1-16 灰々の積もらぬ
資産形成に余念がない魔術師×皮肉屋な聖人×人使いの荒い妖精の王子、三者三様の孤独が織りなすのは悲劇か、あるいは――?
ラャミは虚無の魔術師だ。
一族はみな殺され、正統な結界魔術の使い手として安定した稼ぎを得る未来は潰えた。
そんな彼女が代々伝わる結界魔術を応用した人外者崩しの力で金を稼ぐことにしたところ、恐ろしく長命で、人間ごときにはどうにもできないほどの力を持った聖人に目をつけられてしまう。彼はラャミの愉快な孤独のかたちを間近で観察したいのだという。
さらにラャミが身を寄せている村を滅ぼしにきたという妖精の王子も現れ、思惑の混線した三人は落としどころを見つけることにした。
これは、孤独を抱えた生き物たちが、互いに寄り添い傷をつけあいながら「孤独」という安らぎを手に入れる物語。
人間は獰猛な生き物だ。
険しく連なる峡谷の村。そのうちひとつの谷あいを職場という名の狩り場として与えられたラャミは、たった今結界に閉じ込めたばかりの妖精がかくりと膝をついたのを無感情に見下ろしている。斜めに重なった岩をびゅうと風が駆け上がり、わずかに彼女がよろめけば、陶器に似た質感のローブは硬い音をこぼした。
煤を振りかけたような灰色はいかにも人間らしい凡庸さだ。そんな浅い色彩を携えた髪も瞳も、春を呼び込む強風には簡単に煽られてしまうというのに。
おまえの一族を殺したのは私なのよとラャミを嘲笑った唇で、それからこの妖精はどのような言葉を紡いだのであったか。実のところ、彼女は妖精の話をよく聞いていなかった。
復讐の念からではない。
これは余暇だ――とラャミは魔術で生成した結界の内部を虚無へとすぼめていく。
「なにもない、なにもないよ。音も香りも、時間だって。あなたを構成する要素はなにもない」
成人したばかりの、まだ少女の面影を残した甘やかな声で。されどどこまでも無機質な調子で。
子守唄に似た魔術が紡がれる。
微睡みにまぶたが下ろされるように、妖精から世界との繋がりが失われていった。
「へぇ、こりゃまた見事な手際だ」
軽薄な角度をつけた感嘆がひたりと落とされた。しかしそこにあるのはあくまで他人事らしい冷ややかさで、ラャミは無表情を維持したまま警戒心たっぷりに顔を上げる。
音もなく一段上の岩に降り立ったのは、影色の羽を持つ見知らぬ妖精の男。
「なにもない、なにも――」
「え、ちょっ、褒めてあげたのに無視しちゃう? 待って待って……うわわわさすがに僕でもその魔術はまずいって!」
その叫びに耳を貸すことなく展開されたラャミの魔術が、妖精を囲む見えない壁を生み出した。強風にほわほわ遊んでいた妖精の髪は静まり、しかし羽と同じ影の色が深まる。
強烈な光のもとに強烈な影が生まれるように、煮詰められたその色は強い力を持つ者特有の薫りがした。
「――なにひとつ、あなたは持っていない」
そのような人外者など、油断しているうちにさっさと壊してしまうに限るのだ。
わぁわぁ騒ぎながらも確実に魔術を退けていく手腕に、残酷な人間はこの妖精を仕留めればどれほどの稼ぎになるだろうかと考える。ラャミの見立てでは、鋭利な羽のひと欠片だけでも先ほど狩った妖精まるごと以上の価値がありそうだ。
「なにひとつ、あなたには繋がらない」
精緻に練られた願いは魔術として世界の事象を書き換える。
結界の内側に閉じられた小さな世界が虚無へと書き換わる。
人間と違い、彼らは事象を由来として成り立っているのだ。ゆえに隔てられた虚無の中では自身の要素すら見失い、成らず――やがて虚ろへ溶けていく。
ところで、まだ短い人生ではあるが、ラャミの知るなかで虚無の魔術をものともしない人外者はたったひとりしかいない。
「やめとけやめとけ」
覚えのある呆れ声とともに突然降ってきた手にばしりと頭を叩かれ、ラャミは思わず「痛っ」と声をあげた。それでも魔術を解かずにいられたのは、このような不意打ちはもう何度もくらってきたからだ。
「わ、なんでこんなとこに孤独の君がいるんだろ……」
「頭が潰れちゃうからやめて。タゼセナッドは知らないだろうけど、人間はか弱い生き物なんだよ」
「おまえのどこがか弱いんだよ。妖精をふたりも狩りやがって!」
「僕は狩られてないからね!?」
孤独の君――タゼセナッドと呼ばれた青年は、この状況でも虚無の魔術を解かない好戦的な人間を睨んだ。
襟を立てたコートがばさばさ風に揺れ、面倒そうに押さえられた中折れ帽からは曇り空を映したような癖毛と瞳が覗く。
鮮やかな、鮮やかな灰色だ。
たとえ同じ灰色だとしても、人間であるラャミのそれとはまるで違う。空の持つあらゆる表情を内包したようなその色は、どこか物語的な秘め事を感じさせるものであった。
これだから長命な生き物は! ――ラャミは心のなかで毒づいた。どれだけ簡素な装いをしていても、人間味のある仕草をしてみせても、ひとつひとつの動作が持つ深い響きは隠せるはずもない。
孤独の君。孤独という事象が世界から失われぬよう取り計らう者。
タゼセナッドは孤独の聖人である。
当然ちっぽけな人間が敵うはずもない相手であるが、それでもこれは自分の獲物なのだと、魔術師は威嚇してみることにした。
「このふたつはわたしの臨時収入。タゼセナッドにはあげないよ」
「強欲がすぎるぞ」
「ねえ、なんで僕はこんなに無視されてるのかな。というか素材扱いされたのなんて初めてなんだけど。あれ、でもなんかゾクゾクしてきたかも……!」
いまだぴんとしているこちらもまた力ある妖精なのであろうが、人間社会に紛れることを得意としているのか、相手の自然な反応を引き出す言動が目立つようだ。
変態めいた発言に身震いしかけ、これでは妖精の思うつぼではないかと気を引き締める。
ラャミは獲物とは会話を持たないことにしているのだ。言葉を交えてしまえば狡猾な彼らはたちまちそこに悪意を絡めてくる。さすればただの人間であるラャミに勝ち目はない。
「え、待って。もしかしてこの娘が獲物だったりする?」
そういうわけで、たとえその獲物が偉大な狩人を獲物と勘違いするような失礼さで反撃してきたとしても、今ばかりは寛大な心で許してあげるのだ。
「どうだろうか。……それと、ラャミ。本当にそいつはやめとけ。粛清妖精の王子なんぞ壊した日には――」
「王子さま? これ――このひとが?」
さて、寛大な生き物など、この世にいるのだろうか。
「まあそういう反応になるよねぇ」
くすりと笑った妖精の男は、ようやく結界から解放されて大きく伸びをした。ゆるいスウェットの下に肌着はつけていないらしく、腹が見えている。
王子といえばもっときらびやかな装いをしているものではなかったのかと考える人間の横で、聖人も訝しげな表情だ。
「あの厳格な粛清妖精がそれだけで済ませるだと……? おい、なにか企んでいるのではあるまいな?」
「やりにくいなぁ……でもまっ、ちょうどいいのかな。ね、じゃあさ、さっきの答えは?」
「は?」
「この人間がきみの獲物なのか、そうじゃないか」
本人の目の前でそんな話をするのもどうかと思うが、知ったところで、憤ったところで人間にはどうにもできないのだ。虚無の魔術を解いた時点でもう、立場は逆転している。
手持ち無沙汰になる予感がして、ラャミは息絶えたほうの妖精の解体に取り掛かることにした。とくに羽は鮮度が重要だ。身体に呪いを持っていた場合は透明度が損なわれることもあり、そのぶん価値も大きく下がる。
「獲物にされたのはおまえだろ…………まさか」
「そゆこと。そこの妖精もだけど、この村も対象なんだよね」
「抜け目のないことだ」
「対象?」
話は聞いておくつもりの人間が首を傾げると、意外に面倒見がよいのか、聖人が丁寧な説明をしてくれる。それによると、この妖精は世界に不要と判断されたものを間引く庭師のような役割を担っているらしい。
対象とはつまり、粛清妖精が滅ぼすべきと定めたものである。
「困るよ。わたしはお金を稼いで、安心安全な死に場所を見つけるんだから」
これは余暇なのだ。
天涯孤独となったラャミの、死にゆくまでの余暇。あの日に命を終えるはずだった彼女はすでに死の恐怖を味わっている。だからもう、あとは気ままに死を迎えるだけでよかった。
それをこのようなかたちで奪われてはたまらない。
「僕もさ、孤独の君なんかと真正面からやり合うつもりはないんだよ。完全にこっちが不利だしさ」
「ま、暇つぶしをくれてやる気はないな」
聖人の答えを聞いた妖精の男は「でしょ?」と親しげに、しかしどこまでも冷酷な笑みを浮かべた。
「だからちょっと、ご相談ってやつ?」
春風を流し込んだように、影色の羽がざあっと光る。
ちょうど色褪せた羽のかけらを手にしていたラャミは、透かした向こうをじぃと見つめた。
「…………場所を移すぞ。こいつがいると話が進まん」
「うわ、まだ諦めてなさそうだ……まっでも、このくらい獰猛なほうがいいのかな。僕の名前、ネフン・ケダ・ザラォ・ヲーダヲっていうんだけど、長い付き合いになりそうだからさ、覚えておいてよ」
「勝手に繋ぎを得るな」
「いいじゃん、減るもんじゃないし――ったぁ! 暴力反対だよ!」
「妖精王の子……ほんとうに王子さまなんだ」
「信じてもらえてなかった!」
鮮やかで賑やかな灰色たちがしゅるりと消えるのを、ラャミは相変わらずの無表情で見つめていた。
狩人として契約している彼女は、この峡谷の村を許可なしに出ることができない。
カツリと、尽きた妖精の手からなにかが落ちた。
古い懐中時計だ。ラャミは思い出す。あれからこの妖精は、「ほぅら、大事な母親の大事な形見。返してほしければ言う通りになさい」と言ったのだ。
あれは脅迫だったのだろう。
変なの。岩にも当たらない呟きが落とされる。
「どうしてわたしの命に形見が優先されると思ったんだろう」
なにも持っていないのはラャミだ。
心がすり減って、すり減って、丸くなりすぎた。ラャミの心には他のなにかを引っ掛けておくような鉤などない。
そんな孤独を、彼に魅入られた。
もうすぐ春とともに、この峡谷へ人間にとっての災いがやってくる。
母親の、慈しむような指先を思い出しながら、さて内緒話をしにどこかへ行ってしまった人外者たちはなにをしでかすのやらと、ラャミはローブの中に時計をしまった。