーナのひと言で来賓室の空気が一瞬にして凍りついた。
さすがに言葉足らずを察したのか、ニーナはかちんと音を立てて紅茶のカップを置く。
「……もちろん、昼日国への助力は惜しみません」
アレクはぱっと顔を上げて、嬉しそうに目を輝かせた。
「でも、私を招いた本来の意図は違いますよね?」
「え?」
核心をついた言葉は矢となり、ものすごい勢いで的と化した浅黄色の瞳のど真ん中を貫いた。
笑顔を貼り付けたまま固まる英雄にふふっと声を漏らし、ニーナはテーブルの真ん中に置かれた焼き菓子に手を伸ばす。
「だって……魔獣の居場所を探るだけなら、わざわざ昼日国に呼ぶ必要ないのでは? 伝書鳩を飛ばせばいい話ですし。数刻遅れても被害を受けてから馬を飛ばすよりは断然早いです」
的を射た推察を呟きながら……ふいにアレクを見た。
「本当は、アレク様の旅に付き添わせるために呼んだのでは?」
「なぜそれを!?」
ニーナは手にした焼き菓子をちぎり、大きく開いたアレクの口の中に放り込む。「ん!?」と慌てて口を閉じたアレクを楽しそうに眺めながら、
「やっぱりそうですか」
自分も残りを頬張って「おいしい」と笑った。
口の中に広がる甘味を味合う暇もなく飲み下し、アレクはため息をつく。
「……私が何をしようとしているか、ご存知なのですか?」
「いいえ。でも、大体分かります」
気に入ったのかもう一個と同じ焼き菓子を皿に取ると、ニーナは満足そうに頷いた。
「帝国が魔力に手を出している確証を掴んだのでしょう? 『その時は英雄が動く』と伝書に書いてありましたし。近衛兵でもないアレク様がわざわざ同席しているのは、そういうことだとお見受けしますが?」
のんびりとした口調を崩さず、自由奔放に菓子を楽しむ姿は小さい子供でも見ているようだ。しかし、リアムの伝書をきちんと把握し、それを元に正しく状況を読み取っている。その上、聖力を持ち、魔力も見える……昼日国が渇望する頼もしい助っ人であるのは認めざるを得ない。
「……お察しの通り、魔力を断ちに帝国へ渡るつもりです」
アレクは言い訳を諦め、乾いた口に珈琲を流し込んだ。珈琲のカップがテーブルに戻るのを見届けて、
「なら、私もアレク様とともにありたく存じます」
ニーナははっきりとアレクに告げた。
「それはだめだ! 聖女様には危険すぎます!」
思わず声を荒らげ、アレクが立ち上がる。頭上から刺さる視線を見上げ、ニーナは目をぱちくりさせた。
「危険なんてとっくに承知していますよ」
「なにが承知、ですか! 相手の力は未知の上、過去には世界を滅ぼしかけたものなんですよ! 私とて死地に赴くつもりはないが、相応の覚悟はしております!」
「私にだって覚悟くらい、ちゃんとありますよ」
「命の危機に晒されたことすらない貴女と一緒にしないでくれ! 魔獣と対峙したことがあるのか? 死が頭をよぎるような傷を負ったことがあるのか? そもそも夜月国から出たことすらないだろう!」
「まぁ……それはないですけど……」
ニーナが言い渋った隙を逃さず、
「そんな人間の覚悟に重みなどあるものか! 同行などもってのほかだ!」
アレクはここぞとばかりに畳みこんだ。
言い終えてもおさまらない気の昂りが、赤い制服の肩をなおわなわなと震わせる。顔まで赤くしたそんな騎士を、ニーナは意外そうな顔で眺める。
「アレク様って頭に血が上りやすいんですね。なんだか、ひとりだと突っ走っちゃいそうで……危なっかしいんですけど」
ぱくぱくと好き放題動く小憎たらしい口を止めたいのに、口撃を巧みに交わしてはやり返してくる。思い通りにことが運ばない煩わしさに加え……どうにもこの聖女、アレクの怒りの経穴を正確に突いてくるのだ。
「貴女には関係ありません」
これ以上続けると感情を爆発させてしまいそうで、アレクはぶっきらぼうに返すと話を切り上げた。
「それなら、なおさら私を連れていきましょうよ。なんと聖法が使い放題ですよ。もれなく英雄様もお守りしちゃいます」
なのにニーナはちょっと鼻を高くして、アレクにも焼き菓子にも食らいつく。
「さんざ甘やかされ守られてきた聖女が、俺を守る……と?」
そこで抑えていた堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけるのも大概にしてくれ!」
苛立ちを握りしめた拳をテーブルに叩きつける。衝撃で食器がガシャンと派手な音を立てた。
揺れでリアムの紅茶がこぼれて、侍女が布巾を片手に慌てて駆け寄ってくる。一方、ニーナのカップはとっくに彼女の口元へと運ばれていた。ニーナは何食わぬ顔で、紅茶を優雅にひと口すする。
「アレク様」
そっとカップを置いたニーナの視線が、手元の紅茶からテーブルの皿を通り過ぎ、ひどく顔を歪めた英雄へと飛ぶ。
「私はふざけたつもりなどありません」
静かでいて揺らぎない青い瞳を受け入れると、怒りでたぎるアレクの頭が少しだけ冷えた。
「……失礼、取り乱しました」
ごくごく小さな声で詫びて、大人しく腰を下ろす。それでもまだ、眉間には深いしわが刻まれたままだ。
「いえいえ。アレク様が昼日国と私の身を案じてくださっているのが、切に伝わりました」
向かいのアレクが仏頂面を当てつけても、ニーナの柔らかい表情は崩れない。
「私の覚悟はさておき、昼日国は大丈夫ですよ。今までも国を守るために、多くの人が力を合わせて魔獣と戦ってきたのですから……彼らを信じて託してみては? ほら、ここにも頼もしいお方がいるじゃないですか」
そう言いながら、リアムに目配せする。様子をみながら新たに注がれた紅茶を飲んでいたリアムは、突然の振りにむせつつも力強く頷いた。それに笑みで返すと、ニーナは再びアレクに視線を戻す。
「それより心配すべきは、アレク様です」
口こそ挟まないものの、アレクはしかめっ面を崩さない。
「たった一人で、世界を滅ぼしかけた脅威に立ち向かうと言うのですよ? 誰がどう見たって、一番危険なのはアレク様じゃないですか。死地に赴くつもりはないと仰るなら、最善を尽くしませんか?」
「……考えるべきは、私より国の最善でしょう」
「なら、なおさらです。アレク様が目的を果たすのは、国の、ひいては世界の最善となるのですから」
そこまで言うと、にこにことしていたニーナがしゅんと肩を落とす。
「やっぱりアレク様にとって、私は足でまといでしかないのでしょうか?」
「……え、いや、そんな……」
急に謙虚に問われると、アレクの中で振り切ったはずの甘えがわずかに顔を出した。いつでも癒しを受けられる上、魔力に対して備えが取れるなら、これ以上心強い存在はない。
しかし、600年前も英雄にしか太刀打ちできなかった魔力と渡り合うのだ。魔獣との戦いで苦しむ人々を嫌というほど目の当たりにし、英雄以外を巻き込むまいと決めていた――今さら、自ら覆したくない。
ニーナはぎゅっと噤んだアレクの口元を慈しむように目元を細める。
「らしくなくてもちゃんと聖女ですから、聖法は使えます。それに、甘やかされて何もしない困ったちゃんたちとは違って、身の回りの世話は一通りこなせますのよ」
ぺたんこの胸を自慢げに張ったあと、思い出したようにはっとして胸を隠した。
「……夜のお世話はご勘弁ください」
「ナニの心配してんだ、よ」
純潔を掲げる聖女らしからぬ物言いに、アレクは思わずつっこんでしまった。
ただ、その余計な一言で張りっぱなしだった頬が少し緩む。
「ならよかった。では、連れていくならこれ以上ない人材ではなくて?」
ニーナは嬉しそうに片目を瞬かせると、自分を売り込むようにぐっと身を乗り出した。アレクは逃げるように椅子を引く。
……今さら説明されなくても、もう十分に理解している。だからといって受け入れたくはない。アレクはそれらしい言い訳を必死に探す。
「貴方の心配だけをしているのではありません。女王様は……聖女を英雄に付き添わせるのがどういうことか、ご理解頂いてるのですか?」
「私が昼日国に来た、という事実でお察しください」
ニーナは明言を避ける。ただ、夜月国も帝国に不信感を募らせているのはよく分かった。
「私とくれば、多くの魔獣と戦うことになりますよ」
「もちろん想定してます。戦う力にはなれませんが、戦闘の補助ならば他の聖女より長けている自負もあります」
「道中は過酷です……休む場所を選べませんよ?」
「全く問題ありませんし、無理は言いませんよ」
気をくじこうと思いつくまま困難を並べるも、ニーナは全く動じない。かえってアレクの方が、この娘本当に聖女か?と黙ってしまった。
その隙にお菓子をとろうとニーナはこっそり手を伸ばす。当然気づかないはずもなく、アレクが思いっきり眉間にしわを寄せた。
「分かってるのか! ミレニアムの夜明けで世界を蹂躙したあの魔力と戦うんだぞ! 命の補償などないんだぞ!」
ニーナは一瞬びくっと動きを止めたが、
「それなら尚のこと、一人より二人の方がいいじゃないですか。二人で立ち向かえば手段が増えます。手段が増えれば、目的を果たせる可能性も上がると思いません?」
と、開き直ったように焼き菓子を口まで運んで、にっこり笑う。
厳しい視線などまるで意に介さず、微笑みながらああ言えばこう言う。さっきからずっとこうだ――とうとうアレクの言葉が尽きた。
「アレク様は私に同行を諦めさせたいようですが、私だってようやく自分の力を役立てる機会に恵まれたんですから、絶対に譲りませんよ」
アレクが黙ったのをいいことに、ニーナが追い打ちをかける。どうやってもニーナの主張は止まらず、このままではアレクが折れるまで終わらないだろう。
「……陛下」
アレクはすがるような瞳をリアムに向けた。
「決断を……お任せしてよろしいですか?」
あれやこれやで振り回されて、もう頑なに拒む気力がない。ただ、ずるいと言われても自分で結論を出したくなかった。
「私もリアム様のご決断に従います」
ニーナもこの場を打開できる唯一の存在に笑いかける。
「どうか、より善いご判断を」