第3章~朝礼で見かけた人が
そこで自分は思いました。
「流しの背後から話し掛けてくる奴は、同僚の誰かの声って事なのか?」
「それじゃあ、機械室の右端の角まで追って行くのも分かるよな…」
自分は、兼ね兼ねこの噂を聞いていたので、流しで石鹸を泡立てて洗顔している時は、半身になって後方に注意しながら必要最低限の時間で洗い流していました。
目の周りに付着した泡が少しでも流れると、その度毎に即刻背後を確認しました。
そんな事をしていたので、顔に付いた泡を完全に洗い流すだけで3回以上後ろを振り返っていました。
その甲斐があってか、これまで自分は流しの背後から1度も話し掛けられた事はありませんでした。
佐伯さんが監視室に怒鳴り込んだ騒ぎがあってから、何故か2ヵ月以上もその案件がピタッと収まりました。
それもそのはず、貯湯槽整備や受水槽整備の為に流しの水栓にホースを接続して、長々と各業者に貸していたからです。
業者が作業中でない時は、水栓からホースを外して流しを使う事も出来ましたが、面倒なのでその間は機械室北側のシンクを使っていました。
一定の期間、例の噂を耳にしなくなると、同僚の皆さんは特に気にしなくなりました。
受水槽整備が終わって流しが解放された後も、背後には誰も現れませんでした。
それは、流しの後ろ側に業者が置きっぱなしにしていた機材が、1週間位山積みになっていたからかも知れません。
その機材がすっかり片付いた後も、誰も流しの事を気にしなくなっていました。
それは、流しの後ろ側の蛍光灯を一斉に取り替えて照度を上げたからでした。
これで、誰かが流しの背後に来たとしても、そうそう隠れられないと思っていました。
自分も、ボイラーの警報テストをした後には、上半身裸になって後方を気にせず石鹸を泡立てて流しで顔を洗うようになりました。
やはり、石鹸を使うと顔の脂っぽさがスッキリするので、テカリやすい額と鼻の辺りは入念に洗っていました。
すると、この体勢になるのを待ち侘びていたかのように、自分の背後から誰かが話し掛けてきました。
「遂に自分の背後にも来たか…」
とは思いましたが、顔に付いた石鹸の泡を洗い流さないと、とても振り向ける状態ではありませんでした。
そこで、自分は後ろを見ないまま答えました。
最初は、何気ない日常の仕事の話からでした。
「今、何の点検をしているの?」
みたいな話から始まりました。
その声は瀬尾さんではなかったのですが、聞き覚えがある事だけは確かでした。
「ん?この声は同僚の今野さんか?」
「え~と、彼は今日出勤だったかな?」
「あっ、そういや朝礼の時にいたなぁ、彼は宿直明けでお昼迄残業だったよな…」
「でも、もう14時過ぎだというのにまだ残っていたのか…」
そう思い、今度は自分から話し掛けてみました。
「ねえ、もしかしてだけど今野さん?」
と、比較的大きな声で言うと、背後にいた誰かはそれに答えずに、
「こっちにある空調機がおかしいんだよ!直ぐに来てくれる?」
と、急かしてきました。
自分は、何事か?とは思いましたが、ここは焦らずにゆっくりと顔を洗い流しました。
「とにかく冷静になろう」
「ここで走って追いかけるなんて以ての外だよな…」
とりあえず、普段通りの速度で替えのシャツを着ると、声がしてくる方向へ歩いて行きました。
同僚の皆さんからは、その声は斜め右側から聞こえてくると言われていましたが、自分にとってはどうも上部からのような気がしてなりませんでした。
でも、言われてみれば右側から聞こえてくるような感じもしました。
機械室の右奥に進んで行くと、人影が死角の先へスッ-と消えていきました。
自分は、時折左右を見回しながら進んで行くと、今度は斜め右側にある空調機の裏からはっきりとした声がしました。
「早く早く~、こっちこっち!」
自分は、言われるがまま歩いて行くと、その先は機械室右端の行き止まり地点でした。
その時、自分はサーッと血の気が引きました。
「あれが噂の流しの背後から話し掛けてくる亡霊なのか…」
「それも聞き覚えのある声だからつい耳を傾けちゃうんだよな…」
「とにかく差し当たって早急に今野さんを探そう」
中央監視室に戻って勤務表を見ると、確かに今野さんは明けで残業をしていました。
しかし、1階の通用口にある今野さんのタイムカードを見ると、2時間以上前にとっくに帰っていたのです。
「こ、これは一体…」
「自分の背後から聞こえた声は確かに今野さんだった筈…」
「それも、今回は朝礼の時に会っていた人だったとは…」
「しかし、その声の主は今現場にはいない…」
機械室右端に向かって歩いていた時は、今野さんだと思い込んでいたからでしょう。
だから、その思い描いていた姿をいきなり見失った時は、ショックを隠し切れませんでした。
佐伯さんの時の様に監視室で騒ぐ事無く、しっかりとこの目で同僚の勤怠を確認する事が出来たものの、冷静さを欠いていたらどうなっていたかは知る由もありませんでした。
流しの背後から話し掛けてくる誰かは、何かしらの意図で機械室右端の行き止まりまで呼び寄せているのだろうか?
だとしても、そこに幽霊がいた訳でもないし、誰かの忘れ物があった訳でもありませんでした。
よく、突然急逝された人が、人に見られたくない物を処分出来なかった事を悔やんで、その近くに繰り返し現れるというのを聞いた事があります。
しかし、機械室右端の一画に限れば、世に言うヤバい物は出て来ませんでした。
今回の案件で、同僚の何人かはひそひそ話をしていました。
それを、偶々聞いた時にこんな事を話していました。
「もしかしてだけど、あの辺りに札束でも隠しているんじゃないか?」
それを、冗談で言っているのか本気で言っているのか半々で聞いていましたが、同僚の何人かは機械室の右端にある空調機を隅々まで入念に調べていた事がありました。
結局、作業着が真っ黒になっただけで何も発見出来ませんでしたが、ボイラー室内で点検をしない同僚の間でも気になっている事だけは確かでした。
自分は、行き止まりからトボトボと立ち去ると、暗澹たる気持ちのまま機械室を何周も徘徊しました。