第1章~こんな状況で呼び掛けられたら
皆様は、何かの作業中に何処からともなく話し掛けられた経験はあるでしょうか。
誰しも視界の範囲外で物事をこなすのは、どうもあやふやな感じになりますよね。
ですが、大きな影響を及ぼす事なんてほとんど無いでしょう。
後ろから話し掛けられていると思ったら、実は横からだったという程度の事かも知れません。
その声に全く聞き覚えが無かったら、自分自身への話ではないと思って無視するでしょうか。
しかし、それが日頃から聞き慣れた声だったとしても、その呼び掛けに全く反応しないでいられるでしょうか。
1回、2回は無視したとしても、結局は振り返ってしまうのではないかと思います。
そんな時、相手の姿が見えずに向こうから声だけが響いて来たとしたら、皆様でしたらどうなさるでしょうか。
これはおかしい!
と、思って、再び無視を決め込むでしょうか。
しかし、人間は何かをやる(聞く)と思ってしまうと、その思いは簡単には打ち消せません。
結局は、その声がする方に意識が向いてしまうのです。
では、それで1回騙されたからといって、次からは絶対に騙されない自信があるとお思いでしょうか。
いいえ、それは残念ながら無理な話なのです。
このお話の当事者曰く、いくら気を付けていてもいつの間にか信じ込まされてしまっている…。
と、語っていました。
日頃から、皆様の背後には何も存在していないと言い切れるでしょうか。
見えていない、聞こえていないというだけで、見える人には見えているのかも知れません。
そんな事を思いながら読んで頂ければと思います。
このお話は、2006年(平成18年)の事になります。
以前と同業の設備管理の仕事に転職して、最初に配属された現場では、真冬以外は常に大量の汗をかいていました。
設備点検で特に汗をかく作業は、ボイラー室での空調機器点検とボイラーの警報テストでした。
ボイラー室の温度は、真冬こそ30℃を切るところまでいきますが、真夏では45~48℃はあります。
それが、中間期の春と秋でも35~42℃はあったと思います。
そんな状況なので、ボイラー室で1時間以上も点検作業をしようものなら、全身汗だくになってしまいます。
ただ、ボイラーの点検作業中は、いくら室内が暑くても作業着を脱ぐ訳にはいきませんでした。
何故なら、ボイラーの配管回りはとても熱い為、直接皮膚と接触しようものなら火傷をしてしまうからでした。
ボイラー室の作業が終わってから、大量にかいた汗を流すべくシャワーに入れればいいのですが、直ぐに通常勤務に戻らないとなりませんでした。
仕方がないので、とりあえずは風邪を引かないように、シャツだけを着替える人が多かったと思います。
シャツを着替える為に、ボイラー室で上半身裸になってから機械室へ抜けて行くと、そこには随分と年季が入ったフィルター洗い場が鎮座していました。
フィルター洗い場(フィルター洗い場は今後“流し”と表記します)とは、太い柱の高さ1メートルの所に横水栓が2個設置されていて、その下をコンクリートの枠で囲っていました。
そこは、既存の流しではなく、柱の真下にグレーチング(排水路にかけてある格子蓋)があった為、そこに流れる様に後付けで施工した物でした。
囲いの寸法は、縦80cm、横90cm、高さが30cmで上部の縁の厚みは12cmでした。
その流しで、汗を吸って重くなったシャツを、何回も水に潜らせては絞り、濡れたシャツで上半身の汗を拭き取ります。
その後、ザっとシャツを水洗いして、そこそこ絞ってからボイラー室のヘッダーバルブの所に干しておくと、1時間もしないうちに乾くので夏場は何度もそうやっていました。
その1時間は、作業着の上だけで過ごすのですが、シャツを着ていないとどうもゴワゴワして落ち着きませんでした。
ボイラー室でシャツを干すと、上半身裸のままで流しに戻って行き、今度は石鹸かボディーソープで脂ぎった顔を洗うのですが、その時に同僚の川又さんの後ろから誰かが話し掛けてきたのです。
川又さんは、後ろからの問い掛けに答えようとしましたが、顔面には泡立った石鹼がいっぱい付いていたので、それを流してからでないと顔を上げる事が出来ませんでした。
急いで顔に付いた泡を洗い流していたものの、背後からお構い無しに話し掛けてくるので、あやふやな返答だけはしていました。
しかし、それがあまりにもしつこいので、
「うるせぇな!ちょっと待ってろよ」
と、イライラしながら答えました。
川又さんが、やっと顔を洗い終えると、徐に替えのシャツに腕を通しました。
「何だぁ?急いでんなら他の奴に言えよ!」
と、眉間に皺を寄せながら背後を見たものの、もうそこには誰もいなかったのです。
「誰だよ!さっき俺を呼んだ奴は~!」
「隠れてないで出て来いよ!」
そう叫んだところで、辺りは機械のモーター音しか聞こえませんでした。
「まだ遠くには行っていない筈だ!」
川又さんは、近くの柱や動力盤の裏を隈なく回ったものの、同僚の人はおろか業者の人とも遭遇しませんでした。
そこで初めて気が付いたのです。
「もし、あの声がする方に行っていたらどうなったんだろう…」
「かつて俺に恨みでもあった奴らの怨霊か?」
そう思ったかどうか分かりませんが、川又さんは流しからなかなか戻ってきませんでした。
それで、自分が流しの方を見に行った時に、呆然と立ち尽くす川又さんがいたのです。
「何かあったんですか?」
そう話し掛けたものの、川又さんは心ここにあらずという状況でした。
その時の状況を味わった人達により噂が広まると、現場の一部ではちょっとした話題になっていました。
それから数日後、今度は同僚の木内さんがボイラー室での作業が終わり、川又さんと同様に石鹼を泡立てて流しで顔を洗っていると、また背後から誰かに話し掛けられました。
すると、木内さんは急いで顔を洗い流しました。
そして、川又さんの時とは違って、シャツを着ないで後ろを振り返りました。
すると、背後にいた筈の誰かは不気味な笑い声をあげたまま、機械室の右斜め向こうに走って行ったのです。
木内さんは上半身裸のままでしたが、透かさずその誰かを追って行きました。
その声が聞こえてくるのは、必ず右斜め先にある死角になっている場所からなので、誰なのかを確認する事は出来ませんでした。
そのうち、機械室の一番右奥にある空調機を左から回り込むようにして走っていくと、その先は建物の角(出隅)になっていて、行き止まりにも関わらずその人を見失ったのです。
木内さんは、ゆっくりと着替えてから中央監視室に戻ってきました。
そして、さっきまでの経緯を話すと、ぐったりと腰を下ろしました。
しかし、同僚の皆さんは誰かの悪戯なんだろうと思い、然程気にしている感じではありませんでした。
何故なら、ボイラー室で点検作業をする人は全員ではなかったので、その仕事に関わりがない方は話半分で聞いていたからでしょう。
しかし、これからもボイラー室での作業を続ける人にとっては、気持ちのいいものではありませんでした。