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バニシング・クリームのサロンにて




 数週間後、石鹸卿はバニシング・クリームの主催するサロン、「油脂は控えめに」を訪れていた。しかめ面で特等席に陣どっている石鹸卿を、貴族の子女がものめずらしげに見ている。石鹸卿ならここのチケットを手にいれるのは造作もないことだろう。だが、彼がここに来るなんて考えられない。

 着飾ったバニシングがゆるやかなあしどりで歩いてきた。

「よくいらしてくれたわ、石鹸卿」

「ここは名前がよくない」

 挨拶ぬきの石鹸卿の言葉に、バニシング・クリームは微笑み、彼の隣に座った。「わたしのアイデンティティですもの」

「君に賛同する者ばかりになったら我が一族は滅ぶな。オイル=エステル=ワックス家も、どうしてこんな不道徳な名称の場所へ出入りする?」

「そんなことを云わないで」

 バニシングは親しげに石鹸卿の手を叩いた。石鹸卿がそれに対して軽く鼻を鳴らしただけだったので、息を潜めてことの成り行きを見ていた者達は驚いた。

 石鹸卿は、バニシングが結婚していたコールドと友人だった。歳はコールドがかなり上だったが、不思議と馬が合い、親しく付き合いしていたのだ。コールドは酔うと、自分は荒れた肌にいいだけではなく、化粧落としの時にもつかえるのだとよくぶちあげていたものである。


 コールドが亡くなり、バニシングが未亡人になってからは、クリーム家との付き合いはほとんどなくなっていた。そのクリーム家に連絡をとり、バニシングに頼み込んでここのチケットを手配してもらったのは、なにもかもウール・マットの為だ。

 あの……忌々しいバターのデビューの日、ウール・マットは無礼にも石鹸卿の申し出を断ったのだ。それも、大声で。


 彼女はまるで、石鹸卿がゆるしを得ずに体を洗おうとしたかのように、編み目を縮こまらせ、怯えた様子で広間を出て行ってしまった。とりのこされた石鹸卿は、彼女が落としていった細い毛糸の塊とシャトル、それに繊細に編まれた薔薇のモチーフをとりあげながら、鹸化の際の熱を思い出していた……羞恥に身を焼かれながら。


 ウール・マットは巾着を洗い、シューズ家のやつらと帰っていったらしい。

 石鹸卿は大惨事の後片付けを使用人だけに任せられず、テーブルクロスやナプキンを洗いながら、自分の評判について考えていた。年甲斐もなくうら若い淑女に粉をかけようとして、にべもなくはねつけられた、情けない独り者。それが順当なところだろう。翌日どころかあの瞬間から醜聞がひろまっていったに違いない。

 考えていると、ヴィネガー一族のつかったナプキンをうっかり洗ってしまって、石鹸卿はしばらくねばねばと格闘することになった。


「それで、訊きたいことって?」

 石鹸卿は脚を組みかえ、新調した横縞の靴下を見せびらかした。バニシングが横目をつかう。「マット嬢の評判」

「上々」バニシングは情感たっぷりに頷いた。「ちょっと汚いとこもあるけど、それも野性的だって評判よ。彼女がわざと汚くしていると思っているひとも居るみたい。真似してるの」

「信じがたい」

 石鹸卿は唸って、指を組む。たまごを模した指環が途端に煩わしくなった。昔ながらの灰汁でつくられていた祖先達は、たまごを崇拝していたのだろう。こんな古くさいもの。

「わたしが若い頃は、歳上の連中からもっと身なりをきちんとしろだのきちんと枠にはいっていないからでこぼこになるのだなどと口煩く云われたものだが、その度に不思議だった。歳をとると若者が汚く見えるのだろうか、自分もいずれそうなるのかと。だがたしかめる機会を失った。汚くするのが若者の間ではやっているものだから」

「あら、はやらせたのはどなた? 未婚の娘になびかなかったあなたが、パーティ中にまともに口説いたんでしょう」

「違う。洗わせてもらいたいと云っただけだ」


 即座に否定してから、石鹸卿は口をぱくつかせる。たしかにあの言葉は、なんとも……遠慮のないものだった。あまりにも礼を失していた。少なくとも、正式に紹介されていもしない娘に対して、面と向かって云うものではない。

 しかし、うすよごれた布である。織物だろうが編み物だろうが、汚れた布を見て洗いたくなるのはファッティアシッドコースティックソーダ一族の(さが)だ。

 まだまだこどもっぽい、そしてあのパーティの主役だったバターでさえ、ちらちらとウールを見て気にしていた。ほかにも数名居たファッティアシッドコースティックソーダ一族は、自分の気持ちをわかってくれるだろう。石鹸卿はそう考えていた。実際、パーティがお開きになったあと、あのお嬢さんをきちんと洗ってあげたの、とあのヘットが詰め寄ってきたのだ。あんな汚れた格好で表に出して、家族は恥知らずだ、と。

 ファッティアシッドコースティックソーダ一族内では妙な誤解はないが、一族以外には誤解されている。いや……王家の者は別だ。王家は洗剤の一族だから、ウールを見たらうずうずするに違いない。

 そう考えると、石鹸卿は自然と顔をゆがめていた。彼女を見て王家の者がうずうずする? その前に綺麗に洗ってあげなくては。ばかげた「汚れ」ばやりも収束させる。彼女が王族の目にとまったら、面白くない。

 どうして面白くないのか、を深く考えたくはなかった。恋愛なんてものは失敗と恥のもとでしかない。恋をすると愚かになる者が多すぎる。




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