3:悪役令嬢アンネリーゼ・ヘッセンバイツ
入学式後、アンネリーゼたちは学園内にあるサロンを貸し切りにしてお茶会を開いていた。
出席者は兄リシャールに婚約者のハインツと幼馴染のレオン。
アンネリーゼは彼らに、自らの手で入れたお茶を振る舞った。
「さあ、どうぞ。召し上がれ?」
手慣れた様子でお茶を入れるアンネリーゼ。
彼女の緩く波打つ銀の髪からは、薔薇の匂いがした。麻薬のようなその甘い香りに、彼ら頬を染める。
「ありがとう、アンネ」
「お礼を言うのはこちらですわ、殿下。先ほどは本当に感動いたしました」
「先ほど?」
「ええ、お兄様。先ほどの入学式で、殿下はヒロインを前にしてわたくしへの変わらぬ愛を宣言してくださったのです」
「そんなことをなさったのですか、殿下」
「まあ、一応ね。初めに釘を刺しておくことは大事だろう?」
「レオンも一緒にヒロインに立ち向かってくれて、わたくしはとっても嬉しかったわ」
「アンネのためなら当然だ!」
「ふふっ。みんな、ありがとうございます」
ハインツの隣に座ったアンネリーゼは瞳を潤ませ、さりげなく彼の膝の上に手を置き、安堵の表情を見せた。白磁の頬がほんのりと紅く染まり、艶のある薄紅色の唇は軽く弧を描く。
ここにいる愚かな彼らにとって、アンネリーゼはまさに地上に舞い降りた天使そのもの。
「ああ、アンネリーゼ。私にとってのヒロインは永遠に君だけだよ」
ハインツはアンネリーゼの手を取ると、その甲にそっと口付けた。
それに釣られるように、他の二人も彼女に近づき、愛を囁く。
「そうさ。俺の目にはアンネ以外映らない」
「私の可愛いアンネリーゼ。君の幸せを邪魔する奴はお義兄様が懲らしめてやるからな」
リシャールはアンネリーゼの髪に口付けし、レオンは騎士らしく彼女の前に跪いた。その光景は乙女ゲームの逆ハーレムルートのスチルくらいに綺麗な光景だった。
まるで自分が世界の中心にでもなったような、そんな気分。アンネリーゼは高揚する気持ちを抑えて淑女らしく微笑むも、内心では狂喜乱舞していた。
(……レオンの攻略はギリギリだったけど、なんとか物語開始前までに間に合って良かった。これでようやく、安心して眠れるわ)
この世界が前世で一度だけプレイしたことのある乙女ゲームの世界だと自覚してから、アンネリーゼは記憶に残るあの悲惨な結末を回避するために必死に努力した。
外見を磨き、勉強や所作だけでなく、社交や慈善活動に至るまで、ありとあらゆることを完璧にこなした。
そして自分を断罪する予定の攻略対象たちには媚に媚びて媚びまくってきた。
絶対に前世のように惨めに死にたくはなかったから、信念もプライドも捨てて死に物狂いで努力した。
その結果、今やライカ・ヴァインライヒを除く三人の攻略対象はアンネリーゼにぞっこんで、社交界でも彼女の味方は多い。
(ライカは元々攻略難易度が高いし、今回のことで針の筵に座らされてしまったヒロインにライカを攻略する余裕なんてないはず……)
本来、ヒロインのエルーシアは入学式の前にアカデミー内で迷子になっていたところをライカに助けてもらい、講堂まで案内される予定だった。
入学式では壇上で挨拶をするハインツと目が合い、講堂を出たところでレオンとぶつかって軽く会話を交わし、リシャールには事務局に赴いた際に偶然出会う予定だった。
そしてエルーシアはこれらの出会いをきっかけにして、彼らと交流を持ちながら、ゲームの物語を進めていくはずだった。
だが今の彼女は、アンネリーゼの策によりライカ以外の攻略対象との出会いを全て潰されている。出だしは好調だ。
アンネリーゼは自分の思い通りの展開になっていることに喜びを隠せず、扇で口元を隠しながらニヤリと口角を上げた。
(あとはヒロインが攻略対象に近づこうなんて思わないように、取り巻きたちを使って彼女の戦意を消失させればいいわ。……まあ、もうすでに心が折れているかもしれないけれど)
エルーシアは物語のプロローグ時点で、既にゲームのラストで悪役令嬢アンネリーゼが経験する断罪劇に酷似したことをされた。
仮にエルーシアが転生者であったのなら、攻略対象の好感度がマイナスの状態からスタートせねばならないことに絶望するだろうし、逆に転生者でなかったとしたら、それこそもう心はぽっきりと折れているはずだ。
なぜならこのゲームのエルーシアは泣き虫でか弱い、守ってあげたくなるような女の子なのだから。
(エルーシア・ヘルツみたいな女、大嫌いよ)
甘言を弄して攻略対象を誘惑し、貴族社会でタブーとされるような常識はずれなことをしては『面白い女』と興味をもたれ、そして危機が迫ると泣けば守ってもらえるポジションにいる超絶あざとい女。前世で結婚間近だった彼氏を横から掻っ攫っていったあの悪女にそっくりだ。
ああ、思い出しただけで腹が立つ。アンネリーゼはあの悪女を思い出してギリッと奥歯を鳴らした。
「アンネ、何を考えているんだ?」
先ほどから、言葉を発さずに何かを考えている様子の婚約者をハインツは心配そうに見つめる。
他の二人も、何か心配事があるのなら言ってごらんと優しく微笑んだ。あまりにも原作とは違う彼らの態度に、アンネリーゼは吹き出しそうになる気持ちを抑えつつ、少し瞳を潤ませて視線を足元へと移した。
「いいえ、何でもありませんわ……」
「何でもない顔をしていないよ。あの平民のことかな?」
「あの女がまだ君を悩ませるのか?」
「大丈夫だよ。お兄様が何とかしてあげるから。ほら、心配しないで言ってみて」
「……実は、先ほどの入学式での彼女の、その、目が気になって」
「目?」
「殿下やレオンを見る目は明らかに恋する女の子の目だったのに、わたくしを見る目は憎悪に満ちていて……。とても怖かったんです」
アンネリーゼはううっと泣き真似をして両手で顔を覆った。
けれど、このわざとらしすぎる演技に彼らが気づく気配はない。
それこそまるで、禁断の呪術【魅了】にでもかかったかのように。
「エルーシアさんがこれから先、わたくしや皆に何かするんじゃないかと心配で……」
アンネリーゼが一筋の涙を流すと、三人は一斉に『心配するな』『大丈夫だ』と優しく声をかけた。
そして自分たちが守るから、と。君を害するものはどんな奴でも許さない、と言って彼女を抱きしめる。
彼らはもう、アンネリーゼという毒花の味を知ってしまい、考えるということができなくなっていた。
アンネリーゼから聞いた話だけで全てを判断し、アンネリーゼが嫌っているからという理由だけで、一人の何の罪もない少女を排除しようとしていることに気づいていないのだ。
まるで自分たちが正義の味方であるかのように勘違いして、自分たちの行動が正しいのだと信じて疑わない。
……まさに地獄絵図。
思考を放棄したこの国の未来を担う子息たちと、それを操る悪女。
サロンに控えていた第一王子付きの従者たちは顔を見合わせて肩をすくめた。