7:先輩と再会(1)
中庭を出て早足でロッカールームへと向かったエルーシアは、すぐに予備の制服に着替えた。
「洗濯しなきゃ……」
ロッカールームの外の茂みで濡れた制服をギュッと絞る彼女の頬からは一筋の雫が流れる。
「は?泣いてないし」
そう、泣いてはいない。これは目から汗が出ているだけだ。エルーシアは制服の袖口でその汗を拭った。
「さて、一旦寮に戻って洗濯室に……」
気持ちを切り替え、回れ右をしてまた歩き出そうとするエルーシア。
しかし何故だか足が動かない。それどころか、フッと体から力が抜け、崩れ落ちるようにその場に蹲ってしまった。
「あれ?おかしいな。はは……」
なんて一人で笑って誤魔化して見せるが、何もおかしいことはない。まだ15の少女が三ヶ月もの間、大した理由もなく敵意を向けられ続けるのだ。精神を消耗するのは必然と言えるだろう。
「ああ……、情けないなぁ」
ようやく自分が限界を迎えていることに気づいたエルーシアは膝に顔を埋めた。
そして自分の中にある鬱々しい感情をため息と一緒に吐き出す。
ここで具体的に泣き言や愚痴を口に出してしまうと、もうこれ以上頑張れなくなりそうで、彼女はめげそうな心を言葉にして吐き出したりはなかった。
「……新入生?」
ふと聞こえた懐かしい声にエルーシアは顔をあげた。そこにいたのは入学式の時に声をかけてくれた黒髪赤目の不健康そうな先輩。
「あ、えっとー、ど、どうも。お久しぶりです……、その、えっと…………、先輩?」
名前が思い出せない。気まずいエルーシアはスッと目を逸らせた。
(どうしよう。お守りみたいな物まで貰ったのに流石に失礼すぎるよね……?)
冷や汗をダラダラと流しながら、目を泳がせるエルーシア。
その視線で事情を察したライカはフッと笑みをこぼした。
「ライカだ」
「ふぇ?」
「ライカ・ヴァインライヒ」
長い前髪の隙間から覗く彼の赤い瞳が、フッと細くなったのを見て『バレた』とわかり、エルーシアの体は熱くなる。
「……別に、お、覚えてましたよ!?ライカ・ヴァインライヒ先輩!」
「ムキになるとより怪しく聞こえるぞ」
「本当に覚えてたもん!」
「はいはい」
「ううっ……」
恩人の名も覚えていない自分が恥ずかしくて、エルーシアは手で顔を覆った。
ライカはそんな彼女の前に跪くと、その細い手首を掴み、強引に顔から引き剥がした。
「久しぶり」
「……お、お久しぶりです」
「なんか大変みたいだな」
「ああ、ご存知でしたか」
「知らないやつはいないだろう。今までよく頑張ったな」
エルーシア・ヘルツが第一王子に横恋慕しているという噂も、そのせいで入学初日に公開処刑されたことも、ひどいいじめに遭っていることも。そして、エルーシアが一人でそれに耐えていることも知っているとライカは言う。
学年が違っていてもそういう情報は入ってくるらしい。
頑張っていることを褒めてくれているような口調にエルーシアは少しだけ心が救われたような気がした。
けれど同時にとある事を思い出し、エルーシアは怪訝な視線を彼に向けた。
「…………ん?」
「ん?どうした?」
「あのー、もしかしてはじめから全部知っていたんですか?」
今のエルーシアの置かれている状況を予見していたから、何の接点もない新入生を気遣い、お守りを渡した。そう考えると、あの時の意味深な発言も態度も納得できる。
そしてこの事態を予見できるということは、この男は何か知っているということでもあるわけで。
エルーシアはゆっくりと立ち上がると、蔑むようにライカを見下ろした。
「先輩?」
「あー、えっと……」
今度はライカが気まずそうに目を左右に泳がせる。しかしエルーシアは彼を逃しはしない。
「先輩。答えてください。第一王子殿下は私に好かれていると思っているようですが、それは何故ですか?」
「……」
「なぜ、アンネリーゼ・ヘッセンバイツは私を敵視するのですか?」
「……」
「もしかして何も答えないつもりですか?先輩も奴らの手先なのですか。私、今すごく虫の居所が悪いので答えてくれないのなら、うっかり貴方の頭を蹴り飛ばしてしまいそうです」
エルーシアは足を上げ、つま先をライカの肩に置いた。
跪く男に、その男を足蹴にする女。側から見れば女王様と下僕に見えなくもない。
偶然二人の背後を通り過ぎた生徒は見てはいけないものでも見てしまったかのように、ヒソヒソ話をしながら早足で駆けて行った。
「……この格好、冷静になると恥ずかしいですね」
「ならやめろよ。し、下着が見えるぞ……」
ライカはうっかりスカートの中を見てしまわないよう、下を向いたままギュッと目を閉じた。ほんのり頬が赤いところを見るに照れているのだろう。
エルーシアはおとなしく足を下ろすと、とりあえず舌を鳴らした。
「舌打ちはやめろ。女の子だろうが」
「女だろうが苛立つことがあれば舌打ちくらいします。それより、もう顔上げて大丈夫ですよ。先輩」
「うむ」
言われるがまま、顔を上げるライカ。
エルーシアはそんな彼の胸ぐらを掴むと無理やり立ち上がらせ、ぐいっと自分の顔を近づけた。
「さあ、白状してください」
エルーシアのエメラルドの瞳が、ライカを捉える。
ライカはたまらず目を逸らそうとするが、エルーシアはそれを許さない。
「せーんぱい?話して」
「……話しても信じてもらえるとは思えない」
「そんなに突拍子もないことなんですか?」
「まあ、な」
「でも話してくれないと、それが信じられるかどうかを判断できません」
「それは確かにそうなんだが……」
「私は当事者です。知る権利があるかと思いますが?」
エルーシアはライカの美しい真紅の瞳を覗き込んだ。お互いの瞳にお互いの顔が映る。
ライカは彼女の切実な眼差しに、だんだんと申し訳なくなってきた。
(エルーシア・ヘルツか……)
エルーシアと関わることで、本当に自分は彼女を好きになるのだろうか。
もしそうなる未来があるのなら、それはアンネリーゼの予言が正しかったことを証明してしまうようで気持ちが悪い。
しかし、かといって愚かな王子たちのようにアンネリーゼに傅く男たちの一人にはなりたくない。
そんな思いが邪魔をして、エルーシアの状況を把握していながらもずっと見て見ぬ振りした。
正直自分でも最低なことをしているという自覚はある。だが、どうしてもアンネリーゼの、あの狡猾な幼馴染の予言通りには生きたくなかった。
(でも……、流石にこれはダメだよな)
流石に血を流すような事態になってしまったとなると、もう見て見ぬ振りもできない。これで目を背けたら良心が痛むどころではない。自分自身に失望するだろう。
「……はあ。仕方がない」
ライカは小さく呟くと、腹を括った。