ファースト エンゲージメント
「テレーザ・デ・アルボル!其方との婚約を破棄する!」
王城に呼び出されて一方的に告げられた言葉。
テレーザは後になって、人間は驚き過ぎると言語能力が一時的に退化するのだな、と、思った。
目の前で婚約破棄を宣言した男、第一王子フアンは、得意げに踏ん反り返ってテレーザを見下ろした。
「其方、この私の交友に口を出し、剰えあろうことか私の友人らに圧力をかけ、私を孤立させようとしているそうだな。」
“いやいや、貴方の女癖が悪すぎて、なぜか私にまで苦情が来るんで対処してるだけですけど?!”
「王を支えるべき伴侶になる身としてその行いは下劣極まりない!従って其方との婚約を今日限り破棄する!」
“色々つっこみたいけれど、もう、ホント、マジでどうでもいいや。”
「殿下は何やら著しく誤解されていらっしゃるようですが、(正直もうどうでもいいので)婚約を解消する件に関しましては、御意のままに。」
ドレスの裾を広げて深く沈み込むように礼をする。そうして立ち去ろうとすると、扉の開く音とパタパタと足音がした。
「フアン様!!」
小鳥のような可愛らしい声と花のような甘い香りが、一瞬でその場の重苦しい雰囲気を変えた。
「ルイサ!よく来た。」
フアンはその少女ルイサの肩に手を回して引き寄せる。ルイサはギュッとフアンに抱きついた。
「ちょうど良い。其方に言っておこう。」
フアンはテレーザに向き直って告げた。
「私はこの身も心も美しいルイサ・ベラスケスとの間に真実の愛を見つけた。よってルイサを新たに婚約者に迎え、生涯の伴侶とする。」
“ベラスケス様って、お見かけしたことはあったかしら?確か、ベラスケス家って新興の男爵家よね?”
桃色がかったふんわり波打つ髪に、金色の髪飾りを付け、紫紺の瞳はテレーザを気の毒気に見つめていた。ルイサの着ている花柄のピンクのドレスは、フリルが重なっていて少し子どもっぽい印象を受けるがよく似合っていた。テレーザは会ったことがある人をほぼ憶えているはずだと思ったが、彼女は顔も名前も印象も記憶に無い。
“ああ、でも、フアン様の好きそうなタイプだわ。”
対するテレーザは濃紺から淡い青に移るグラデーションの、シックな雰囲気のドレスで、赤いガーネットのブローチがアクセントを添えている。漆黒の巻き髪が肩から背中にかかり、エレガントな大人の雰囲気が漂う。
“何より、この王子を引き取ってくれるなんて、なんてイイ人!”
テレーザは先ほどから眉一つ動かさずに、内心では非常に感動していた。
“これでこのろくでなしの世話を任されずに済む。愛の力は偉大だわ!”
思わず口元が緩み、もう一度深々と礼をする。
「それはおめでとうございます。末長くお幸せに。」
フアンにとって想定外だったのか、テレーザの態度に目に見えて動揺する。
「あ、あの!テレーザ様は、その、よろしいんですの?!」
ルイサは思わずといった風で訊ねた。
「よろしい、とは、婚約破棄のことですか?それともベラスケス様が殿下のお隣に治まるということですか?」
「え、ええ。そのどちらもです。」
“ダメって言ったらどうするのかしら?”
彼女に悪気はないんだろうけど、空気を読めてない態度にイラッとしたため、ちょっとだけ意地悪してみようかと悪戯心がうずいた。しかしわずかに込めた嫌味に気づいていないので、こういうタイプは絡むと絶対無駄に面倒なことになる、と思い直した。
「何も問題ございませんわ。」
「え!?」
「そもそも殿下と私との婚約は、まだ殿下と私が幼い頃に王家とアルボル公爵家で結ばれたこと。ただし、成人してお互いに結婚の意思が無い場合、望めば婚約を解消できるという取決めがございます。」
“そうなのよ。だからわざわざ殿下が私の罪をでっち上げなくても、好きな人ができたって言えば、即解消だったのよ。”
そう思ってちらりとフアンを見やれば、顔を引き攣らせて微妙に狼狽えている。護衛騎士の面々も表情には出ていないが、笑いを堪えている空気が伝わる。
「…な、ルイサ、大丈夫だっただろう?」
「フアン様…」
“あの顔は絶対忘れてたわね。じゃあ解消後のことも忘れている可能性大ね。”
二人は手を取って見つめ合い、いちゃつき始めそうだったので、テレーザは辞去の挨拶をしてさっさとその場を後にした。
「テレーザ姉様!」
中庭に面した王城の廊下を歩いていると、庭から声が掛かった。
見ると手を振りながら、金色の髪を煌めかせた青年が走って来る。
「ミゲル殿下」
長身の青年はテレーザの前で止まると、手を差し出した。
「兄上の所に行ってきたんだろう?もし時間があるなら庭でお茶しない?」
「…ええ。喜んで。」
テレーザは一瞬迷ったが、そのままミゲルの手を取った。
中庭の噴水の近くのガゼボにエスコートされ、向かい合って腰を下ろす。すると侍女達が手慣れた様子で飲み物とお菓子を用意した。
テレーザは出されたコーヒーにミルクを垂らし一口飲むと、テーブルに肘をついてニコニコ笑っているミゲルを見た。
「…ミゲル殿下、なんだか嬉しそうですね。」
「うん。嬉しいことがあったからね。テレーザ姉様は?」
コーヒーカップを置いて、考えながら答える。
「嬉しい、というか、ホッとしましたわ。」
「そっか。良かったね。」
「ええ。ありがとうございます。」
「ところでさ、そろそろ殿下呼びはやめてくれない?ミゲルでいいよ。」
「ミゲル…様?」
「うん。」
「それならば、私のことはテレーザと。もう、フアン殿下との婚約は解消されましたし。」
“書面の正式な婚約解消はこれからだけど、もう公爵家には殿下のサイン済みの用紙が届いているでしょう。”
「そうなんだってね。兄上が公言してた。だからもうテレーザは僕の義姉様にはならないんだね。それにしてもあの子が義姉なのは微妙だな。」
「ベラスケスの御令嬢ですか?」
「そうそう。そもそも王城でやっていけるのかも疑問。」
「まあ、フアン殿下がなんとかなさるんじゃ無いですか?」
「自分の肩の荷が降りたらかなりぞんざいになったねえ。」
眩しい笑顔を向けながら、美貌の第二王子は揶揄うように言う。
「だって、他人ですもの。」
もうこれ以上フアンの尻拭いをしなくて良いのだと思うと、テレーザも自然に笑みが漏れる。
「嬉しそうだねえ。」
「でん…ミゲル様こそ。」
「うん。僕は自分の計画通りにいっているから、気分が良くてね。」
「計画、ですか?」
「そう。」
“詳しいことは言う気がないって顔ね。まあ、そこまで興味は無いけど。”
にっこり微笑むミゲルだが、昔からこういう顔をする時は何か含みがある時だ。思っていることがそのまま顔に出る兄のフアン王子とは対照的で、腹芸が得意な政治家タイプだ。
「このマカロン、美味しいよ。最近、パティシエを城に招いたんだ。はい。」
ミゲルはピンク色の一口サイズのマカロンをつまみ、テレーザの目の前に差し出す。
「あ、ありがとうございます。」
テレーザが受け取ろうとすると、スッと引っ込めもう一度目の前に差し出す。
「はい、アーン!」
「え?!あの、殿下?!」
「ミゲル」
「ミゲル様…」
ミゲルは頬杖をついてにっこり微笑みながら、有無を言わせずテレーザの口に入れようとする。あまりのことに固まったテレーザに、ミゲルはもう一度微笑み、食べるまで手を離さないぞと目で訴える。
テレーザは。こんな恋人同士のようなやりとりをフアンともしたことが無かったので、しばらく迷ったが、おそるおそる身を乗り出して口を開く。
「う!」
マカロンをくわえる寸前、ミゲルが押し込もうとしたので指まで食べそうになった。
「申し訳ございません!」
あわてて口の中のマカロンを三口で飲み込みながら、ハンカチを取り出して拭こうとすると、ミゲルは自分の指をジッと見つめ、それからぺろりと舐めた。
「うん。美味しい。」
「え?」
「甘さがほどよくってまた食べたくなっちゃうね。」
そう言うと、深い緑色の目を細めて妖艶に微笑んだ。兄のフアンと同じ金色の髪に緑色の瞳はミゲルの方が若干深い色合いで、歳はテレーザより一つ下なのに、まるで相手を絡め取るような視線を投げかけられ、テレーザは思わず身震いした。
“これが第二王子。末恐ろしいわ。”
この日一番動揺したテレーザは、この後何を食べて何を話したのか覚えておらず、気がついたら家に戻ってきていた。
いつも通りの晩餐の後、改めて父公爵に呼ばれた。
「婚約解消は滞りなく済んだ。ご苦労だったなテレーザ。」
「いえ、お父様こそ、急でしたけどお骨折りありがとうございました。」
執務室の応接で、親子は軽くグラスを合わせ、領地特産のシェリー酒を飲みながら安堵の表情を浮かべる。
第一王子フアンの素行が悪化したのは、成人して社交パーティーに参加できるようになってからだ。昼間は紳士クラブ、夜は夜会と、正式な式典や宴以外は、婚約者のテレーザではなく、毎回別の女性をエスコートしていたと聞く。そんな女性達の間でフアンを巡って諍いが絶え無かったが、フアンは面倒くさがって全く取り合わないために、なぜか婚約者のテレーザに苦情が殺到し、テレーザの父アルボル公爵と共に事後処理に追われた。そういう経緯があったために、テレーザだけでなくアルボル家では、フアンの株はどん底まで落ちていた。
「問題無い。いつでも対応できるように既に準備していたからな。」
既に王室にも根回し済みで、お陰で特別騒ぎ立てることもなく淡々と処理が行われた。
「ところで、テレーザはこの後どう考えている?」
「…そうですね。しばらくはゆっくりしたいです。」
「そうだな。それが良い。将来のことはほとぼりが覚めた頃に考えるのが良いだろう。」
「良縁があると良いんですけど。」
「結婚しないならうちにいれば良い。」
「そんな、お兄様の奥様になる方が気の毒ですわ。」
「大丈夫だ。ホセ達にタウンハウスを任せて、我々は領地の本邸へ移れば良い。」
「それでしたら。」
父レオポルドは、娘に幼いうちから重責を担わせたことを密かに気にしていた。娘がそこから解放された今、今までの苦労を労ってやりたかった。
しかし、翌日、そうも言っていられない事態が起こる。