ウール・マットはレイン・シューズにつっかかられる
ウール・マットは項垂れていた。
彼女は石鹸卿のお邸のパーティに参加しているのだが、頭のなかはひとつの言葉で一杯だった。「帰りたい」だ。彼女は一刻もはやくこの場から出て行きたかった。うすよごれたドレスをまじまじと見詰められ、くすくす笑われるのはもう沢山だったし、それが自分の丹精したものであれば尚更耐えがたい屈辱だった。
ウールは壁によりかかるようにして――そして、できればこのまま壁の一部になってしまえればいいと思いながら――立っていた。手には細い羊毛の糸玉と、シャトルを握りしめている。パーティに来て編み物もないが、彼女は先程からちまちまと薔薇のモチーフを編んでいた。
これをしていれば落ち着くし、なにより自分は社交界に貢献しているという気分になれる――編み物をしているからあのみっともない娘を無理に踊りへ引きずり出すこともあるまい、と、周囲の殿方にいいわけを用意することによって。
ウールはモチーフを一枚編み上げ、ブリッジを編んでそのまま次のモチーフを編み続けた。彼女は今夜デビューしたが、自分が間違いで呼ばれたのはわかっていた。実際のところ、彼女は世話になっている親戚の娘、レイン・シューズがはじをかかなくてすむようにここに居るのだ。
石鹸卿――今夜の盛大なパーティの主催者だ――の親族はウールがまだデビューしておらず、そもそもデビューに必要な金もなく、着ているものはすべて自分で編んでいることも知らないのだろう。知っていれば、「シューズ家が預かっているお嬢さんも是非いらしてください」などと云うことはあるまい。大事な娘のデビューのパーティに、野暮ったい編み物をわざわざ呼びたいだろうか。これがもっと洗練されて、せめてもっとずっと綺麗に洗えていたら……。
レイン・シューズは出掛けにウール・マットを突き飛ばし、急いで編み上げたドレスを泥まみれにした。不思議なことにその現場を誰も見ていなかったらしいが、レインはウールを踏みつけ、靴底の泥をたっぷりとぬりたくってくれた。
レインは数日前から、ウールのようなみっともない子と一緒にパーティに行きたくないとごねていた。石鹸卿という古くからの伯爵が主催でなければ、彼女の父母もいつものようにわがままをきいてやっただろう。しかし、レインの父母は今度ばかりは娘のわがままをきかなかった。相手がめったに自宅でのパーティを催さない、神経質な石鹸卿とあらば、「出席すると云っておいてすっぽかしたらどうなるか」がこわかったのだ。
レインはそんなことでへこたれる娘ではなく、実力行使に出た。ウールの過失でドレスをだめにしたなら、そしてウールにほかに夜会用のドレスがなかったら、自分に責任はない。そう考えたのだろう。
使用人のミセス・ステープルファイバーが居なければ、ウールはそこで諦めていたに違いない。ミセス・ステープルファイバーは実に冷静で、ウールが自分で転んで泥まみれになったと妄言をまきちらすレインを黙らせ――「お嬢さま、はやく馬車にのらないとパーティに遅れます」――、あまりのことに言葉も出ないウールを宥めて風呂場へつれていき、優しく洗ってくれた。縮むのがこわくてウールは体を洗うのは苦手なのだが、ミセス・ステープルファイバーはウールを縮ませることなく洗ってくれた。
その後、慎重に体を乾かし、ウールは遅れて石鹸卿のお邸へやってきた。ミセス・ステープルファイバーと一緒にはいってきたウールを見たレインの顔は酷いものだった。ご自慢の天然ゴム製の顔をぐんにゃりゆがめ、お友達のアンブレラ嬢やコート家の若者が慌てるのもかまわず、ぷいと不機嫌そうに顔を背けてウールから離れていった。
ミセス・ステープルファイバーは、使用人達の部屋に居る筈だ。わたしも一緒にそこに居られたらいいのに。
ウールは溜め息を吐いて、ブリッジを編む。こことここをつなげて……そうしたら後はこちらを編んで……後しばらくで襟飾りにできるわ。
「ウール」
顔を上げると、レインがにやにやしていた。手にはたっぷりのクラレットが注がれたグラスを持っている。「レイン、なあに……」
「あんた、パーティの意味をわかってる? 編み物の会じゃないのよ。もっと楽しまなくちゃ」
「え、ええ」
「ほら、もらってきてあげたわ。たっぷり呑みなさいよ」
レインは意地の悪いにやにや笑いをうかべていた。ウールが反応する間もなく、彼女はグラスを投げて寄越した。
ウールは悲鳴をのみこんだ。泥を落とし切れていない彼女が更に汚れる前に、間に割り込んで、まっしろい体に酒を被ったのは、石鹸卿だった。