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殿下のお越し、化粧水卿との密談




「とにかく彼女に対しては洗わせてくれないかと頼んだだけだ。他意はない」

「あら、そうお? あなたがそうおっしゃるなら、信じてあげてもいいけど、わたし以外はどうかしらね?」

 痛いところを突かれた。石鹸卿は唸る。

 バニシングはにんまりしてから、表情をかえた。「あら、あら、まあ……殿下がおいでになるなんて……」

 彼女は慌てて立ち上がり、石鹸卿も優雅に立ち上がる。出入り口辺りに悠然と立っていたのは、今の今まで石鹸卿が考えていた王族シンセティックディタージャント家の人物、執政皇太子のラス殿下だった。


 貴族達の挨拶ににこやかに応じ、殿下はゆっくりとバニシングのもとへ歩いてきた。「バニシング、今日もお美しい」

「まあ、殿下、嬉しいお言葉ですわ」

 バニシングが膝を曲げて礼をし、石鹸卿も立場と情況に相応しいお辞儀をする。殿下は微笑んで、石鹸卿の肩口を親しげに叩く。

「久し振りだね? ラノリン」

「ひと月前にお目にかかりました」

「僕にとってひと月は長い。なにせまだうまれたばかりだ」

 石鹸卿は愛想なく肩をすくめた。殿下はくすくす笑う。

 殿下は自然に席に着き、石鹸卿へ隣に座るように命じた。石鹸卿はそれに従う。バニシングはふたりに飲みものを用意するように、男の使用人に命じている。

「君がこのような場所へ来るのはめずらしいのでは?」

「殿下もでしょう」

「僕は、愛に目覚めた石鹸卿がここのチケットを入手したと聴いたので、話題の女性と一緒なのかと思ったんだ。ひと目見てみようとね」

「あまり趣味が宜しくないですな」

 傍で会話を聴いていたバニシングが、つめたい場所へ置かれていたみたいにかたくなった。殿下はくすくすしている。

「僕も興味がある。ウール・マット嬢……羊毛を洗うのは、君は不得手では? 僕なら問題ない」

「何事もやりようはあります」

「年の功だ。いや、君ら一族の歴史と伝統と云ったほうが?」

「なんとでも」

 石鹸卿は石鹸の一族だ。石鹸とは、八つ以上の炭素原子を含む脂肪酸と、アルカリが結びついた形を云う。

 それに対して現在の王族は、所謂合成洗剤だ。なかでも執政皇太子は、リニアアルキルベンゼンスルホン酸ナトリウムという、環境負荷が少ない部類の洗剤だった。

 役割は近いが、組成が違う。だから「石鹸」と「洗剤」は仲が悪いのだろうと思われがちだが、そんなことはない。石鹸には石鹸の得意な領域と働きやすい環境があり、合成洗剤にもそれがある。すべてを綺麗に洗える洗浄剤など存在しないのだから、いがみ合うのではなく手を結ぶのが平和的、そして文明的だ。


「弟君はお元気ですか」

「ああ。直鎖の連中は大体調子がいいよ」

「最近、オイル=エステル=ワックス家と親しくされているとか」

「中鎖の連中とだけさ」

 おざなりに答え、殿下は身を乗り出す。「で、石鹸卿。君が初対面の淑女に求婚して、こっぴどく振られたと聴いたけれど」

「生憎、ずぼんを汚すような真似はしていません。ベストとブーツはクラレットまみれになりましたが」

「どういう意味?」

「言葉通りです」

 木で鼻をくくったような答えだが、殿下は満足して頷いた。「君はそのお嬢さんに夢中だ」

「なにを、ばかな」

「自分が興味を持つものはかがやいて見えるね、ラノリン? 君が彼女の話をする調子を、かわりに聴かせてやりたいくらいだ。なんにも興味はない、マット嬢に魅力などなにもない、どうぞそっとしておいてやってください、とでも云いたげだったよ。いい子だと認めたら僕が奪いとって洗濯すると思ってる」

 云い返したかったが、うまく言葉が出てこない。石鹸卿は黙りこみ、バニシングが運ばれてきたシードルを震え声ですすめた。


 殿下は優雅にシードルを味わい、石鹸卿にもすすめた。石鹸卿はむっつりしたまま、味もわからずにシードルをあおる。りんごの香りがつくのはまだ許容できる。ぶどうの香りは好かない。

「マット嬢がここへ来るかどうかだけ訊ねていいかな」

「来ません」

 石鹸卿はぴしゃりと返す。バニシングがいいそえた。「マット嬢は、社交場にはいらっしゃいませんわ。パーティにも、あれから何度かしか」

「奥床しいお嬢さんだと噂だね。いつでも編み物をしているとか」

 石鹸卿はどきっとして、思わずジャケットの内ポケットのある場所へ手を伸ばしそうになる。そこには、ウール嬢が落としていった毛糸玉と、薔薇のモチーフ、そしてシャトルがあった。

 バニシングが少々ゆるくなった。熱を持っているのだろう。

「殿下、あのう、これは中傷ではないのですが?」

「なんです、バニシング?」

「マット嬢は、シューズ家ではあまり、よい扱いをされていないようです。ドレスも自分で仕立てているとか」

「なんだって? それはおかしな話だな」

 殿下が眉をひそめた。殿下が黙りこみ、バニシングがはっとする。

「石鹸卿、お目当てのひとがいらしたわよ」

 かすかな歓声が起こり、出入り口のほうを見ると、若々しいが若作りではない化粧水卿が、まだ幼さの残る孫と一緒に這入ってくるところだった。




 石鹸卿は立ち上がり、殿下へ断ってから化粧水卿へ近付いていく。彼はもう若者ではないが、「年寄り」にしては物わかりがよく洒落者で、気前がいい。自分の一族以外には口幅ったいことも云わず、お説教臭くないのに話が面白い……ということで、こういった社交場で若者に囲まれるタイプだった。

「やあ、石鹸卿」

「どうも、化粧水卿」

 ふたりは親しげに握手をかわした。化粧水卿を取り囲んでいた若者達が沸き立つ。「閣下、石鹸卿とお知り合いなのですか?」

「紹介してくださいませんか?」

 まだ毛玉も付いていない、可愛らしいプルオーバー家の若者が、化粧水卿におねだりした。化粧水卿は相好を崩す。テトロン卿がそれに続き、石鹸卿はしばし、化粧水卿によって社交界の、なかでも品行方正な若者達を、ひとわたり紹介されることになった。化粧水卿も付き合う相手は選んでいて、決闘をしたりメイドにちょっかいをかけたりするようなまぬけは居ない。


「議会でお見かけしたことがあります」

「ああ、そのようだ。失礼?」

「サージです」

「ああ、サージ卿……」

 サージ卿まったく見事な綿の綾織りだが、端のほうに幾らか汚れがあった。思わず見詰めていると、サージ卿はぎゅっと織り目を縮こまらせ、もごもごとなにか云いながら廊下へ逃げていく。たしかテキスタイル一族は、ファブリック一族と先祖が同じだったな……。

 化粧水卿が咳払いした。「わたしになにか話があるのでは?」

 石鹸卿が頷くと、おとなしく賢い若者達は心得て、それぞれに用事を見付けて離れていった。石鹸卿は化粧水卿を促して、誰にも邪魔されないように控え室へと向かった。

「わたしもまぜてもらえないかな」

 びくついて振り返り、石鹸卿は唖然とした。殿下が立っている。儀仗兵もつれず、実に身軽に。

 化粧水卿もやはり驚いていて、ちゃぷちゃぷと音をたてる。「殿下」

「静かに、穏やかに、話し合おう」

 殿下は声を低くする。歌うような愉快な調子で続けた。邪魔されないように、聴き耳を立てられないように。




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