1-20 絵描き皇子、帝国を塗り替える
青い血と赤い血、蒼人と紅人、二つの種族が敵対する、レゲブ大陸。
そこには大陸の全土支配を目論む、蒼人の帝国アズタムがあった。帝国の第三皇位継承者であるレオセットは、自国が行う侵略を嫌い、それを止める術を模索していた。だが、それ以前に彼は争いを好まない性格で、革命を起こすための胆力を持ち合わせていなかった。
父に代わって権力を握る兄、皇位を得るため謀略を張り巡らす姉、支配と友和の間で揺れ動く弟、胡散臭い客人、忠実な家臣、情に厚い従者。そんな人々に囲まれながら、調停官として傘下国の内乱を抑える日々。大陸の侵略を憂いながら、趣味である絵を描く毎日。停滞とした日常が続いていた。
ある日のこと、帝国の侵攻を拒む紅人の国の連合から、ひとりの女を捕えた。
名はメイナデス。彼女は豪胆無比と噂される戦姫であった。
これが全てのはじまり、全てが動き出した瞬間だった。
赤の帝王の率いる軍が、青の軍勢に完膚なきまでに圧されていた。
半数以上の仲間が既に倒され、ここから逆転の一手を見出すのは不可能に近い。残る作戦は撤退のみ。しかし、牙を剥き出しにした獣と兵士達に帝王は囲われ、退路は完全に断たれていた。つまり降伏する以外、選択肢がなかった。
「これで詰みだ」
ゲーム盤を挟んだ先に座る男、ドミニクが言った。
レオセットはこめかみの角を指で軽く摩った。起死回生の手を考えたが、兄の言う通り完全に手詰まりだ。両手を上げることしかできなかった。
「やっぱり兄さんは強いね」
「よしてくれ、レオ。私を買い被りすぎだ。実際の戦場ではそう上手くいかない」
首を横に振り、おどけた調子で謙遜しているが、満更でもないらしい。
こうして褒めると、兄であるドミニクの口角がいつも吊り上がる。賞賛そのものではなく、弟に言われたのが嬉しいのだろう。何しろ家臣からの賞賛には「そうか」と素っ気なく返すだけなのだから。
皇家の立場に縛られず、ただの兄弟として過ごせるこの時間は心地が良かった。作戦室には兄と自分の二人だけ。帝国の第一皇位継承者にして指導者でもある兄は、傘下国の調停官であるレオセットとの意見交換という建前でこの部屋を使い、立ち入り禁止を命じた。
兄弟の親密さについて、普段はあれやこれやと口出しする兄の家臣達も、弟ではなく調停官として対談をするとなれば、多少思うところはあれど、反論は出ないだろう。誰にも邪魔されずに兄と過ごせるのは実に喜ばしいことだった。
ただ、本当のことを言うと、レオセットはこの作戦室が嫌いである。また、戦争を模したゲームの駒を握るよりも、画布を彩るための絵筆を握る方が好きだった。
敵の情報を収めた保管棚、壁奥に張られた作戦用の地図。部屋には戦の重々しい空気が漂う。レオセットはこの空気が苦手だった。しかし、政に多忙な兄が合間を縫って作ってくれた空間でもあるため、文句は言えなかった。
「敗因が分かるか。お前は使うべき駒を活用できていない」
ドミニクは盤上に散らばった駒を回収し、ゲーム開始の状態に手際良く配置する。
あとに続いてレオセットも駒を本来あった場所に戻していった。
「多くの敵を捕虜にし、己の手駒にしているが、これでは何の意味も持たないぞ」
「確かにそうだけど、どの時、どの場所で使うべきか扱いが難しくてね」
「使わずに腐らすぐらいならば、敵を打倒し、自軍の駒を昇格させるべきだ」
敵を捕虜にせず、容赦なく切り捨てる。それがドミニクのやり方だ。
この思想はゲームだけではない。戦場においても同じだった。
「兄さんのやり方は、僕には合いそうにないよ」
「そうだな。確かにお前には向かないことだ。しかし、多様な手数で攻めるのなら、いずれ選択の時がやってくる。無数にある可能性をひとつに絞らなければならない」
言いたいことは分かるが、どうにも腑に落ちない。
可能性というものは唯一絶対のものとして、収束しなければならないのだろうか?
ドミニクは熱弁を止め、穏やかな目でレオセットを見据えた。納得しかねる、という考えが顔に出たのだろう。
「いずれ気づく時がくるさ」
それからドミニクは先ほどまでレオセットが操った赤い駒を片手に掴む。
天空に向けて剣を突き上げる騎士の駒。行動範囲が広く、その駒はゲームの勝敗を握る帝王にとどめを刺す機会が多かった。
「…………ところで例の捕虜は?」
ドミニクは騎士の駒を一瞥し、視線をレオセットの方に移した。
「あの戦姫様ね。会うたびに軽口をぶつけてくるよ。敵ながら関心する」
レオセットの苦笑に、ドミニクが「そうだろうか」と怪訝そうに呟いた。
あの人間は今頃、牢屋の中でへらへら笑いながら看守達に話しかけているのだろう。敵地真っ只中だというのに、馴染みの酒場にいるかのように振る舞う。戦場で囚われ、兄にその場で殺される寸前でも豪胆に笑っていたのだ。
レオセットが捕虜にするよう提案しなければ、彼女は首を落として死んでいた。
「あれを捕えてから一ヶ月経つが、駒として使えそうか?」
ドミニクは顔の前で両手を組み、冷ややかに問う。
灰色の肌、黄金色の目、岩のように重そうな唇。
いくつもの国々を支配下に置くアズタム大帝国、その指導者の姿である。
そこに愛しい兄の姿はない。
「…………分からない。交渉の余地はあるけど、紅人の敵に回ることはなさそうだね」
「なるほど。だとすれば、お前の青魔法の出番だが――」
精神を支配しない限り、彼女を駒にすることは不可能だ。
しかし、レオセットは己の青魔法で誰かを支配する行為が好きではなかった。
支配という意味で、自国の侵略も好きになれなかった。
「――そもそもの話、あれを従わす価値はない。殺すべきだ」
「そこまでする必要ある? 一生幽閉する手だってあるよ」
レオセットは牢獄に何度か足を運ばせているが、今のところ彼女に不審な動きはない。
それに枷を嵌められ、得物を失った彼女にあの牢獄を脱する術はなかった。
「あれは紅人、我ら蒼人の敵だ」
何の感情もない声で、ドミニクは平生に言い切った。
まるで野獣を追い返すような、そんな冷たい声色だった。
「ねえ、兄さん。厳密には紅人じゃなくて人間だよ」
揚げ足を取るつもりはなかったが、レオセットはつい口を挟んだ。
紅人は赤い血を体に流す種族だ。そして、その色を流すのは人間だけではない。
「お前の指摘はもっともだ。人間は我々蒼人を魔族と称して忌み嫌うが、エレフやドワーフをはじめとする他の紅人達は、我々を嫌悪しなかった。だが、彼らは人間どもに与し、我々を拒んだ。彼らもしょせんは紅人、――敵なのだ。無論、敵でない紅人がいるのなら、私だって考えを改めるさ」
人間は蒼人を嫌うわりに平気で奴隷にすることがある。
残虐な人体実験を行ったという話もあるぐらいだ。
レオセットだって人間と、それに与する紅人達を好意的に見ることはできなかった。
だが、彼らは本当に敵なのだろうか。
奴隷の話も、人体実験の話も、他人から聞いただけで、実際に目にしたわけではない。蒼人を嫌っているのが事実でも、それ以外のことが本当であるとは限らなかった。
「兄さんの言いたいことは理解できるよ。だから聞くけど、もしも彼女が人間の味方をするような人ではなかったら、本当に考えを改めるの?」
レオセットは不意に湧いた疑問を直接ぶつけてみることにした。
彼の問いにドミニクは露骨ではないものの、片方の眉を顰めた。それからしばらく無言が続き、「何かの冗談か」と呆れたような声で問い返してきた。
「真面目な話だよ。彼女とは一ヶ月近くやり取りしたけど、今までの人間とは少し違う気がするんだよね。兄さんが人間とまともに話したのは何年前のこと?」
「…………百年前だ。まさか、その百年の間に紅人の考えが変わったとでも?」
「そうだね。僕は人間の、紅人の可能性を信じたい」
人間の扱う武器は剣から銃器という鉄の塊を打ち出す複雑怪奇なものに代わった。為政者は王から複数の貴族へと移り、地方によっては民が多数決によって長を決める国もあるらしい。もしかしたら彼らの蒼人に対する認識だって変わっているかもしれない。
しかし、ドミニクはその可能性に懐疑的らしく、小さく息を吐くだけだった。
仕方のないことだ。自分でも甘い考えだというのは十分に理解していた。
ただそれでも、彼らの可能性を切り捨てることはできなかった。
「たかが百年だ。たった百年で変わると本気で信じているのか?」
「彼女の態度を見てたら、ちょっとね」
「あれが奇人なだけかもしれないぞ。それ以外は昔のままに違いない」
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
ドミニクが何か言いたげにこちらを凝視する。レオセットは静かに見返した。
まるで空気が固まったようだ。元々息苦しく感じるこの作戦室の中がより窮屈に思えた。
兄は今、何を想っているのだろう。無言の圧に耐えきれなくなったレオセットは、自分の青魔法で、兄の心の中を探ろうとした。だが、それよりも早く彼は笑った。
「お前とは言い争いたくない。熱が入り過ぎたようだ」
「そうだね。僕も兄さんと喧嘩をするのは嫌だよ」
レオセットは肩を脱力させ、兄の言葉に同意を示した。
「この話はなかったことにしよう。――さあ、ゲームを続けようじゃないか」
「…………。今度は僕が青を持ってもいいかな?」
「構わないさ」
そうして二人はゲームを再開した。
レオセットは駒を動かしながら、ずっと自問自答していた。蒼人と紅人の争いが止む日は果たしてくるのだろうか? ……分からない。問いに対し、答えはいつも同じだった。ゲームで兄に勝つ方法を出すことができないように、現実でも答えを出せずにいる。
だが、分からないなりに最善を尽くすつもりだ。
まずは牢屋にいる彼女――メイナデスと対話を通じて、紅人の現状について把握するべきだろう。
レオセットは人間をはじめとする紅人について何も分かっていなかった。
81歳の若造が世界の全てを知っているはずがないのだから。