石鹸卿の申し出
「……お嬢さん、酔っているのではないかな」
石鹸卿は油脂とアルカリが反応する時を思い出させる、外的要因ではない内部からの熱を感じさせる低めた声でそう云った。彼はコールドプロセスなのかしら……枠練りかもしれない……。
雪のように――いや、しっかり塩析した石鹸のように真っ白なベストが、クラレットで汚れている。房付きのヘシアンブーツもなかなかに残念な様子になっていた。端正なラウンドスクエアの石鹸卿に見とれていた彼女は、彼の装いが完璧さを欠いたことに気付いてほつれをひっぱられたような気分になった。
「せ、石鹸卿」
レイン・シューズはまるで靴底がぬけたみたいに、口をぱくつかせた。ウールは目を瞠る。彼女の手から、シャトルと毛糸玉がぽとんと落ちた。左手首にひっかけていた巾着がかすかにつめたくて、ウールはなんとか我をとりもどす。石鹸卿とて万能ではなく、彼女が編み物道具を持ち歩く為に自作した巾着は少々濡れていた。
石鹸卿がひややかな目で自分を見ている。ウールは身をすくませた。出掛けの洗濯の所為で今頃縮んだのだろうか、と思った。
石鹸卿はいとわしげにベストへ触れ、クラヴァットの歪みをさっと直す。興味なげにウールから目を逸らし、斜めにレインを見る。
――なんとみっともない娘だろう!
それが石鹸卿の感想だ。ゴム製なのはかまわないが、あの口の形状は? なぜスカラップに? それにあの意味のわからないリボンは? 彼女はレイン・シューズだろう。どうして雨や泥で汚れるのにわざわざ飾り立てているんだ?
彼は自分の役割から逸脱しようとする者が好きではなかった。最近だと、シザー家の十枚刃の若者が、海苔のかわりに紙を切りはじめたと話題になり、もやもやとしたものを感じた。
心中に渦巻くものを表に出さず、石鹸卿は素っ気なく云った。声を出してから、斜め後ろに控えているおとなしい令嬢をおどかしたかもしれないと思ったが、後の祭りだ。
「酒に慣れるまではあまりすごさぬほうがいい。もっとも、すごさないと慣れないという問題があるのだが」
「石鹸卿、し、失礼をいたしました、あの」
「いや」
石鹸卿は手で押しとどめるようにして、レインを黙らせた。そのことにウールは驚き、なおかつ幾らか留飲を下げたのだが、石鹸卿はウールが怯えていると思って、多少声のトーンを和らげる。それから苦労して、ついさっき執事にきいたばかりの、古くさい一族の名前を思い出した。あの一族は死に絶えたと思っていたのだが、まだ娘が残っていたのだ。「君はこの、マット嬢に飲みものを持ってきただけだ。他意はないとわかっている。わたしも彼女も」
「あ、ありがとうございます伯爵さま」
「謝罪される謂われはないし、礼を云われる筋合いもない。使用人に云いきかせよう。うら若いお嬢さんに何杯も酒を渡すものではないと。控え室で休んではどうかな? あー……失礼、思い出した。シューズ家の娘さん」
「仰せの通りにいたします……」
レインは小雨のようにかすかな声で云い、すごすごとさがっていった。アンブレラ嬢と、やはりレインの「お友達」であるサンシェード嬢が、ウールを睨むようにしてからそれを追う。ウールはそれから目を逸らした。
石鹸卿は頷く。みっともない娘達を長く見ていたくなかったのだ。
「それを洗ったほうが」
お礼を申し上げなくては、いや無礼をわびるべきかしら?
そんなことを考えていたウールは、石鹸卿に話しかけられたことに一瞬気付かなかった。それからはっとして、顔を俯ける。
「伯爵さま、ご迷惑を」
「なにも迷惑ではない」石鹸卿はそう答えてから、今のは嘘があったな、と考え、云い添えた。「いや、こんなに大人数に集まられるだけで迷惑だから、それ以上になにかしたくらいで君が気に病むことはない。第一、君はなにもしていないのだから」
石鹸卿はかなり厳しい、そして潔癖なところのあるかただとウールは聴いていた。きっとご自分の大切なお邸に、どかどかと足を踏みいれられるのが我慢ならないのだわ。わたしみたいによその一族からひきとった子どもを、シューズ家がきらっているのと同じ。たまたま、遠い祖先で血がつながっているというだけで……。
石鹸卿は、魂を失ったように黙りこんだ娘を見て、顔をしかめた。彼は若い娘に秋波を送られることや、怯えられることに慣れてはいても、ウールのようにぼんやりとした様子を見せる娘には慣れていない。
「お嬢さん? マット嬢?」
「……はい、石鹸卿」
ウールの顔には複雑な模様が織り込まれていた……怯え、羞恥、困惑、戸惑い。おや、比喩ではなくなにかしらの模様があるらしい。ここまで汚れているのでははっきりしないが。
石鹸卿からなにを云われるのかと戦戦兢兢だったウールは、次の瞬間気を失いそうになった。「よければ、君を洗わせてもらえないだろうか?」