1-11 地蝕の影、黄昏の境界
この世界には、影がいる。
人の姿を形取り、擬態し、地球を喰らう影たちがいる。
綾川一伍は、その影と戦える力を持つ唯一の人間だった。
普通なんて言葉からはかけ離れた日々を過ごし、当たり前の青春に憧れる彼は、ある日更なる敵と相対する。
影は地球の外からだけではなく、内からも湧き出ていたのだ。
それに対抗しうる力を持たぬ綾川だが、そこに一人の少女が現れる。
藤白神奈。
彼女もまた、もう一つの影に対抗する力を持つ唯一の人間だった。
交わることのないはずだった二つの影が重なって生まれた新たな脅威。
しかし、その影たちの天敵である二人の男女も、出会いを果たす。
そして始まるのは地球を守るための新たな戦い……だけではなく。
「あの子のこと、好きになっちゃった」
綾川の待ち望んでいた青春の日々も始まろうとしていた。
綾川一伍は、学校の屋上で黄昏れていた。
「あー、彼女欲しいー」
吐き捨てた言葉は、夜に染まり始めた夕暮れ空に溶けていく。
耳に付けたイヤホンから返事は帰ってきた。
『じゃあ、どうして美倉ちゃんをフッたの?』
「そりゃあ、迷惑かかるし。そもそも、付き合ったところで一緒にいれる時間とかもないし」
綾川は自分の隣へ視線を移す。
そこには、青い液体を垂れ流すバラバラの死体があった。
切断されて転がる死体のどの部位も人体と同じ構造をしているが、この肉塊は人間のものではない。
否。厳密には、この地球に存在するものではない。
「宇宙人を殺し続ける人生に、巻き込むわけにはいかないでしょ」
これが綾川の日常だった。
普通の生活を送る人をこの世界に巻き込むわけにはいかない。
『ケッ。贅沢ものめ。私にも分けろってんだ』
「僕だって、できることなら付き合いたいけどさ」
綾川は長く伸ばした前髪を気怠げにかき上げる。普段は分厚く長い前髪と眼帯までして隠している右眼が、夕陽に照らされる。
「この眼を見たとき、びっくりしてたからなぁ」
宇宙人との戦闘用に改造された綾川の右眼は、青に染まっていた。
それはカラーコンタクトで誤魔化せる範疇を超え、眼球そのものが青く、瞳孔の輪郭が黒く縁取られているため、一般人からは気味悪く見えるだろう。
記憶の処理をするという約束で、綾川は美倉にその眼を見せたが、その結果が綾川の黄昏ている理由そのものだった。尋常から離れた身体と生活。誰も巻き込まぬように青春を謳歌する同年代たちを眺め続ける日々。
普通の恋愛だって、したくなる。
『ちなみに、どんな女の子がいいの?』
「僕のことを理解してくれる子……かな」
『言い方キモ。そんなんでよく告白されたわね』
「宇宙人との戦いから僕がバックれたら人類は滅びるって分かってて言ってる?」
『冗談よ。それくらい許して……え?』
イヤホン越しの声が、途端に緊張を孕んだ。
『——待って。転移の形跡もなく、生体反応が湧いて出てきた……!? 綾川くん! そこに何がいる!?』
直後、カランと。
背後で音が聞こえた。
慌てて振り返った綾川は、一言。
「女の子が、います」
髪の長い、巫女服を着た少女だった。
ふと視線があった。
大きな瞳を細め、こちらをわずかに睨みつけて、
「あれ。人はいないって聞いてたのに」
ポツリと呟いた少女は、右手を前に差し出す。
その手には、九つの鈴がついた神楽鈴が握られていた。
先ほどの音は、あの鈴なのだろう。
「びっくり。あなた、影の病と戦えるんだ」
「影……えっ?」
「でも、殺すことはできない、か」
バラバラの死体を見て、少女は言った。
綾川は困惑から抜け出せぬまま、
「いや、こいつは僕が殺したよ。現に、ここまでバラバラに……」
「見えないの? 今、紡いでる最中だよ」
「は?」
『綾川くん、避けてッ!』
反射的に、綾川は横に飛ぶ。受け身すら取れない不恰好な回避。だが、そうでもしなければ、確実に死んでいた。
バラバラになった死体が繋がり、無数の関節を手に入れた四肢が鞭のように綾川を狙ったのだ。
「早苗さん!」
『生体反応はないのよ! そこにいるのは、間違いなく死体なのに……!』
「テケテケに近い形みたいだね」
そう呟いて。
少女は綾川の前に立つ。
「あ、危ないぞ!」
「問題ない。あと、私の名前は早苗じゃないよ?」
早苗との通信に気づいていないのか、少女は名乗りを上げる。
「私は藤白神奈。影の病を祓うために生まれた、地球の巫女」
パチン、と。
藤白は手に持った神楽鈴の一つを指で弾き、鳴らした。
直後。蜃気楼のように彼女の隣の空間が歪み、円形の襖が出現し、開く。
そこから現れたのは、純白の光を放つ狐。
「コンちゃん。半年分でお願い」
長髪が揺れる。
闇に溶けそうなほどに黒く艶やかな髪は、床に触れそうなほどに長い。
その美麗な髪を束ねると、躊躇いもなくその毛先を十センチほど懐から取り出した短刀で切り落とした。
「な、何をしてんだ……?」
ようやっと、綾川の口が動いた。
戸惑う綾川を見て、藤白は首を傾げる。
「贄だよ? 影の病を祓うための力には、対価がいるから」
「だからって、なんで髪の毛を……」
「……? 髪は女性の命でしょ?」
あっけらかんと答えて、切った髪を狐の口へと放り込む。
直後、契約の成立を伝えるかのように狐の体から黄金色の光が溢れ、彼女の持つ神楽鈴を包んでいく。
「ち、ちょっと待て! 君じゃあ、あいつには……」
「必ず勝てる。そのために私は生まれてきたから」
藤白は微笑み、光を纏う神楽鈴を撫でると、瞬く間にそれは白銀の刀へと姿を変えていく。
瞬間、藤白は地を蹴る。
純白の狐も合わせて動き、宇宙人の意識を引いたと同時、横薙ぎの一閃が背後から宇宙人を襲う。
しかし。
「あれ?」
宇宙人の首には、綻びの一つすらない。
「斬れなかった」
「あっっっぶねぇなァ!?」
宇宙人の反撃が藤白を襲う直前、綾川は彼女の身体を抱き抱えて強引に反撃を避けた。
「宇宙人の外殻は、あいつらの技術以外では傷つけられないんだ! 君には倒せない!」
「あの身体は、影の病に侵されているのに?」
「なんだそれ……!」
「あなた、もしかして知らずに戦ってたの?」
「こっちのセリフだっての! 宇宙人のことを知らずになんで戦ってんだ!?」
「宇宙人?」
綾川の問いかけに、藤白は不思議そうに首を傾げる。
妙な会話のテンポでペースを乱した綾川は、この戦闘での最適解を考える。
「バラバラにしてもダメなら打つ手なしだ、逃げよう!」
「あなた、あの身体を斬れるの?」
抱き抱えられたままの藤白が問いかけた。
反射的に、綾川は答える。
「それなら、できる」
「なら、勝てるよ」
信じられなかった。
未知の敵に、不可思議な力。この言葉を鵜呑みにして失敗をすれば、この世界の終わりだ。
焦る綾川は、髪をかき上げて、すぐに気づく。
「あ、ごめん。僕の眼……」
蒼い眼を、綾川はすぐに髪で隠す。
それを見て、藤白は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたの」
「いや、僕の眼って、不気味だろうから」
「……? そんなことないよ。昔にお祭りで見た水ヨーヨーみたいで可愛い」
「…………、」
綾川はほんのわずかだけ眼を丸くして、
「あははっ!」
大笑いをして、藤白の瞳をまっすぐに見つめる。
「信じるよ。君のこと」
大人は理解してくれない理由だと、綾川は思う。
だが、彼女を信じて負けるのならばそれでいいと、そう思ってしまった。
「だから、もう一つだけ聞かせてくれ」
あり得るはずのない存在に、綾川は期待をしていた。
世界中でただ一人、その言葉を綾川だけが望んでいた。
「君の目的は?」
「そんなの一つしかない」
藤白の声に、綾川は言葉を重ねる。
「私は影の病を」
「僕は宇宙人を」
奇しくも。
全く別の起源から生まれたこの世界を脅かす脅威は。
「「地球を蝕むドッペルゲンガーを、殺すために」」
同じ形として、この地球に存在していた。
人に擬態し、人間を滅ぼす宇宙人。
藤白のいう影の病も、同じような存在なのだろう。
その影が不幸にも重なり、新たな脅威となって目の前に現れた。
だが、二つの影の天敵も、出会いを果たした。
勝利の確信を持って、綾川は敵を見つめる。
「合図をするから、その瞬間に斬ってくれ」
「でも、さっきは斬れなかったよ?」
「お膳立ては僕がやるから!」
綾川はゆらゆらと蠢く宇宙人の近くを指差すが、藤白は目を細めて、
「……上手く見えない」
「ま、まさか何らかの攻撃が……!?」
「ううん。近視なだけ」
「もしかして君、ミステリアスなフリして何にも考えてないタイプ!?」
綾川は声を張り上げながらも、すぐに呼吸を整え、叫ぶ。
「ああもう、いくぞ!」
綾川は握りしめた拳から人差し指と中指を伸ばし、銃の形を作った。
「——座標、確定」
空間転移。
これが、この世界で唯一綾川が持つ宇宙人に対応しうる力。
青白い直方体を生成し、空間そのものを切り取り、指定箇所に張り付ける。この単なる移動手段を、綾川は攻撃に転用する。極限まで薄くした直方体によって空間を同じ場所に転移させ、物質の繋がりを空間ごと切り落とす光の刃物を生み出す。
乱雑に展開された転移の刃は、無作為に宇宙人の外殻を切り刻み、その中に潜む影の病を引き摺り出す。
同時。青白い直方体が藤白を敵の背後に転移させた刹那。瞬く間に宇宙人の体を繋ぐ影は切り刻まれ、繋ぎ止める支えを失った肉片が、積み上がっていく。
今度こそ。宇宙人は完全に沈黙した。
「……勝った」
着地した綾川は、死体の横に立つ藤白を見つめる。
長い髪が、風に揺れる。
その隙間から垣間見える横顔に、綾川は目を奪われる。
『……くん! 綾川くん!』
極限の集中力から解放され、イヤホンから響く早苗の声が鼓膜を叩く。
その声には、敵を倒したとは思えぬほどの焦燥があった。
『バイタル数値の上昇が通常のものではないわ! すぐに注射を——』
「早苗さん」
この鼓動の高鳴りの理由を、綾川は既に理解していた。
見つめる先は、ほんの数分前にあったばかりの少女。
藤白には聞こえないほどの小さな声で、綾川はポツリと呟いた。
「僕、あの子のこと、好きになっちゃった」