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「くだらねぇ」
心底本音だった。
目の前をチラチラと舞う千早も、耳にリンリンと響く鈴の音も、何もかもが不快で仕方なかった。
久々に降り立った人界は、空気が澱んでいるわ夜が薄明るいわ、とにかく最悪だった。
その不快感も載せて低く舌打ちを放ちながら、不愉快な根本を睥睨する。
巫女としてそれなりの能力は持ち合わせているのか、相手の目に一応オレの姿は映っているようだった。キョトンと不思議なモノを見るような瞳で、少女はオレのことを見上げてくる。
「そんなもんリンリン鳴らしてクルクル回ってるだけで、神が本当に喜ぶと思ってんのかよ? だとしたら、おめでたいガキだな。目ざわりでしかないんだよ」
その澄んだ漆黒の瞳を、どうしてだか叩き割りたくなった。
だからオレは、衝動的に言葉を投げつける。
「失せな、人間のガキ。オレをこれ以上苛立たせんじゃねぇよ」
少女の瞳が、揺れた。そのことにようやくオレはわずかに溜飲を下げる。
言いたいことは言った。ここまで突き放せばこのガキだって泣いて帰る。それで終わり。
オレは苛立ちとともに身を翻し、己の神域へ立ち戻るべく足を踏み出す。
だがオレの予想に反して、少女は黙ったままではいなかった。
「……あなたは」
これも巫女としての才なのか、オレはその言葉に無意識のうちに足を止めていた。
「あなたは、さみしいのね」
「……はぁ?」
だがその声がいくら力に溢れていようとも、苛立った耳でも心地よく聞こえるものであろうとも、その言葉を聞き捨てることはできなかった。
「テメェ……今、何つったよ? ア?」
「だって、イヤなことを、わざわざ姿をあらわして、言霊としてださなくちゃいけないくらい、話す相手も言葉もないのでしょう?」
不愉快なことを不愉快だと口にしただけで、どうしてそんな頓珍漢な解釈をされなければならないのか。
苛立ちとともに振り返り、神界に戻ろうとしていた体を止め、人界を再び踏みつける。そんなオレに向かって、少女はさらに言葉を継いだ。
「とうさま、言ってたよ。楽しいことがいっぱいあれば、さみしい思いをしていなければ、イヤなことをわざわざ口に出す時間がおしいはずだって。楽しいことを話すのにいそがしくって、イヤなことを口にしなくなるんだよって。だからユキも、イヤなことを話すひまなんてないくらいに、楽しいことをみつけなさいって」
視線に殺意さえ載せたというのに、少女はオレから視線をそらさなかった。
それどころか、真っ直ぐにオレの瞳を見つめて、ニパッと笑う。
「そうだよね、さみしいよね。こんな山の中にひとりでいたら、だれにも会わないもんね」
「はぁ? オレは誰かに会うことなんか望んでな……」
「ずっとひとりでいると、ひとりのさみしさが分からなくなるんだって。暗い心に、むしば……えっと、むしばまれている? ことさえ、分からなくなるんだって。……そうだ!」
少女は何かを思いついたように手を叩いた。両手にそれぞれ舞扇と神楽鈴を持っていたから手自体は音を立てなかったが、シャリンッとまるで少女に同意するかのように神楽鈴が清涼な音をこぼす。
その音と少女の無邪気さに、なぜか背筋に悪寒が走った。神である、オレの背筋に、だ。
「わたしがあなたをここから出してあげるっ!!」
「はぁっ!?」
「町に出て、いろんな人とおしゃべりするようになれば、さみしい気持ちが分かるよ! それといっしょに、楽しい時間も、きっとふえると思うの! そしたらきっと、イヤなことを口にしてる時間なんてなくなるよ!!」
「ざっけんなっ!! オレはこの静かな空間が気に入ってんだっ!! 何が楽しくて外になんて……っ!!」
オレの勘は当たっていた。慌てて言い募るが、少女は聞いちゃいない。いっちょ前に腕を組んでウンウン何かに悩んでいる。
オレはその隙に神界へ撤収を試みた。人間のガキ相手に撤退を余議されるなんて腹立たしいことこの上ないが、背に腹は代えられない。
「っ!?」
だがその恥の逃走さえ、オレには許されていなかった。
人の目には映らない神界へ続く扉が、なぜか開かない。目を凝らして見てみると、キラキラと黄金色に輝く糸がオレの周囲をたゆたっていた。
糸はオレの体や扉に複雑に絡まっていて、簡単に外れそうな気配はない。とっさに糸を引き千切ろうと指をかけるが、オレの指は糸に触れられずにすり抜けてしまう。
──どうなってやがるんだ、これ……っ!!
「決めた!」
自分がどんな状況に立たされているのかイマイチよく分からないし、何が自分をこんなに急き立てているのかも分からない。
だがオレはなぜか、背後から響いた無邪気な声にビクッと体を震わせた。耳と尻尾が毛羽立っているのが自分でも分かる。
「あのね、あなたをここから出してあげるには、名前が必要なの。神名じゃなくて、わたしとあなたのあいだに……えっと……きず、…きずな! そう、きずなを作るための名前なんだって。わたし、決めたよ!」
恐る恐る振り返る。変わらずそこに立っている少女は、キラキラと瞳を輝かせてオレのことを見上げていた。
「あなたの名前は……」
可憐な唇が、美しい声音で、絶対の力を込めた言霊を紡ぐ。
ああ、逃げられない。
黄金色の糸が、実体をもってオレを縛りあげていく。
──クッソ……! クッソ……っ!!
望んでいない縁の糸に、オレは犬歯を剝き出しにして少女を睨み付ける。
だというのになぜかオレの心の奥底では、その感触を甘く心地良いものだと感じる自分もいた気がした。