アールス・ブランブルーム②
アールス・ブランブルームは、侯爵家の長男として生まれた。
五歳上の姉がおり、それ以外に兄弟姉妹はいない。
それというのも、母はアールスを産んだことで亡くなり、父が後妻をとらなかったからである。
血と体面を何よりも重んじる貴族家としては大変に珍しいことではあるが、世間的には父が母を深く愛していたからだとして、美談のように語られていた。
当然、アールスは侯爵家の跡取りとして厳しい教育を受けさせられることになる。
まだ父母に甘えたい年頃であっても、泣くことすら許されぬような過酷な日々が続く。
そんな日々の中で、アールスがほっと息をつけるのは、姉のセシルといるときだけだった。
子供に対しても容赦なく厳しい顔を崩さなかった父は、アールスだけではなく姉のセシルにも厳しかった。
セシルは、侯爵令嬢として恥ずかしくない振る舞いを常に強要されていた。
少しでも子供らしくはしゃいだり声を立てて笑うと、父の顔が厳しく歪められる。
その後は決まって、叱責を受けるためにセシルは父の書斎に呼び出されるのだ。
アールスとセシルは、息が詰まりそうな日々の中で、お互いに安息を求めていたのかもしれない。
父に内緒で人目につかない場所に隠れた二人は、身を寄せ合うように抱き合っては他愛もないことで笑い合った。
しかし、姉弟が年相応の子供らしく振る舞うことは、父の機嫌を損ねる原因にもなる。
時が経つにつれ、セシルの真夏の空のようだった笑顔は、美しい貴族のお手本のような静かな微笑みになり、アールスに対してもどこか遠慮するような態度になっていった。
寂しさは勿論あったが、それも侯爵家に生まれた者の宿命だと、アールスもいつしかセシルに対し適度な距離を保った態度をとるようになっていった。
そんな中、十七になったセシルに降って湧いたように結婚の話が出たことは、ひどくアールスを動揺させた。
しかも相手は十以上も歳の離れた男爵で、その上セシルは第二夫人なのだという。
貴族である以上、結婚に某かの意図があるのは当然だが、格上の侯爵家から嫁いだ娘が第二夫人ではあまりにも道理が通らない。
さっさとセシルの結婚の話を纏めてしまった父に説明を求めてくってかかると、珍しく口籠って納得のいく説明がされなかった。
ならばと直接セシルに問いかければ、彼女は少しだけ困ったように静かに微笑んでいた。
「わたくしがお父様に無理を言ったのです。あの方との結婚は、わたくしが望んだものですのよ」
聞けば、とある夜会で出逢い、お互いに一目で惹かれ合ったのだという。
男爵は既婚であったが、そんなことは気にならないくらいセシルは彼に夢中になった。
男爵の元へ嫁げるならば第二夫人でもいいとまで言い出す入れ込みよう。
そこまで言われては、男爵家としては文句の出ようもない。
本来なら、侯爵家の令嬢に見初められたとなれば、今の妻と離縁するかセシルを正妻とするしか男爵に選択肢はなかったのだ。
男爵の妻は最後まで身分差を理由に反対していたようだが、ブランブルーム家から多額の支度金を提示され、渋々ながらも承諾したそうだ。
まるで少女小説のような恋愛を、美しい微笑みを湛えたセシルが他人事のように淡々と語る。
いつの間にやら、姉は立派な淑女になっていたようだ。
アールスは少しの寂しさと共に、貴族として模範のような振る舞いをする姉を誇りに思っていた。
話が纏まると、セシルはさっさと男爵に嫁いでいった。
家族との顔合わせもなく、式すら挙げず、ひっそりと嫁いだ姉が直ぐに子を授かったと報せを受けて、さすがにアールスも気が付いた。
やはりこの結婚には意図があったのだ。
侯爵令嬢が未婚の母となるよりは、男爵家第二夫人の方がまだマシということだったのだろう。
二人が本気の恋をしていたのか、それともただの火遊びだったのかはわからないが、誰にとってもあまり幸せな結婚ではなかったことは明らかだった。
まだ社交界にデビューしていないアールスは知らなかったが、夜毎どこかで開かれる華やかな夜会では、ブランブルーム家の令嬢の話題で持ちきりだった。
あの父が、社交シーズンの最中に体調を崩したとして領地に引きこもったくらいだから、相当だったのだろう。
更に、アールスには騎士学校への入学を父から命じられた。
次期侯爵が騎士になる必要性は全くないが、全寮制で世間から隔絶され、規律と戒律を何よりも重んじる騎士の卵たちの中に放り込むことで、少しでも姉の醜聞を耳に入れないようにしたかったのかもしれない。
その年に成人を迎えるアールスは、このまま次期侯爵として家督を継ぐための準備をするのだと思っていた。
降って湧いた騎士学校への入学の話に始めは戸惑ったが、そこは単純な強さに憧れる十二歳の少年でもある。
特に異論もなく、言われるままに王都の騎士学校へ入ることになった。
父の思惑通り、騎士学校へ入学したアールスの元には世間のいかなる噂話も届かなかった。
王侯貴族の名は、いつか守るべき対象としてしか知る術がない。
そしてそれは皮肉にも、実家であるブランブルーム家すら含まれていた。
そのため、六年間の学校生活を終えたアールスは、領地へ戻って初めてブランブルーム家の醜聞が終わっていなかったことを知ったのだった。