第2章~背後に現れる前の警戒
それからは、ボイラー室で点検作業があると、暑さで思考が飛びそうになるのを回避すべく、独自にやり忘れ防止の点検を何度も行っていましたが、それだけでは飽き足らず作業後にも懸念する事柄が増えたのです。
ボイラー室での作業を間違いなく行うには、とにかくめげずに時間差で点検するに限ります。
あとは、缶底ブロー中には他の作業をしてはいけないというのがありますが、せっかちな人は待ち切れずに他の作業をしてしまう事があります。
この時間だけはじっと待たなければなりませんが、これが実に重要な事なのです。
だいたい、点検開始から30分前後で暑さにやられるので、一旦椅子に座って水分補給をします。
手順に沿って点検を進めていき、最後には試運転をしてから釜前の操作盤を手動から自動に切替えます。
最後に点検したボイラーが、パラマトリクスで翌日の番手になっているのを確認すれば言う事はありませんが、たまにPIC(圧力指示調節計)やLIC(レベル指示調節計)の設定を基準値に戻し忘れてしまう事があるので、作業が完全に終わる迄は点検中の札を外さないようにしていました。
ここまでで何も異常が無ければ、やっと汗まみれのシャツを着替えたり顔を洗ったり出来るのですが、あの流しで顔を洗う際は背後に誰かが来ても直ぐに確かめられるように、ほとんどの方は半身になって構えたままの状態でした。
ただ、警戒している時に限って、1ヵ月以上は誰も背後には現れませんでした。
ボイラー室で作業を終えた人が、流しで頭や顔を洗っている時は、極力話し掛けないように釘を刺していたのも効果的だったと思います。
あれからもう2ヵ月が過ぎた頃には、この悪戯の手口は皆に知れ渡ったし、そうそうやって来ないだろうと思って同僚の方々は安心していました。
念の為に、流しの両脇に盛り塩をしていましたが、それが段々と汚れたり散らばってきたりしたので、いつの間にか誰かが綺麗に片付けていました。
自分はそれを見てこの一件は解決したのだと思っていました。
その日に、ボイラーの点検作業に当たった方は佐伯さんでした。
佐伯さんは、ボイラー室に入る前に、
「もう、流しで顔を洗っている時には後ろなんて気にしなくてもいいだろう」
そう言って、軍手をしてから作業に取り掛かりました。
ボイラーの警報テストは順調に終わり、あとは汗を拭き取ってから通常勤務に戻るだけでした。
宣言通り、佐伯さんは全く背後を気にせずに流しの前に立っていました。
そして、白い石鹸を両手で勢い良く泡立てました。
石鹸をケースに戻すと、蛇口の下側に頭を潜り込ませました。
すると、今度は佐伯さんが洗顔している時に、背後から誰かが話し掛けてきたのです。
佐伯さんも木内さんと同様に、急いで顔に付着した泡を洗い流すと、上半身裸のままで呼び声がしてくる機械室の右斜めに向かって走って行ったのです。
現場の中でも足が速い佐伯さんは、行き止まりに着く前に必ずやそいつを捕まえてみせようと思って猛ダッシュをしました。
何を隠そう佐伯さんはこの日の為に、流しから機械室右奥の行き止まり迄の通路で追跡の予行練習を繰り返し行っていたのでした。
猛ダッシュをする為には、何と言っても通路が空いている事が必須条件なので、佐伯さんは流しで洗顔する前には必ずその通路に誰かいないか確認していました。
しかし、軽快な足捌きで追っていった時に、一瞬だけ人影らしき物が見えたのですが、機械室の一番右奥にある空調機を左から回り込むようにして走っていくとやはり誰もいないのです。
佐伯さんは、足に自信があるだけにショックを隠し切れませんでした。
「確かに声がする方へ追い掛けて行った筈だ…」
「だとしたら何で追い付かなかったのか?」
「まさか、どっかに隠れているんじゃないか…」
佐伯さんが目を付けたのは、機械室の右奥にある使われていないロッカーでした。
「きっとここに隠れているに違いない!」
そう確信して、荒々しくロッカーの扉を開けていきました。
4連繋ぎのロッカーを3ヵ所開けましたが、予想に反して誰も入ってはいませんでした。
「という事は、最後の扉の中かっ!」
とは思ったものの、丸っきり人の気配を感じませんでした。
そこで、何となく緊張感が高まりましたが、
「ええい、これで最後だ~!」
勢い良く4番目のロッカーの扉を開けたものの、そこには塗料と布コロナマスカーしか入っていませんでした。
その時、佐伯さんはガッカリしたのと同時にゾクっとしました。
それから、こんな思いがこみ上げてきました。
「ここでもないなら何処に行きやがった!」
佐伯さんは同僚の中でもかなり気が短く、誰かに悪戯されたと思ってブチ切れた状態で中央監視室にやって来ました。
「おい!誰だよ!!」
「さっき俺の後ろから話し掛けてきた奴はよっ!」
「流しで顔を洗っている時は、あれほど話し掛けるなって言ってあっただろ!」
興奮した様子で捲し立てると、同僚の皆さんは口を揃えて、
「うちらはずっと監視室にいたよ…」
と、言うのです。
佐伯さんは、血走った目をしながら更に続けました。
「いや、そんな事はない!」
「さっき確かに俺の後ろで瀬尾の声がしたんだ!」
「今、瀬尾は何処にいるんだよ!」
すると、川又さんは即座に立ち上がって、
「今日、瀬尾は休みじゃないか!」
「お前も朝礼に出ていたから分かるだろ!」
驚いたように佐伯さんを凝視しました。
さすがに、ここにいない奴の仕業という事はないので、佐伯さんは振り上げた拳を降ろさざるを得ませんでした。
「チッ!でも、何か聞き覚えがある声だったんだよな…」
そう言い残すと、佐伯さんは再びボイラー室に戻って行きました。