表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/8

石鹸卿の憂鬱




「随分みすぼらしいお嬢さんが居たものだな!」


 もの思いに沈んでいた石鹸卿ラノリンは、不意に近場であがった野太い声に我に返った。


 あのみっともない胴間声はスネークグアド・スターチだ。今夜も喋る度に細かい粉を飛ばすので、距離をとったつもりだったのだが、あちらさんは活発と見えてうろつきまわっている。いつの間にか傍に来ていた。

 スターチ家の者は知能の面であまり恵まれていないので扱いやすいのだが、なにをするにしても粉をまきちらすので、近寄りたくない気分の時もある。ラノリンはまさに今夜、そんな気分だった。ろくに顔を合わせたこともない親戚のデビューに膨大な金をかけ、しかも自宅の広間までつかわせてやっているとあれば、些細なことでいらついても当然だろう。


 実際のところ、問題それ自体は「些細」なものではなかった。彼はいとこの子で、父親の居ないバター・ファッティアシッドコースティックソーダの後見人として、あらゆる便宜をはかってやってきた。それが今はどうだろう? 何十組もの男女が身を寄せ合って踊るなかで、わたしはファッティアシッドコースティックソーダ一族からはないがしろにされ、スターチ家の者から苦労して逃げまわっている。家主であるわたしが!


 石鹸卿はパーティやこの手の集まりを好んではなかった。きらいではない。開催場所が自宅でさえなければ。


 明日になれば惨状が明らかになるだろう。スターチ家の者達がまきちらしていったやけに細かい粉、アストリンゼント家が「結露した!」と大騒動した名残――それは大概、彼にとっては耐えがたい輪染みとなって床やじゅうたんに実に素晴らしくみっともなさを付け加えてくれる――、パウダー家とルージュ家の羨ましいくらいに親しい()()の痕――椅子やテーブルクロスに残る忌々しい色、色、色――、そして極め付きが、絶大な洗浄力を誇る彼をもってしても苦戦する、おそるべきヴィネガー一族のつかったナプキン。こればっかりは彼でも簡単には洗えない。

 彼のような固形石鹸は脂肪酸と苛性ソーダとの化合物なのだ。アルカリ性である。酢のような、簡単に手にはいるにしては不釣り合いなほどにphの低いものがしみこんだナプキンなど、激しくすすぎを繰り返した後でもない限りは体に近寄せたくはなかった。不用意に酢を体につけてしまったら、美しくない酸性石鹸ができてしまうではないか……。

 彼は石鹸卿らしく、汚れているものを見ると洗いたくなる性質(たち)だった。そして石鹸としてのプライドが、「落とせない汚れ」で傷付いてしまう。自宅でなければ後片付けの心配なんて要らないから問題ないのに、バターの母親のヘットが、娘の一生に一度の晴れ舞台だからどうしてもなどと云うから、渋々邸をかしたのだ。


 石鹸卿は頭を振り々々、スターチ一族から距離をとろうと、組んでいた長い脚を伸ばしてさっと立ち上がった。ジャケットの裾が翻る。

 一族のなかでも特に上等な化粧石鹸として、彼はきちんとした格好をすることを心がけていた。無塩析の連中と違い、あぶら臭くもなければ水や湯に触れるとだらしなく溶けてしまうような体型でもない。数度の塩析によって、石鹸卿はかがやくばかりの白い肌と、ほとんど匂いをさせない体を手にいれていた。勿論、グリセリンはほとんどとりのぞいているから、すぐに水と結び付きもしない頑丈な体をしている。


「石鹸卿」

「やあ、化粧水卿」

 話しかけてきたのは、上等ながらす壜にはいった化粧水卿だった。ふたりは礼儀正しく握手をかわす。「随分しゃれた壜にかえましたね。話題の、あたらしい工夫がされたという鶴首では?」

「娘が新調してくれたのです。液だれがしない。石鹸卿こそ、あたらしい枠をつかっていらっしゃるらしい」

「いや、古いものです。先週物置を掃除をしていたら、曾祖父の代のソープボックスが出てきましたのでね。一度煮溶けて枠へはいりました」

「石鹸卿の一族はきちんとしておいでですな。あのお嬢さんも伝統を受け継いで……うちは困ることも多いのです。最近の若い者は、がらすでしゃれるのでは飽き足らず、プラスチックだのなんだのの壜に鞍替えしている。傷むから透明なものは宜しくないというのに、光でどんどん劣化していって……わたしは最近、ようやくとがらす壜に慣れたばかりだというのに」

「皆さん流行に敏感なのでしょう。閣下もお若い頃には、最先端の吹きがらすなどでご令嬢がたに騒がれていたとか」

「いやいや」

 まんざらでもないように化粧水卿は微笑む。

「たいしたものではありませんよ。憧れだったフラノ嬢には見向きもしてもらえませんでした」

「そんなことは……合成洗剤がたが華々しく社交界で活躍している今、石鹸など、プラスチックの箱にいれようとなにをしようともう古くさいばかりで……」

 石鹸卿はそう謙遜しながら、スターチの()()が騒いでたのはあれか、と目を瞠った。たしかに……実にみすぼらしい、汚れの為に織物か編み物かわからないような、やけにうすべったい布の娘が居る。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] クレイジー!!!(最大級の賛辞として) しかも、翻訳小説っぽい本格的な貴族社会の雰囲気! でも出てくるのは石鹸とかスターチとかお酢とか!! なんじゃこりゃ…なんじゃこりゃ…となってます。 …
[良い点] 本当に書いてくれたんですね!!ありがとうございます!! >一度煮溶けて枠へはいりました →ここで笑いを禁じ得ませんでしたwww 凄いなぁ。石鹸を手作りされたことがあるだけに、キャラ設定…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ