1-22 ハレムのオオカミ姫、奴隷部屋から愛とざまぁを叫ぶ
田舎の弱小国トゥルハルから、アンティオキア帝国のハレムへ献上された16歳のアセナ。最下層の大部屋からスタートしたものの、初日から暗殺されかかったり、騒ぎを起こして牢へぶち込まれたり、波乱の幕開けとなる。そんな中、宦官にしておくには勿体ない美丈夫の役人に目を付けられ……
半月ほど船と驢馬に揺られてたどり着いたハレムで、アセナは最初の夜に熱烈な歓迎を受けた。とは言っても、酒宴を開いてもらったわけではない。
夜中にふと目を覚ますと、枕元に揃えておいたバブーシュがわずかにずれていた。上から油壷の底で叩いてみれば、何かがぐしゃりと潰れる音がする。中を覗くと、案の定小さなサソリが仕込まれていた。
「ようこそハレムへ、ってか」
アセナは死んだサソリを取り出すと、寝たふりをしている誰かに向けて放り投げた。数秒後、間抜けな悲鳴が大部屋に響き渡り、それを聞きつけた宦官が駆けつけてきた。きっと騒ぎを起こした女は、お叱りを受けることだろう。やられたら、それ以上にやり返す。それはアセナが部族の教えとして、骨身に叩き込まれてきたことだ。
アセナが寝ている部屋は「大部屋」と呼ばれる場所である。個室を与えられていない女たちが集団生活する雑居房で、ハレムへ来て日の浅いうちは皆この部屋で起居することになる。中には高貴な生まれの者もいるが、女たちの身分は基本的に「奴隷」である。国から伴なってきた侍女や召使とも、ハレムの門前で別れて身一つで入内するのである。
そこから、どうやって皇帝の寵を受けて出世するかが、ハレムの女の闘いである。大部屋で皇帝に見初められた女は、まず個室を与えられる。そして皇帝の渡りが重なれば、位が上がり寵姫となる。さらに、産んだ男児が次代の皇帝になれば、母后としてハレムの最高権力者になるのである。
ただし、寵姫までたどり着く女はほとんどいない。多くは皇帝の寵を得た途端に命を狙われるからだ。アセナに放たれたサソリ程度はまだかわいいもので、ナイフで寝込みを襲われたり、火中に投げ込まれることも珍しくない。実際、これまでアセナの国から献上された女たちも全員、数年内にハレムで命を落としている。
アセナは遊牧民を祖とするトゥルハル国で、首長の七女として生まれた。歴史が浅く国力も弱いトゥルハルは、強大な力を誇るアンティオキア帝国に隷属する形で、周辺諸国の侵略を防いでいる。そのため、数年ごとに首長の娘をアンティオキアの皇帝に献上し、国家間の連携を維持しているのだ。今回その貢ぎ物に抜擢されたのが、16歳の末娘アセナであった。
「いいか、アセナ。ハレムには常に100人を超える女たちが侍っているが、側室になれるのは一握りだ。まずは、生き残れ。お前にはその術を教えてきた」
アセナは出立前、首長である父親にそう念押しされた。暗殺されないことがハレムでは権力への必須条件で、アセナは幼少時からそのための護身術や薬学を学んできた。ちなみに、アセナという名はトゥルハル国の言葉で「聖なる雌オオカミ」または「女戦士」を意味する。並み居る敵に打ち勝ち、頂点に君臨せよという民の希望が込められた名なのである。
二度目の襲撃は、それから五日後。今度は毒蛇を仕掛けられた。アセナが蒸し風呂から上がってガウンを着ようとしたところ、足元に何か黒っぽい縄のようなものが落ちた。
ハレムの女たちは身分こそ奴隷だが、それは皇帝の所有物という意味であって、下働きは奴婢が行う。そのかわり女らは側室に相応しい礼儀作法や身だしなみを学ぶのだ。蒸し風呂での肌磨きもその例であった。
縄のようなものは、アセナの腕ほどの長さの蛇だった。網目模様と、三角形の大きな頭。クサリヘビの一種だろう。これに咬まれると、ひどく出血するだけでなく傷口から壊死が広がる。それほど大きな個体でないのは、隠して風呂場まで持ち込むためだろう。そして、周りに人が少ないのを見計らってアセナの衣服にしのばせた。計画的な犯行である。
「ふん、お返しをしてあげなくっちゃね」
蛇は鎌首をもたげて威嚇のポーズを取っている。アセナは慌てずガウンを蛇の頭部に被せると、尻尾を持ってブンブンと何度か振り回した。そして、哀れな蛇がぐったりしたところで、それを下着の布袋に突っ込んだ。
やがて悠々と身支度を整えたアセナは、大部屋とは中庭を挟んで向かい合う建物へと向かった。渡り廊下の向こうには白壁の平屋があり、横向きに6つのドアが並んでいる。大部屋で皇帝に気に入られた女が宛がわれる個室だ。まだ側室とは言えない身分だが、アセナたち大部屋の女よりはひとつ位が高い。
ドアの右から2番目を、アセナは勢いよく叩いた。個室にはそれぞれ召使がおり、中からびっくりした顔の少女が「ご用でしょうか」と顔を出した。部屋の奥では、派手なガウンを着た女が長椅子に寝そべっている。
「これ、お返しに来ました。あなたのでしょう?」
そう言うとアセナは、奥の長椅子に向かって気絶状態の蛇を投げた。先日サソリを投げ返したときと同じような、間抜けな悲鳴が響き渡る。今度は昼間だったので、たちまち宦官が集まってきた。
「何をしている!」
アセナは起こったことを正直に説明したつもりだが、恐慌状態におちいった個室の主が罵詈雑言を喚き散らし、とりあえず収拾がつかないので、アセナは牢部屋に入れられることになった。騒ぎを起こしたり、他の女に危害を加えたりした者が沙汰を待つ部屋である。
「あっちが私を殺そうとしたのに」
不服で頬を膨らませ、アセナは牢の中でしばらく過ごした。2日目の昼に普通の宦官よりも立派な服を着た男がやってきて「なぜ蛇を投げ入れたのか」と訊ねた。ようやくまともに話を聞いてくれる人間が来たので、アセナは大喜びで理由を説明した。
「あの人が私の服の中に蛇を入れたの」
「どうしてあの者の仕業とわかる? 蛇が口でもきいたか?」
男は愉快そうに口の端を歪めた。年のころは三十路手前だろうか、目が鋭く美しい輪郭をしている。もしこの容姿で宦官だとすれば、勿体ないことだとアセナは思った。
「蛇から香油の匂いがしたの。その匂いを辿ったら、あの部屋に行きついたのよ。あの香油、シャガラ国のものでしょう? とても珍しくて高価なものよ」
男の眉がぴくりと上がる。なるほど、確かにあの部屋の女はシャガラ国の出身である。そして独特な匂いの香油を使っていた。アセナは五感の敏い遊牧民の中でも特に嗅覚がすぐれており、犬のように匂いを追跡できるのだ。
「ここへ来た夜、靴の中に入れられたサソリも同じ匂いがしたわ。きっと、同じ人がやったんだと思うの」
アセナが牢から解放されたのは、それからすぐのことだ。調べてみると、アセナが言ったとおり個室の女が大部屋の手下を使って、新人いびりをしていたことが判明した。
大部屋に戻ると、皆が恐ろしいものを見るように、アセナから目を逸らす。サソリや蛇を素手で投げ飛ばす、野蛮な女だと思われたようだ。誰とも慣れあう気のないアセナにとっては、むしろ好都合であった。
それからしばらくは、何事もなく日々を過ごした。2回ほど皇帝が大広間に姿を見せ、伽を命じる女に手巾を授けて帰って行ったが、末席のアセナには目が届くわけもなく、このままでは祖国に申し訳が立たないと思い始めたころ、ある事件が起こった。
深夜、アセナは窓の外で不穏な物音を聞いた。普通の人間なら察知できない小さな音だが、遊牧民族は動物並みに聴覚が鋭い。特に静かな夜間であれば、かなり遠くの音まで聞き分けられる。人の話し声や足音ならアセナも気にしなかったのだが、それは金属を打ち合わせるような音だった。
──誰かが、斬り結んでいる。
太刀でナイフを弾いたような、高い金属音が二度、三度。アセナは音のする方へ向かって、ハレムの回廊をそろりと進んだ。宦官に見つかれば叱られるだろうが、しばらく退屈していたせいもあり、つい興味が勝ってしまった。
音がしたのは皇帝や外部の人間が出入りする表玄関ではなく、裏庭につながる薄暗い一角である。建物の角を曲がると、ぼんやりと月明かりに照らされた地面に、人が倒れているのが見えた。
アセナは警戒を強めた。この人間を倒した誰かが、まだ近くにいるはずだ。そう思って息を潜めていると、暗闇から何かが飛んできた。分銅を付けた縄である。咄嗟に避けたがそれは囮だったようで、今度は背後から飛んできた縄に捕らわれ、アセナは身動きが取れなくなった。
「なんだ? 女じゃないか!」
ハレムの警備をしている役人たちが、寝間着のアセナを見て目を丸くしている。曲者を捕まえたと思ったら、薄物を纏った女だったのだ。それでも間者の疑いがあるということで、アセナは再び牢部屋へ入れられた。ここへ来て一月余りで二回の懲罰は、ハレム開闢以来初めてらしい。
「とりあえず、朝までここに入ってろ。お沙汰はそれからだ」
牢部屋の戸に閂を掛けられ、アセナは後悔のため息をついた。実家にいた頃は、野や山を飛び回っていたが、それと同じに振る舞ってはいけない。わかってはいても、お転婆はそうそう治るものではない。
今はもう明け方前だろう。ほとんど寝ていないため、急激に睡魔が襲ってきた。アセナは絨毯の上に横たわり、ようやく深い眠りについた。しかし、その眠りは僅かな時間で、不機嫌そうな声に断ち切られてしまった。
「またお前か、ヘビ娘」
アセナが目を覚ますと、そこにはいつぞやの美丈夫な宦官が、眉間にしわを寄せてアセナを見下ろしていた。これがアンティオキア帝国で語り継がれている、第11代スルタン・シェラハザードと、帝国史上初の正后妃アセナ(後のヌーリバーヌー)の出逢いである。